坂のある国  What I learned 2

 

次の朝は何事もなくやってきた。キノは小屋の中でお茶をわかし、携帯食料と一緒に飲んだ。抜き打ちの練習をして、カノンの整備をして、新しい鉛玉を作った。それからキノはエルメスに言った。
「さあ、行こう」
「・・・・」
「エルメス?エルメス!」
ばごっ、がんっ、と音がした。
「丁寧に起こして!あれ、もう行くの、キノ」
「早ければ早いほうがいいよ。見たくないものも見ずにすむ」
「いつかは見るかもしれないんだから、今のうちに見ておけばいいのに」
「・・・・」
答えはなかった。

 

朝もやの中、キノは目立たないようにエルメスを押して歩いていた。大通りには人影はなく、キノはほっとしたような表情をしていた。歩いて城門にたどり着くと、まだ門は開いてなかった。ふうっとため息をつき、キノは城門にもたれかかって、朝もやの大通りをぼんやり見ていた。

 

しばらくすると、ガラガラと、遠くから馬車のような音が近づいてきた。しかも複数。国の中は朝もやでよく見えない。国の外は城壁に遮られている。が、音は国の外からのようだった。重そうな荷を積んでいるのか、音はゆっくりとこちらに向かっている。ある場所で音のひとつがぴたっと止まった。すると今まで沈黙していた門が、ギギィと軋み声をあげて開いた。
「行けるよ、エルメス」
静かにそう言うと、キノは外に向かって歩き出そうとしたが、そこに立ち止まった。一台の馬車がキノの目の前を通り過ぎた。そこには、人間がたくさん積み込まれていた。その馬車だけではなかった。城門の外には、同じように人間を積んだ馬車、それに鎖で連なるようにつながれた人間の列ができていた。
「こういう国もあるよ」
エルメスが言ったが、キノは
「うー」
と言っただけだった。唸った後、キノは数回首を振って、エルメスを押して外に出ようとした。が、その場で凍りついたように止まっていた。
「キノ?」
エルメスが言っても、キノはその場に立ち竦んでいた。キノの視線の先には、少女がいた。

 

 その少女は、他の大勢の人間と一緒に売られてきた。鎖で足首と手首をつながれ、前の人間と後ろの人間に挟まれるようにして連なっている。時折、列の後ろの方から罵声が響いてくる。そして、その数瞬後には、必ず鞭が飛んできていた。少女は、キノよりも二、三歳年下に見えた。いや、もしかしたら同じくらいの年齢なのかもしれない。しかし、やせ細り、肉のこそげ落ちた顔は、到底十代の子供には見えなかった。赤ん坊のようにも見え、老人のようにも見えた。しかし、少女は美しかった。その美しさは、誰もが一度、目をひきつけられてしまうほどのものだった。たとえボロを身にまとっていても。腕や足は極端に細く、しかしそれでいて均等を失わず、真っ白い肌を強調しているようにも見えた。整った顔立ちには長い黄金の髪がはらりと落ち、碧眼は朝もやに混じるほんの少しの光を反射した涙が浮かんでいた。その瞳が、キノの瞳を一瞬捉えた。少女の目にはキノではない誰かが、キノの瞳には少女が映っていた。

 

「キノってば、どうしちゃったのさ」
エルメスが言ったが、キノは答えなかった。そして、
「ちょっと!もう出るんじゃなかったの?」
というエルメスの問いにも答えず、昨日与えられた小屋に引き返した。

 

 

 

 彼女は、少女の後をつけていった。少女は、坂の上の方に売られていくようだった。人売りによって鎖は途中で切られ、少女だけが豪華な馬車に乗せられた。少女は抵抗するそぶりを見せたが、馬車で来た人買いに鳩尾に蹴り込まれ、ぐっという音をたててから静かになった。少女の前後にいた人間達は、一瞬少女を、羨みと哀れみの表情で見たが、静かになった少女を認め、視線をそらした。しかし彼女は、少女から視線を外すことができなかった。そして気配を消し、人買いと少女の乗った馬車の後からついていった。

 

 少女が連れてこられたのは、坂の頂上の街一番の金持ちの家だった。家というよりも屋敷だった。その周りには高い塀があり、その周りにさらに厳重な警戒態勢の兵らしき者達がいた。彼女は少女が中に入れられていく様子をじっと見ていた。その黒い瞳は、何事も見逃すまいとしている、猛獣の目のようだった。

 

大きすぎる玄関から、太った男が出てきた。男は、醜かった。いや、彼女がそう感じただけなのかもしれなかった。ともかくその男は人買いに何かを渡し、そのかわりに少女を受け取った。その男の腕にある少女は、男に比べてあまりに細かった。ぶかぶかする服かわりのボロ布が痛々しかった。男は、そんなことは構わないようだった。慣れた素振りでその場で少女の服を剥ぎ、まだ気を失っている、物言わぬ少女の体を舐めるように見た。そして満足したように、近くにいる人間に少女をまるで物のように投げ、何かを命令した。彼女には、その言葉は聞こえてこなかった。彼女は屋敷の中に消えた少女が見えなくなると、何も言わずに引き返した。

 

 

 

「ねえキノ。いつもなら、そこでズドン、でしょ」
「彼女の目が、ね」
目が何さ」
「『キノ』に似てた。それから、師匠にも。そして、ボクにも」
「そ。それより、早く出ようよ」
ノは、エルメスを無視してごろりと床に寝転がった。そして夜までそのままでいた。眠っているわけではなかった。一言も、言葉を口にしなかった。そして、昼も夜も、何も食べなかった。水さえ、飲まなかった。キノは空腹を忘れていた。

 

 

 

 彼女に使える武器は、ナイフだけだった。賢者の助言も、愚者の忠告もここにはなかった。もちろん、パースエイダーも、そのサイレンサーなどもない。ゆえに、彼女の武器はナイフだけだった。身に付けているもの、旅に使っているものだけでは足りなかった。彼女は、暗くなるのを待ち、あちこちの店からナイフを盗み出した。それから、昼間に道端にいた旅人から奪ったナイフもあった。旅人は抵抗もしなかった。

 

 丘の上は、今夜も静かだった。屋敷の周りは厳重な警戒が夜を徹して行われている、はずだった。しかし、今夜の静けさは、いつもの静寂とは違っていた。今日の静寂には、血の臭いが混じっていた。家の周辺には、多くの死体が転がっていた。そのどれもが、ナイフで急所を一突きされていた。もしくは、うまく急所をはずれたものの、多量の出血によって死んでいた。騒ぎは起きなかった。襲撃は、誰にも知られることなく進んでいた。屋敷の中も、外と同じような状況だった。月も星もない夜だった。この状況は、朝になって誰かがこの屋敷の異臭に気が付くまで、誰にも知られずにすむ可能性がとても高かった。

 

 彼女が少女のもとへと駆けつけた時、屋敷の中はしんとしていた。血まみれのナイフが、彼女の手の中にあった。彼女は、少女を見た。少女は朝もやの中で見た時と同じように美しかった。ただ、違っていたのは美しく髪が整えられ、豪奢な服が着せられていることだった。それから、体のあちこちに残る傷跡も、新しく増えていた。少女はもう・・・

 

 彼女は、何も言わなかった。ただ、少女に手を差し伸べた。ナイフを持たない方の手を。声を出したのは、少女の方だった。少女は、微笑んでいた。
「わたしを、殺してください」
彼女は目を見開き、首を横に振った。少女は、もう自由なはずだった。それだけが、彼女の頭の中に駆け巡った。しかし、少女にはその思想は与えられていなかった。自由という思想が、少女にはなかった。少女は、売られたその先で身を売り、そうして食べるものと生活を手に入れろと教えられていた。そしてそれを、身を持って理解していた。少女は言った。
「わたしの生活は、あなたによって突然世界から消えました。私は何もできません。ですから、わたしを殺してください」
また、彼女が首を横に振った。少女の声の美しさと、その瞳に見つめられる喜びが、突如として暗転した。彼女は眩暈を覚えた。彼女の厳しい目にも表情を変えず、少女は言った。
「わたしは、城門にいるあなたを見ました。美しい目だった。強い者の目だった。わたしはあなたに憧れました。でも、わたしにはモトラドもなく、それに乗る術も知りません。パースエイダーも持っていません。その使い方も分かりません。ナイフも、持っていません」
少女の微笑みの前で、彼女は激しい頭痛に襲われていた。
「この国を出る前に、わたしはもう一度つかまるでしょう。この坂を下る体力はありません。もう一度つかまれば、また売られるでしょう。この国で、これ以上のよい家はありません。それがあなたの手でなくなったのであれば、わたしには、生きている意味はありません」
少女は、今にも泣き出しそうな彼女の目の前に歩いてきた。そして、もう一度言った。
「わたしを、殺してください」

 

 少女は、ナイフの使い方も知らなかった。ただ一つ、自らの身を切り裂くことだけは、知っていた。少女は、躊躇する彼女の、小さく震える手からナイフを取り、自分の咽喉を刺した。そうして、さいごにもう一度微笑んだ。そして、聞き取りにくい言葉を発して息絶えた。
「ありがとう。わたしは、さいごにしあわせの意味を知りました」
少女だったものを前にして、彼女は急に空腹を覚えた。そして屋敷の中は、耳が痛いほど静かだった。

続く。