過去の国 the
end of my regret
南からの光を浴びる草原に一本の道が続いていた。緑の中にうっすらと残された茶色のすじの上を、一台のモトラドが走ってゆく。運転手は黒いジャケットをはおり、その襟元をわずかに開けていた。右腿にはリボルバータイプのハンドパースエイダーのホルダーが見える。ゴーグルをしたその下にのぞく顔は、まだ十代のなかばだった。精悍な顔つきに黒く短い髪をぞんざいに風の流れにまかせていた。
「ねえ、キノは今まで、あの国に戻りたいと思ったことはないの?」
少年のような声が聞こえた。キノと呼ばれた旅人はその声に、しばらくの沈黙の後、感情のにじまない声で答えた。
「そうだね、何度かあるのかもしれないよ、エルメス。」
キノはまっすぐ前を見たまま言葉を続けた。
「ボクはもう帰る国はないと、自分に言い聞かせ続けてきたけれど、もしかしたら帰る場所がほしいのかもしれない。」
「そんなものなのかな。」
モトラドは、大して興味のなさそうな声で答えた。
「でもね、エルメス。」
キノは少し明るい声で言った。
「あの国がなくなればいいと思ったことはあるよ。ボクの手で壊したいとも。いつかの国のようにね。きっとあの時のように、ボクは後悔することはないと思うんだ。それに無理だとも思わないしね。」
「そうだね。キノの腕前なら、あの病院と国を3日で全滅させることもできるだろうね。」
エルメスという名のモトラドは、それが当たり前のことのようにそう言った。
「うん。もしかすると、ボクはそのために今、この道を走っているのかもしれない。」
そうして一台と一人はある国の城門をくぐって行った。
「おかしいな。」
キノはハンドパースエイダーに添えていた手をそっと下ろしてそう呟いた。
「うん、変だね。見張りも町の人もいない。」
モトラドも、同じようにそう言った。城門を何の咎めもなしに入ったキノは、少し拍子抜けしたような顔をしていた。警戒を完全に解いたわけではなかったが、人の気配はなく、少なくとも今すぐに「処分」されるようなことはありそうになかった。
「びっくりだね、キノ。もしかしたら顔を覚えている人がいるかもしれないって思ってたんでしょ?」
「うん、そうだね。でも、誰もいない。」
キノとエルメスはまだ放置されてそれほど経っていないと思われる、まだかろうじて綺麗な町並みを眺めながら町の中心まで歩いていった。人の姿はなく、かつて偽者の大人の微笑で満たされ、本物の子供の笑顔で埋め尽くされていた偽りの国は、今静かになくなろうとしていた。家々は全て閉じられ、壊された食料品店もあったがそれほど大きな破損はなかった。道のところどころに、何かを引きずったような赤黒いすじがいくつも、いくつもついていた。
「何が起こったんだろうね、キノ。」
エルメスが言った。
「分からないよ。でも、あそこに原因があることだけは確かだ。」
そのすじが集まる方向、つまりキノが視線を向けた先には、そこだけ大きく破壊された病院があった。
「入りますよ。」
キノはがらんと響く、広い病院の入り口でそう声をかけた。天井は落ち、壁はひび割れ、あちらこちらから日の光が黒く焼け焦げた病院の中に射し込んでいた。
「きっと誰もいないよ、キノ。」
「うん、一応ね。」
まだハンドパースエイダーを手放そうとしないキノに、エルメスがちょっとあきれたように言った。エルメスのいうとおり、そこには誰もいなかった。そこは広い病院で、崩れかけた階段や、落ちたガラス、焼け残ったベッドなどが落ちていても、モトラド一台くらいが通れる余裕があった。
「ここにも誰もいないね。」
エルメスはそう言った。
「うん。」
キノはそう言ったが、あちこちに警戒の目を向けたままだった。
「二階にも部屋はあるんでしょ?そことか、裏庭とかも見てみたら?」
エルメスがそう言い、キノはうなずいた。
「二階にはもう行けそうもないね。あんなに階段が崩れていちゃ、少なくともエルメスはのぼれないよ。きっと降りてくることもできないだろう。縄もないし、足跡もない。」
そうしてキノは裏庭に続く扉を開けた。
一瞬、緑の光がキノの目をくらませた。放置されたままの草たちは街中よりもずっと伸びていて、その真ん中に枯れた大きな噴水があった。巨大なその噴水は水のかわりに、赤黒くところどころ白いものが見える塊で満たされていた。
「人がいたよ、エルメス。」
キノは静かにそう言った。
「へえ、よかったじゃない。事情を聞いてみたら?」
「それはできないよ、エルメス。」
キノはやっとハンドパースエイダーをホルダーに収め、少しだけ身体の力を緩めた。
「みんな死んでる。」
キノはそう言うと、エルメスをセンタースタンドで立たせ、一人で噴水の方へ歩いていった。しばらくそのまわりを見て、キノは少しほっとしたような顔で帰ってきた。
「どうだった?」
「うん、大人の死体だけだった。」
キノは病院内の水道管を一本だけナイフで傷つけて水を出し、そこで手と顔を洗いながら答えた。
「みんな焼け焦げていたよ。まだそんなに時間は経ってない。骨になっている死体が少なかったから。」
「へえ、でもなんでだろ。」
「子供だよ。」
「え?」
キノがそう言うと、エルメスが不思議そうに聞いた。
「子供だよ。さっき死体の殺され方を見た。とても単純なことが原因でみんな死んでいたんだ。頭を石で殴られたり、首に刃物がささっているだけ。銃や、闘った跡なんて何もない。みんな、寝ている間に子供ができる簡単な方法で殺されたんだ。」
「それって、自分の親をってこと?」
「うん。きっとそうだと思う。さっき道に何かすじがついていただろ?きっとあれは死んだ大人を引きずって子供が運んだ跡だ。子供たちは、自分の親を殺して、病院に集めたんだ。そして、水を抜いた噴水に積み上げて火をかけた。」
よく見ると、噴水のまわりの草に埋もれた地面には、たくさんの赤黒い塊が土と混じろうとしていた。人間の炭素を肥料として、草は青々と茂っていた。
「子供たちは大人を焼いたんだ。何回も、何回も。この国に大人がいなくなるまで。」
キノはしばらく流れる水を見つめていたが、さっと立ち上がって噴水に背を向けた。
「さあ、行こうエルメス。」
「3日間いなくてもいいの?」
「うん、ここにはもう何もないよ。3日間いる価値のあるものはね。」
草原を、一台のモトラドが走っていく。美しい青い空がその上に、どこまでもどこまでも広がっていた。
「結局キノはさ、」
モトラドが話しかけた。
「あの国で何がしたかったのさ。」
しばらく沈黙が続き、そして運転手は急にブレーキをかけた。目の前に赤い花畑が広がっていたからだ。緑の草原に、目に痛いまでの赤い華、花。そこだけぽっかりと開いた穴のようだった。
「別に、何も。」
キノと呼ばれた旅人は、その花の中にエルメスをひいて歩いて入っていった。ためらいもなくその花を踏み潰しながら。その顔にはかすかな微笑があった。
「何もしたくなかったよ、エルメス。」
キノは半分歌うような声で言った。
「ボクは何もしたくなかった。それが叶った。それだけのことさ。」
エルメスを花の中に乱暴に倒し、キノはジャケットを脱いで空に放り上げた。
「うわっ!ちょっと、何するのさ、キノ!」
モトラドが怒ったような声を出したが、キノは聞いていなかった。花の上で両手を広げて、笑いながらくるくると回っていた。
「あはは。はは。」
笑い声が空に吸い込まれ、キノはしばらくして口を噤んだ。そしてエルメスと同じように、花の中に倒れて空を見上げた。
「昔、父さんや母さんだった人間もいたよ。ボクじゃない子供がいたのかな。」
その声には、悲しい響きはなかった。
「残酷な殺し方だった。子供は純粋で、綺麗で、だからこそ残酷になれるんだ。ボクにはあんなことはできなかったのかもしれない。『カノン』で、一瞬で・・・。でもかれらは石で脳が出るまで叩き割られていた。何度も、何度も。一度きりじゃ、殺せないんだ。小さな力しかないのだから。その間、子供たちは何を思ったんだろう。ボクと同じように思っただけなんだろうか。自分で道を選び、大人になりたいと思ったんだろうか。それとも、他に何か考えていたんだろうか。国中の子供だよ。全員が同じ晩に。誰かがかれらを導いたんだろうか。」
そこでキノはしばらく沈黙を作り出し、そっと瞳を閉じた。瞼の裏に、空に浮かぶ白い雲が見えた。
「でも、それはもうどうしようもないことだし、これから気にすることもない。」
「そうなの?」
「そうだよ、エルメス。もう心残りはないよ。でも・・・」
キノは目を開くと、地面に落ちたジャケットを拾い、エルメスを起こした。
「でも?」
「あの子供たちは、大人になれるのかな。そう思っただけさ。」
「ふうん。」
「さあ、行こうエルメス。」
「そうだね。」
そうして、旅人は去っていった。もう二度と戻ることのない、世界でたった一つの国を。故郷という名の国を。
おわり
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