カガリ・アスランサイド
「こんなことを、通信で済ませる俺を許してほしい。」
珍しく自分からカガリに連絡を取ったアスランが開口一番声にした言葉はそんな事だったように、カガリは思った。行政府の代表主席室で、小さなラップトップ型の通信機は夕闇に青く浮かび上がっていた。そこには苦悩した愛しい者の顔。苦しそうに言葉を紡ぐ、アスランがいた。
「なんだアスラン。お前から連絡をくれるなんて珍しいじゃないか。すまないな、いつもこちらから呼び出すばかりで。お前だってこっちに住めばそんなこともなくなるんだろうが、わたしはお前を縛りたくない。だからって、こんなことはあんまりよくないって分かってはいるんだがな、何しろやらねばならんことだらけなんだ。わたしが未熟なせいで、色んな人に迷惑をかけている。…まあそれはお前を筆頭にしてるんだがな。」
カガリは、本当は懼れていたのだ。アスランはとても分かりやすいから、きっとこんな時はキラの事に決まっているから。愛しい者から、愛する者のことを聞くのはどこかくすぐったいがとても辛いことだった。だからつい、カガリはいつもより早口になっていた。そんなカガリの流れるような言葉を聞きながら、アスランは少しだけ眉を開いて、少しだけ笑った。
「そうだな、カガリ。でも、それだけじゃない。俺は自分のしたいようにしてるんだから。そっちに行かなくてもいいってことは、君の身辺も安全になってきたってことだからな。俺もそれは嬉しい。本当は、ずっと側にいられればいいと思う。それで君を守れるのなら。でも、俺には入り込めない仕事も多いだろう?だから、俺はここでいい。」
そう言ってアスランは言葉を切った。
「うん、分かってる。わたしはお前を必要としているよ。だからお前が好きにすればいい。でも、今日連絡してくれたのはそんなことじゃないだろう?」
今まで少しうつむきかげんだったアスランが顔を上げて、スクリーン越しにカガリと視線を合わせた。
「……」
「そんな驚いた顔するなよ。」
カガリががりがりと頭をかきながら少し困ったような顔をした。
「お前、分かりやすすぎるんだ。そんな顔されたら誰だって、何かあったと思うだろ?それがわたしなら尚更だ。わたしはお前に惚れているんだと思っているし、誰よりもお前を知っていたいとだって思っている。まあ、それは無理なのかもしれないけれど。だから話せ。言いたいことを言え。わたしはそんなお前の気持ちを聞くぐらいの権利はあるはずだ。分かってるな?」
今度は、アスランが少し困った顔をする番だった。
「そうだな…君には本当に何でもお見通しだ。そして強い。どうして俺の好きなひとは、みんなそんなに強いんだろう。ラクスも、キラも、そして君も。大切なひとはみんな強くて、そして俺だけが脆い。そんな君に、俺はこれから酷い事を聞かせるんだろうな。」
少し苦しそうにもう一度微笑んだかと思うと、アスランは指を組んで静かに語り始めた。
「俺は、キラを、抱きしめたいと思った。」
淡々と紡ぎだされた言葉はあまりに自然で、カガリが驚く暇すらなかった。呆気に取られるのと呆然とするのと、それを当然の事と見る気持ちが一気にカガリに押し寄せて、カガリは表情すら変えることもできなかった。ただ、アスランの言葉が静かに続いていた。
「今日、日が沈む頃にキラに会いに行った。君は今日の職務で出歩く事がもうないと分かっていたから。ラクスから聞いていたんだ。最近キラの様子がおかしいって。俺ははじめそんな事信じられなかった。俺といる時のキラは以前のキラのままだった。俺の記憶にあるようなキラだったから。でも、ラクスは言うんだ。キラはこのごろずっとふさぎこんでいると。空を見て、時の流れすら忘れているようだと。穏やかに微笑む以外の感情を忘れてしまったようだと。俺はどうしてだか分からなかったんだ。ラクスがいつもキラの側にいるし、あそこはとても居心地のいい場所のはずだから。俺だってあそこが好きだ。そしてラクスは言っていた。キラがそんな風になるのは、誰もいない夕暮れが多いと。君も聞いているか?」
「あ、ああ…」
カガリは少しかすれた声でしか答えられなかった。しかし、何か言わねばと思うが、それは本当に言いたい事ではなかった。
「ラクスは言ってた。キラがかたい殻の中に入ってしまったって。自分の声はまだ届くけれど、それがいつ届かなくなるか怖いって。」
そこまでの会話をラクスとカガリがしていることに戸惑いを覚え、アスランは一瞬はっとした。自分は本当に色んなことを見ないままここにいるのではないかと。
「そうか、そんなことまで…。ラクスの言っている事はいつも正しいって、俺は知ってたはずなのにな。俺は信じなかったんだ。だから今日、やっとキラのところに行ったんだ。どうせいつもと変わらないキラがそこにいるものだと信じて。」
そこで言葉を切ったアスランは、少し遠い目をした。
「キラは、海辺の椅子に座ってた。ただ、そこにいるだけだったのに、その後姿が余りに脆くて、強いキラの欠片なんて一つも見られなかった。だから俺は、声をかけるのをためらってしまったんだ。いつもどおり声をかけていればよかった。キラ、調子どう?って。そしたらキラも答えてくれたはずだ。やあ、アスラン。僕は元気だよ、何心配してるの?まさかラクスの言葉を真に受けてるんじゃないよね。まったくもう、みんなよってたかって僕を小さな動物みたいに言うんだからって。でも、俺は今日、ためらってしまった。キラは、俺の心の動きに敏感すぎるんだ。どうしてか、伝わってしまう。そして俺も、キラの気持ちが分かる。分かるというよりも流れ込んでいるんだ。遠く離れていても、そこにキラの気持ちがあると思うだけで。敵対していた時ですら、痛いほど分かった。でも、戦争が終わってからはずっと安心してそんなキラの本当の心を分かろうとしなかったのかもしれなかった。だから今日、キラの心の奥底がはじめて見えた気がした。悲しそうな色が俺の中に流れ込んできたんだ。『寂しい、淋しい、助けて、僕を守って』って。俺が後ろに近づくのをためらっていると、キラが俺に言ったんだ。『僕は、何が悲しいんだろう』って。俺はその瞬間、キラのすぐ側に走っていた。身体が勝手に動いたんだ。ああ、キラの側に行かなきゃって。知らないうちにキラの肩に手を置いていた。ああ、早くキラの暖かさを感じなきゃって。どうしてか分からない。でも俺の手はキラにそっと触れていた。指先が、甘く痺れたんだ。」
「……」
カガリは何も言わずに、頭を抱えて机に突っ伏した。
「カガリ?」
アスランはやっとその様子に気がついたように、スクリーン越しにカガリを見た。
「いいから。」
「え?」
「いいから続けろ。」
「でも、カガリ…」
「だから!お前は言いたいことを全部言えと言ってる!」
それは怒気を含んだ声でありながら、どこか安心できるような励ましの言葉にも聞こえた。それはカガリという存在がそこにあるという安心のようなものだったが、アスランはそれに気がついたのか気がついていないのか、自分でもよく分からなかった。それゆえ、アスランは一つだけ頷いて続けた。
「俺は、キラにそんな淋しい思いをさせ続けたくなかっただけなのかもしれない。それなのに、指先から伝わるものが、急に俺の中で大きくなって、それがあふれ出しそうになった。あと少しで、俺はその場でキラを抱きすくめていたところだった。キラの声がそれ以上届かなければ。でも、キラは続けていたんだ。目は、ずっとどこか遠くを見ていた。その先に誰がいるのか、それは分からなかったけれど、確かにその先に何かキラの大切なものがあったことだけは分かった。それはもう取り戻せないものや時間やひとだって事だけは分かった。だから、キラがずっとそれと向かい合って、ずっとそれを見つめすぎて、その闇に囚われてしまっていたと分かった。そこから俺はキラを連れ出さなきゃと強烈に思ったんだ。たとえキラの瞳の向こうにいるのがキラの永遠の女性でも、守れなかった手に入れたかったものでも、償えない過去でも。」
カガリはぴくりとも動かずに、机に顔を押し付けていた。その指には、アスランの贈った指輪があった。アスランは、少し悲しそうに唇をかみ締め、そしてカガリを見た。闇に染まらない金色の髪が散らばり、残り少ない光をそこらじゅうに散らしていた。
「カガリ、俺は君のことをずっと愛している。それは変わらない。何かが薄れた訳でも、君が変わったのでもない。その指輪に込められた想いに疑いを持たなくていい。でも、あの瞬間、それに今も、抱きしめたいと思ったのはキラだったんだ。キラの側にはラクスがいる。それでも俺は、キラを守らなくてはと思ったんだ。何から?俺には分からない。過去の幻想から、罪から、寂しさから。俺はキラをこのままにはしておけない。わがままで、いじっぱりで、あまえんぼうで、無邪気に笑うキラはもうどこにもいないのかもしれない。でも、俺にはキラはちっとも変わっていないように見えたんだ。脆い背中も、その瞳も、心も、俺の知っているキラだった。遠くを見る目も、悲しそうに伏せる睫も、小さすぎる柔和な微笑みも。それは全部キラだった。俺にとってのキラだった。どうしてだか分からない。キラは強い。俺が守るなんて、おかしいかもしれない。それでもキラをこの腕に抱きとめたいと思ったんだ。抱え込んで、何か分からないものから、キラを守らなくてはと思ったんだ。それはキラの予感する未来からなのかも、キラの運命からなのかもしれないけれど。」
むくっと、カガリが身を起こした。そしてぼそっとつぶやくように言った。
「わたしだって、キラを守ると言った。お前はわたしが守ると。もう、誰かから守られ続けるのは辛いと。キラも、もう誰かから守られてもいいはずだ。わたしは結局キラが好きなままなんだ。どんなキラでも。」
「うん、君はキラが好きだってことも分かってる。君が俺を見ていない時があるから。でも、俺は確かに君が好きなんだ。それでもキラを、抱きしめたいと思ってしまったんだ。今までだってずっとあったはずの何かが俺とキラにはある。ただ、それだけ。俺がそれに気がついただけ。君はキラの事がずっと好きなのかもしれないけれど…」
「違う!わたしはお前もキラも好きなだけなんだ!キラのことだって、あの写真を見て…」
そこで言葉を詰まらせたカガリはようやくアスランをまっすぐ見つめた。
「うん、そうだ。カガリはそういうところまで全部ひっくるめてカガリだから。俺にとっての大切な存在に代わりはない。大切なんだ。君のことは命がけで守る。それで俺が命を落としたとしても、俺はかまわない。それで君が守れるなら。でも、俺は生きていなくちゃいけないんだ。キラのために。キラを守るには、生きていなくちゃいけない。キラのためには生きて戦わなきゃならないんだ。何と?俺には分からない、カガリ。生きてしか守れないものがそこにある。カガリ、君が生きてこの世界に存在するためなら、僕はなんでもする。誰かにだって、進んで殺されてもいい。でも、キラを守るためには死ねない。そんなことをするくらいなら、静かに死なせてやりたい。なぜだろう、キラを守りたいのは俺だけじゃないのに、キラをそんな風に死なせてやりたいと思うのは俺だけかもしれない。そうしたら、その時に一緒に俺も静かにキラの側にいきたい。カガリはそんな俺たちのところへは来させない。君には生きていてほしい。それは俺の我侭だな。」
しばらくの沈黙があった。そっと、アスランが口を開いた。
「こんな俺を、カガリ、君は今でも少しでも必要としてくれているのか…」
「わたしだってキラが好きだ!お前のことも、アスラン、もちろんだと言ってるだろう!」
そこでカガリは通信機の向こうの画面が一瞬揺れるほどに机を叩いた。硬く握り締めた拳で打ち付けられたそれは、怒りの矛先のようであり、悔しさの捌け口ようであり、悲しみの象徴のようでもあった。不器用なカガリの思いのたけをぶつけた先。カガリの手は痛みを伝え、それが現実であることをカガリに認識させた。
「分からないのか?アスラン、愛してるんだ。そんな驚いた顔しなくてもいいだろう!お前が必要なんだ!わたしが生きていくためにだって、お前は必要なんだ。でも、わたしには弟としてキラを愛せない部分がどこかにある。お前に出会う前、ずっとキラのことが好きだった。お父様から渡された写真を見た時に、世界が崩れたかと思うほど絶望したさ。わたしは禁忌をおかしてしまうのかと。双子の弟を!あの涙はキラのためだけに流したものだ。でも、そこにはお前がいた。お前はわたしを優しく包み、ずっとついていてくれた。でもどこかお前の瞳は遠いところを見ていた。お前の見ていた先が、永遠の流れの中にいるラクスなのか、キラなのかそれは分からない。少なくとも、その頃は分からなかったさ。今でも本当は分かりにくい。お前はいつもいつも自分の気持ちを最後の最後まで押し込めているから。それはキラも同じだ。わたしがなんと言おうが、キラはもう、誰をも包むような小さな微笑みしか返してくれない。それはお前にもそうじゃないのか?アスラン。キラはお前に無条件の笑みを見せるのか?だったらもう、わたしには何も言えない。キラは変わった。わたしはそう思うんだ。でもお前は変わらないと言う。だからわたしはアスラン、お前もキラもその気持ちも守る。だから、さあ、会って来い!」
そう怒鳴ったカガリの顔は、どこか晴れ晴れとしていた。びっくりして声も出せないのはアスランの方だった。
「何をぼさっと馬鹿な顔してるんだ!わたしがそう言ったのがそんなに意外か?わたしは全然意外じゃない!いつかこうなることを知ってた。キラはずっとそれを考えてたんだ!お前はそれも分からずにキラを何から守ろうとしていたんだ!キラは、わたしのこともお前のこともラクスのことも考えて、だから苦しんでいるのに。」
そこでちょっと落ち着いたように、カガリは声のトーンを少し落として、そして一度目を閉じると再び開いた。
「わたしは指輪を返さない。お前がどう思おうと、この時のお前の気持ちだけをわたしは持って生きていく。虫除けにもなるしな。だから、さあ行け。もう二度とは言わない。キラのところへ行ってやれ。」
そして笑ったカガリの顔は、本当に美しかった。そしてその表情は一瞬でスクリーンから消え、そこにはただ、通信終了の信号が浮かんでいるだけになった。
「カガリ・キラサイド」に続く。 |