坂のある国 What I learned 2
次の朝は何事もなくやってきた。キノは小屋の中でお茶をわかし、携帯食料と一緒に飲んだ。抜き打ちの練習をして、カノンの整備をして、新しい鉛玉を作った。それからキノはエルメスに言った。 朝もやの中、キノは目立たないようにエルメスを押して歩いていた。大通りには人影はなく、キノはほっとしたような表情をしていた。歩いて城門にたどり着くと、まだ門は開いてなかった。ふうっとため息をつき、キノは城門にもたれかかって、朝もやの大通りをぼんやり見ていた。 しばらくすると、ガラガラと、遠くから馬車のような音が近づいてきた。しかも複数。国の中は朝もやでよく見えない。国の外は城壁に遮られている。が、音は国の外からのようだった。重そうな荷を積んでいるのか、音はゆっくりとこちらに向かっている。ある場所で音のひとつがぴたっと止まった。すると今まで沈黙していた門が、ギギィと軋み声をあげて開いた。 その少女は、他の大勢の人間と一緒に売られてきた。鎖で足首と手首をつながれ、前の人間と後ろの人間に挟まれるようにして連なっている。時折、列の後ろの方から罵声が響いてくる。そして、その数瞬後には、必ず鞭が飛んできていた。少女は、キノよりも二、三歳年下に見えた。いや、もしかしたら同じくらいの年齢なのかもしれない。しかし、やせ細り、肉のこそげ落ちた顔は、到底十代の子供には見えなかった。赤ん坊のようにも見え、老人のようにも見えた。しかし、少女は美しかった。その美しさは、誰もが一度、目をひきつけられてしまうほどのものだった。たとえボロを身にまとっていても。腕や足は極端に細く、しかしそれでいて均等を失わず、真っ白い肌を強調しているようにも見えた。整った顔立ちには長い黄金の髪がはらりと落ち、碧眼は朝もやに混じるほんの少しの光を反射した涙が浮かんでいた。その瞳が、キノの瞳を一瞬捉えた。少女の目にはキノではない誰かが、キノの瞳には少女が映っていた。 「キノってば、どうしちゃったのさ」 彼女は、少女の後をつけていった。少女は、坂の上の方に売られていくようだった。人売りによって鎖は途中で切られ、少女だけが豪華な馬車に乗せられた。少女は抵抗するそぶりを見せたが、馬車で来た人買いに鳩尾に蹴り込まれ、ぐっという音をたててから静かになった。少女の前後にいた人間達は、一瞬少女を、羨みと哀れみの表情で見たが、静かになった少女を認め、視線をそらした。しかし彼女は、少女から視線を外すことができなかった。そして気配を消し、人買いと少女の乗った馬車の後からついていった。 少女が連れてこられたのは、坂の頂上の街一番の金持ちの家だった。家というよりも屋敷だった。その周りには高い塀があり、その周りにさらに厳重な警戒態勢の兵らしき者達がいた。彼女は少女が中に入れられていく様子をじっと見ていた。その黒い瞳は、何事も見逃すまいとしている、猛獣の目のようだった。 大きすぎる玄関から、太った男が出てきた。男は、醜かった。いや、彼女がそう感じただけなのかもしれなかった。ともかくその男は人買いに何かを渡し、そのかわりに少女を受け取った。その男の腕にある少女は、男に比べてあまりに細かった。ぶかぶかする服かわりのボロ布が痛々しかった。男は、そんなことは構わないようだった。慣れた素振りでその場で少女の服を剥ぎ、まだ気を失っている、物言わぬ少女の体を舐めるように見た。そして満足したように、近くにいる人間に少女をまるで物のように投げ、何かを命令した。彼女には、その言葉は聞こえてこなかった。彼女は屋敷の中に消えた少女が見えなくなると、何も言わずに引き返した。 「ねえキノ。いつもなら、そこでズドン、でしょ」 彼女に使える武器は、ナイフだけだった。賢者の助言も、愚者の忠告もここにはなかった。もちろん、パースエイダーも、そのサイレンサーなどもない。ゆえに、彼女の武器はナイフだけだった。身に付けているもの、旅に使っているものだけでは足りなかった。彼女は、暗くなるのを待ち、あちこちの店からナイフを盗み出した。それから、昼間に道端にいた旅人から奪ったナイフもあった。旅人は抵抗もしなかった。 丘の上は、今夜も静かだった。屋敷の周りは厳重な警戒が夜を徹して行われている、はずだった。しかし、今夜の静けさは、いつもの静寂とは違っていた。今日の静寂には、血の臭いが混じっていた。家の周辺には、多くの死体が転がっていた。そのどれもが、ナイフで急所を一突きされていた。もしくは、うまく急所をはずれたものの、多量の出血によって死んでいた。騒ぎは起きなかった。襲撃は、誰にも知られることなく進んでいた。屋敷の中も、外と同じような状況だった。月も星もない夜だった。この状況は、朝になって誰かがこの屋敷の異臭に気が付くまで、誰にも知られずにすむ可能性がとても高かった。 彼女が少女のもとへと駆けつけた時、屋敷の中はしんとしていた。血まみれのナイフが、彼女の手の中にあった。彼女は、少女を見た。少女は朝もやの中で見た時と同じように美しかった。ただ、違っていたのは美しく髪が整えられ、豪奢な服が着せられていることだった。それから、体のあちこちに残る傷跡も、新しく増えていた。少女はもう・・・ 彼女は、何も言わなかった。ただ、少女に手を差し伸べた。ナイフを持たない方の手を。声を出したのは、少女の方だった。少女は、微笑んでいた。 少女は、ナイフの使い方も知らなかった。ただ一つ、自らの身を切り裂くことだけは、知っていた。少女は、躊躇する彼女の、小さく震える手からナイフを取り、自分の咽喉を刺した。そうして、さいごにもう一度微笑んだ。そして、聞き取りにくい言葉を発して息絶えた。 |