―― 暁 ――

 

キラの部屋のドアの前に誰かが立つ気配があった。
「・・・誰?」
キラには分かっていた。そこにいる者、そこにいる気配、そこにいる愛しい体温の持ち主。それでも、キラはまだその場に佇んでいた。まだ外を見れば、先ほどまでの美しい光景が広がっているとでも言うように。雨は降り続いており、部屋の中はほとんど真っ暗だった。ふと、キラを現実に戻すかのように部屋の外から声が聞こえた。あの甘く、自分よりも低いその声が。
「キラ・・・、俺だ。ここを開けてはくれないだろうか・・・。」
キラは、一瞬戸惑った。この扉を開くとどうなるだろうか?と。否、キラは考えた。この扉を開いてしまったら、今まで見ないふりをしてきた自分の想いすらも全てが開いてしまうのではないかと。しかし、考えたところでキラの応えはもう出ていた。あの窓際でアスランを見ていたその時から。
「・・・・・・。」
キラは黙って、その部屋の扉を開けた。
 

 そこには、キラの思い描いたとおりのアスランがいた。そぼ降る雨にしとどに濡れた服、まだ濡れた唇。そしてどこか冷めたようで燃えているような鮮やかな緑の瞳。思わず、キラはその頬に手を当てた。触れた指先は、少しだけ冷たかった。

はっと、アスランはキラから一瞬だけ身を引いた。自分の頬に触れたその手が、あまりに冷たかったからだ。それはこの雨よりもさらに冷たかった。それなのに徐々に自分の体温と溶け合っていく感覚に陥りそうになった。キラの紫の瞳が、自分だけを映していた。その目には、何の感情もなかった。自分はこんなにも激情に溺れそうになっていると言うのに。そう思った瞬間、アスランはカッと頭に血がのぼった気がした。そして次に気がついた時は、キラを抱き締めていた。

 その腕があまりに強くて、その胸があまりに熱くて、キラはそっとアスランの肩に頭をもたれかけさせた。そして目を閉じ、小さく口を開いた。答えなど、分かっていたのに。
「どうしたの・・・アスラン。」
「・・・・・・。」
それでも、応えはなかった。アスランはただ、少しだけ震えていた。そして、キラをただ、抱き締めていた。濡れたアスランの服からまず水分と冷たさだけがキラに伝わり、キラの服も濡れる頃、その冷たさはいつの間にかキラの体温と同じになっていた。そしてちょうどその微温湯に浸かる感覚にキラが浚われそうになった時、アスランが口を開いた。
「俺は・・・」
「うん、何?」
「俺は、今日カガリに言われたよ。もう一緒にいられないと。でも、俺は彼女の言葉に何の反応もできなかったんだ。涙すら、出なかった。」
キラが、目を開いた。その目には、少しだけ辛そうな色があった。彼の半身に対する痛みと、それだけでない何かが、キラを襲った。だからキラは、抱き締められたまま言った。
「僕は、カガリのかわりなの?」
「・・・!そんなこと!」
ばっと、アスランが急にキラの肩を掴んで自分から引き剥がした。すっと、水分が体温を奪っていた。
「違う!」
アスランが首を振るたび、光る水の粒が散った。その目には、偽りはなかった。それ故に、キラはまた少し胸が痛んだ。
「じゃあ、カガリが僕のかわり?」
「・・・!」
アスランの目に、絶望に近い色が浮かんだ。
「違う、違う!」
もう一度、アスランはキラを引き寄せた。今度は、キラの身体がそのままくず折れてしまいそうなほど強く。
「違うんだ、キラ!分かってくれとは言わない。でも、これだけは本当の事だ。カガリを想った俺は、涙も流せなかった。でも、ふとお前の事を考えた瞬間に、涙が止まらなくなったんだ。どうしてか、俺にはずっと分かっていたはずだった。でも、ずっと分からなかった。カガリも、大切だったから。それでも、俺はお前を想ったんだ。窓辺のお前を見たら、もうお前しか見れなくなった。どうしてなんだ。カガリは俺の希望だったはずなのに、それなのに俺は、恐さに突き動かされてしまったんだ。お前を失う恐さに。お前と離れる事が・・・できないんだ。すまない、キラ。俺は・・・。」
「謝らないで、アスラン。」
ふと、キラは表情を緩めた。まだ、胸を刺す痛みはそのままだったけれど、キラはアスランの背をそっと撫でた。
「アスラン、分かってる。ごめん、分かってたんだ。アスランの気持ちも、僕の気持ちも。アスランが選べないならそれでいい。僕だって君と離れる不安に捕らわれたままだ。アスラン、君が本当はどちらだと言うのが怖いって言うならそれでもいい。僕は、どっちだっていいよ。ただ、アスランがここにいるなら。」
「俺だってそうさ・・・。」
ぽつりと、零すようにアスランが口を開いた。少しだけ、キラに回されていた腕が緩んだ。
「俺だって、ただ怖かったんだ。お前と離れたくない。それだけなんだ。」
「うん、そうだね。」
キラが少し微笑んだ。
「僕らはまだ、お互いに捕らわれたままだ。お互いなしには、生きていけないのかな?それでもいい。僕は今ここに君がいてくれて嬉しいよ。僕にはまだ君の分からないところがある。君が僕を分からないように。だから、ここから分かり合えばいい。そうしたら、いつかは何の約束も束縛もなしに、きっと笑いあえるから。」
「ああ、そうだな。」
ふっと、アスランが笑った気配がした。キラは、その乾き始めた髪をそっと撫でた。アスランは目を閉じてその温かさに流されるように、身を委ねていった。もう、雨は天から落ちて来ず、雲間が途切れ始めた。その向こうには、もう新しい暁の光が生まれ始めていた。

おわり