A Diary
これは旅立ったばかりのフロドとサムの物語です。
ガンダルフがわたしたちの元を去り、わたしとサムは白い花の咲く森の中の野原にとりのこされました。この花畑は向こうのほうまでずっと続いているようでした。森にはスパイとなりそうな獣も鳥もいません。せっかくサムと二人きりになれたのだし、少しくらいはいいだろうと、わたしは花を摘み始めました。
「だめですだよ、旦那!」
サムは心配そうにわたしを見ながらそう言いました。サムはガンダルフが戻ってきて怒るのではないかと思っていると分かりました。しかしガンダルフのことですから、もう遠くに走り去ってしまったと考えた方がいいのです。ですからわたしはサムに言いました。
「大丈夫だよ、サム。少しくらい。」
サムは困ったような顔をしていました。ああ、なんて可愛らしいのだろう!わたしはちょっと困ったようなサムの表情が一番好きなのです。こんなことを言うとメリーは必ず
「フロドさん、あなたは太ったホビットがよいのですか。」
と呆れ顔になるのだけれど、わたしはそんなことは構わないと思うのです。サムは本当に可愛いホビットです。きれいな茶色の大きい目をきらきらさせ、金色に近い巻き毛は朝露にひかり、ぽってりした体格からはサムの純粋な人格が滲み出るようです。サムに見とれている場合ではありません。ほら、サムがますます困ったような顔をしてしまいました。これ以上困らせるのはかわいそうです。わたしは手にいっぱい摘んだ花を抱えて立ち上がりました。
「分かったよ、サム。さあ、行こうか。」
「はい。」
サムは素直にそう答えました。とっつぁんはともかく、わたしとビルボのしつけが良かったのでしょう。サムは本当に素直で優しいホビットに育ちました。小さいころのかわいいサムを思い出すだけで顔が緩んでしまいそうでした。
「さあ、お前にもあげるよ。」
わたしは摘んだ花を一抱えサムに渡しました。サムは器用な庭師です。わたしのために何か作ってくれるとわたしには分かっていました。何を作ってくれるのかとわくわくしながら、わたしはサムの少し前を歩きました。期待に胸が膨らんで少し早足になってしまったようでした。
「少しゆっくり歩いてくだせえ、旦那〜。」
サムが少し慌てたようにそう言いました。わたしは出来上がりの品を見るまではお楽しみをとっておこうとして振り返らずに答えました。
「ごめんよ、サムや。」
「いえ、おらがのろまなだけで。」
「いいんだよ。」
わたしはサムから見れないと分かっていながらもにっこりと微笑んでみました。今度サムにどんな笑顔を見せようかと考えながら。
さて、少し歩きました。陽は暖かく野道は緩やかな坂を描いていました。わたしはもうそろそろサムが声をかけてくれるかなと思いながら殊更ゆっくりと歩いていました。
「旦那。」
ほら!サムがわたしを呼びました。
「なんだい。」
わたしはなるべく期待してたなどと思わせないように何気なくそう聞きました。
「旦那にこれをさしあげようと思って・・・」
サムは恥ずかしそうにそっとわたしに白い花でできた首飾りを渡しました。なんてかわいらしくきれいなんだろう!わたしはその花を見て、次にサムを見てこれ以上ないと言うくらいの微笑をサムに向けました。サムはわたしの期待したとおりぽっと頬を赤く染めたようでした。
「ありがとう、サム!」
わたしはサムからそれを受け取り首にかけて今度はサムの隣にきて道を進むことにしました。
もう少し歩くと陽気に暑くなったのか、サムが皮袋を取り出して水をごくごくと飲みました。健康そうなその音を聞くだけでわたしは何だか居ても立ってもいられない気持ちになりました。するとサムがわたしの方を向いたのです。そんなにものほしそうな顔をしていたわけではないと思うのですが、サムは慌ててこう言いました。
「すみませんですだ、おら、旦那がのど渇いてるって気がつきませんで。どうぞお飲み下せえ。おらのあとで悪いこってすが。」
悪いことなんかあるもんか!わたしはよっぽどそう言おうかと思ってしまいました。サムが飲んだものでわたしも水を飲む・・・顔がにやけそうでした。
「いや、お前はもう十分飲んだのかい?」
「はい、いただきましただ。」
「ではもらうとしようか。」
サムから手渡された水は冷たくてのどに心地よく、何だか甘いような気がしました。
さて、だいぶん道を進んだとわたしは思います。もうそろそろ2回目の朝ごはんの時間です。しかしなにぶん急いで出てきてしまったこの旅です。十分な用意がしてあるわけではありません。それにこんな野原や畑なんかで料理道具を一式並べるわけにもいきません。ですからわたしはポケットに詰め込んだりんごを二つ取り出してサムに一つ渡しました。これを食べようというわけです。ここでわたしは考えました。丸ごとのりんごをサムに渡してこのまま二人でかじるということはまずありえないでしょう。きっとサムはわたしの分をむいてくれるに違いありません。
「旦那、おらが食べやすくむいてさしあげますだよ。旦那のりんごをかしてくだせえ。」
やっぱり!わたしはしめたと思いました。やっぱりサムはわたしに甘いのです。昔わたしがサムに甘かったように。ビルボは
「そんなに甘やかしていいのかね。」
としょっちゅう言っていましたがサムはいい子に育ちました。わたしは間違ってなかったのだといつもそう思って満足するのでした。
「そうかい?わたしはこのままでもかまわないのだけれど。」
わたしはわざとサムをじらしたくてそんなことを言いました。本当は次のサムの言葉を待っていたのですけれど。
「だめですだよ!ほんとならおらがパイでも焼いてる頃ですだ。せめて食べやすくさせてくだせえ。このままかじったら旦那の顔がべたべたになっちまう!さ。」
わたしはその申し出にありがたくあずかることにしました。
「ありがとう、サムや。」
わたしはまたちょっと笑ってサムにりんごを渡しました。サムが器用にむいてくれたりんごはいつものパイと同じくらいおいしいものでした。
野原を通り過ぎるとでこぼこした道にやって来ました。畑のある歩きやすいところまではまだ1リーグ少々あるようです。サムは、今度はわたしの前に立って歩くと言ってききませんでした。
「おらが安全な道を探しながらお先に歩きますだ。旦那をこんな道で先にたたせるわけにはいかねえです。」
わたしはサムが危険な目に遭うのは嫌でした。しかしサムがわたしを思ってくれる気持ちが嬉しかったので承諾してサムを先に歩かせました。サムはゆっくり歩いていきます。岩や石をよけながら、時々わたしを振り返りながら。わたしは前を歩くサムの背中を見つめていました。大きな背中です。鞄にぶら下がったなべやらフライパンが楽しい音をたてています。わたしはサムの後姿に感慨深げに見とれていました。ああ、あの小さいサムがこんなにも大きくなって。しかもこんなに逞しくなって。わたしは知らない間にその背中を見つめてぼーっとなっていたようでした。気がつくとわたしは硬い地面にひっくりかえってしまっていました。
「旦那!」
サムがはっと振り返ってわたしを上から見ました。わたしは久しぶりにこけてしまったので恥ずかしくてサムの目を見れませんでした。でもサムはそれを勘違いして取ったようです。
「旦那!大丈夫ですか?血が出てますだ!」
あれ?わたしはふと自分の足を見ました。すると膝から少しではありますが、岩ですりむいたのでしょう、血がにじみ出ていました。サムはどうやらわたしが痛くてサムから顔を背けたと思ったようです。もちろんわたしはこれくらいの怪我なんて平気です。わたしは血が苦手な方ではありません。しかしサムは青ざめてわたしを見ていました。
「もうすぐ川ですだよ!そこまでおらがお連れします。」
何を言っているんだい?わたしがそう思った瞬間です。サムがわたしを抱え上げたのです!ひょいっと、軽そうに。サムの腕は温かくわたしを包みました。わたしはまさかこんな展開になるとはさすがに期待していなかったので少なからず驚きました。でもあまりの心地よさにうっとりと目をつむってサムの首に腕を回しました。そしてそっとサムの耳元でささやいたのです。
「わたしは大丈夫だよ。」
普通ならサムはこれでおたおたと慌ててしまって耳まで真っ赤に染めて立ち去るところですが、今わたしは一応怪我人です。サムはわたしをほっぽり出すことはできないはずです。わたしがそっとサムの顔を見上げるとサムはやはり顔を真っ赤にしてまっすぐ前を向いていました。ふふっとわたしは笑ってしまいました。サムは黙ったままです。何だか嬉しくなってわたしはサムにさっきよりもっとぎゅっと抱きつきました。
川に来ました。サムはわたしをそっとおろしました。
「さあ、おらに傷口を見せてくだせえ。」
サムはそう言いました。もうわたしは痛くもないので大丈夫だと言いましたがサムは承知しませんでした。
「悪い菌が入るといけませんだ。念には念を、ってとっつぁんも言ってますだ。」
サムはそう言いながらわたしの傷をそっとそのおきな手で洗ってくれました。川の冷たい水とサムの体温が気持ちよくてわたしは目をつむりました。そしてそっと目を開けるとまだ心配そうなサムの顔がそこにありました。
「ほら、そんなに心配しなくてもわたしは大丈夫だ。」
「本当で?」
「本当だとも。さあ、行こうか。」
「はい、フロドの旦那。」
サムはにっこり笑ったわたしの笑顔に安心したようでした。
「サム。」
わたしはなんだかわけもなく嬉しくなってそう名前を呼びました。
「?何です、フロドの旦那。」
「なんでもない。」
ふふっと笑ってわたしはサムの前に立って歩き始めました。もうすぐホビット村を抜けます。わたしたちの本当の冒険はここからはじまるのでした。
おわり
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