アスラン・キラサイド ――再び海辺にて――

 

 キラが海辺に立ち尽くし、これから行くべきところへと心を必死に戻そうとしている時、堤防の上に一台の車が止まった。そして、海辺に佇むキラを認めるやいなや、走り出す影があった。
「キラ!」
ばっと、キラが振り返った。あの時と同じ声、同じ救いの手。
「…アスラン!」
思わず叫ぶと、キラは浜辺の砂に足を取られながら走りだしていた。これほど砂が重いと感じた事はなかった。これほど自分の足が動かしても動かしても前に進まないと思ったことはなかった。どこまで走っても、アスランのところまで行けないような気がした。ふらついた足が砂のわずかな隆起にすくわれ、キラはその場に倒れそうになった。
「キラ!」
また声が聞こえたかと思うと、キラの身体はそっと何か温かいものに抱きとめられていた。その声はすぐ上から降ってくる。まるで慈愛の雨のように、キラの心にしみこんでは実りを与えていく。砂の上に膝をついてしまったキラの身体は、アスランにしっかりと抱きしめられていた。
「…アスラン?」
キラは、どうして自分が少し驚いたのか、それに驚いていた。こうなることは、分かっていたのに。こうしたいと、先の瞬間思ったのは自分だったのに。
「キラ…!」
咽喉から絞り出すような声で、アスランがキラを呼んだ。
 

 どれほどそうしていただろうか。アスランがキラのすぐ耳元でそっと話し始めた。
「キラ、俺はカガリと話してきたよ。」
「うん…」
抱きしめられたまま、顔をアスランの肩口に埋めたまま、キラはそっと答えた。
「やっと分かったって、それだけを言おうとしてたんだ。俺はキラを抱きしめたかったんだって。でも、カガリは全部話せって言ったんだ。そうしたら、言わなきゃ、言わなきゃと思ってたことが、もう勝手に口をついて出てきて、なぜか止められなかった。それでも、俺の心はびっくりするぐらい静かだったんだ。カガリが泣くかもしれない、怒るかもしれない、色んな事を心配していたはずなのに。俺は、もしカガリの涙を見てたら、まだそこで戸惑っていたのかもしれない。そしてキラとカガリの間で俺はずっといることになっていたかもしれない。でも、カガリは笑ってくれた。笑ったんだ。本当に綺麗に、本当に強く。俺は、それに救われた。だからここに来れた。俺だけの心じゃ来れなかった。それだけは、ちゃんとキラにも言っておきたい。キラのために俺は生きたい。でも、大切なものがあるんだ。」
少し大きく息を吸って、キラはほうと息をついた。
「うん、僕もラクスと話してきた。ラクスは言ってた。ちゃんとアスランと話せって。だから僕は行こうとしていたんだ。もう、こんな昏い考えの海から上がらなきゃって。でも、なかなか抜け出せなかった。空と海を見ているとね、まるで僕はまだあそこにいるような気がするんだ。そして君の声を待っていたのかもしれない。僕は君よりも弱いのかもね。僕は、ラクスの声だけじゃ動けなかった。君の姿を、君の声をずっとずっと待っていたんだ。いつもそこにあったのに。それでも僕は、ずっと暗い海の底から君を待っていた。そこは本当に暗い場所だった。でも時々明かりが差すんだ。それは強いカガリだったり、優しいラクスだったり。僕も彼女たちが大切だ。君と同じように。でも、助けてほしいと思ったのは君だけだった。それをしっかり確かめたくなかったのかもしれない。だから、目を瞑って暗闇にいたんだ。でも、今日分かった。」
少しだけ、キラの顔を見られるように、アスランがキラの肩にまわす腕を緩めた。アスランを見つめる瞳はどこまでも澄み切っていて、とても強くて脆くてそれでも美しかった。そこには本当の微笑みが確かにあった。
「そうだな、俺たちは弱いな。でも、お前のために生きていける。だから、ここに来た。どうしてこんなにも、俺たちは分かりにくかったんだろう。こんなにいつも側にいたのに。」
アスランの穏やかな声を聞いているだけで、キラはこのままアスランという波にのまれてしまいそうだった。
「そうだね、どうしてかな。あんまり近くにあるから分からなかった。ううん、分かってた。でも、僕は誰も失いたくなかったんだ。」
「失う事なんてないさ!」
少しだけ、激昂したようにアスランがキラの肩を揺さぶった。それはまるでカガリのような、強くて暖かい大きな波だった。
「失う事なんてない、キラは何も、もう失わない。キラが望むのなら、俺は失うもののないところへキラを連れて行く。」
そんなアスランに、思わずキラは涙目になって笑っていた。
「あはは!はは!違う、ここでいいんだ。君がいるところが、僕のいたいところだよ、アスラン。僕は君に、生かされているんだ。だから、ここにいて。」
「ああ、ずっとここにいる。キラの側に。たとえ身体が離れていても、俺の心はずっとキラの側にある。」
「うん…。」
 

 二人は、海辺に佇んでいた。静かにただ隣り合っているだけだった。二人の影が、海と空の闇に溶け込んでいた。アスランは思った。まるでここはあの宇宙のようだと、まるであの瞬間のようだと。あのキラに手を伸ばした瞬間こそが、アスランにとっての永遠だった。そしてその永遠は確かにここにもあった。そしてそれは自らの手で選んだ今だった。どうしてこんなにも焦がれるのだろうか、アスランには分からなかった。それでもよかった。約束した未来も、確定した運命も、何も見えないけれど、ここにはキラがいた。それだけでよかった。

 二人は、海と空の両方にうつる星を見ていた。ただ、静かに佇んでいるだけだった。触れ合う事もなく、ただ同じところを見ていた。遠い空の先を。キラは思った。まるでここはあの場所のようだと、まるであの瞬間のようだと。あのアスランの声が自分を呼んだ瞬間こそが、キラにとっての永遠だった。そしてその永遠は確かにキラの中に今存在した。だから、この暖かさにすがって生きる自分が、それでも好きになれそうだった。こんな自分でも、アスランは笑って頷いて、そして自分を生かしてくれる。そうして生きていける。そう思うだけでまた涙が零れそうになった。今、自分が生きていていい理由。それはアスランがいるから。ただ、それだけだった。

おわり