ラクス・キラサイド
もう、真っ暗になる時間だった。海は夕闇の色に染まり、キラの瞳も闇の色と区別がつかなくなっていた。戦争が終結し、キラがラクスや子供達と生活するようになってからもうかなりの時間が経っていた。キラは毎日海に面したテラスで椅子に座り、黄昏時までずっと空を見ていた。そして今夜もテラスにはどこか湿気を含んだ風が吹きぬけていた。毎日、そんな頃にキラを部屋に引き入れるのはラクスの役目だった。他の者が言っても、キラは遠くを見つめたまま、小さくうんと言ったきり動かないからだ。自分の殻に閉じこもってしまったキラは、子供たちの声ですら、どこか遠くに聞こえていた。ラクスは唯一キラを現実へと引き戻せる存在だった。それは壮大で全てを包み、キラの視線の先ですら抱擁する何かを彼女が持っているからに違わなかった。
「ラクス、少し、聞いてほしいんだ。」
どこか遠くを見ながら、キラが背中越しにラクスに呼びかけた。
「ええ、いいですわ、キラ。お茶を入れましょう。さあ、そこは寒いですわ。中へお入りになってはいかが?」
ラクスはもうその言葉を聞いた瞬間に、次に言うべき言葉を知っていた。ずっと来るべきだった瞬間を待っていたかのように。懼れていたことに万全の準備をしたかのように、ラクスは完璧な笑顔でキラに微笑んだ。
「いや、ラクス。こっちに来てほしいんだ。僕は、ここを動きたくない。」
こんなにはっきりしたキラの意思表示は最近めったに見られることはなかった。完璧だったはずの笑顔が少しだけ翳った。しかしそれは背中越しにはキラには伝わらず、短い沈黙すら許さぬようにラクスはまた小さく微笑んだ。
「ええ、では上着を持ってきますわね。あなたの分も、キラ。またお風邪をひいてしまいますわよ。」
「うん…」
キラは、ラクスを振り返らず、ただそう頷いた。
キラの横にラクスが置いた椅子の上に、ラクスが座る事はなかった。ラクスが用意したキラの上着はそっとキラの肩に置かれ、そしてラクスはそのままキラと同じように空を見た。月はなく、星々の光だけがやけに眩しく、波間にもそのまま空が広がっているようにも見えた。それは宇宙から見る風景と同じに見えた。透き通った空間に広がる無限とも思われる宙。それを見ているのか、いないのか、キラはただまっすぐに前を見ていた。
「ラクス、僕はアスランが好きだよ。」
「ええ、わたくしも大好きですわ。キラも、カガリさんも。きっとみんなアスランのことが好きなんですわ。そしてみんなあなたのことが好きですわよ、キラ。」
静かなキラの声に、ラクスのやわらかい声が重なった。
「うん…」
キラの声が少し、微笑んでいるように聞こえた。それでもラクスはキラを見なかった。
「それでも、キラ。あなたは最後にアスランを選ぶのですね。」
びっくりしたかのように、キラがやっとラクスを見た。しかしラクスの視線はまっすぐ星を映した海と空を見ていた。キラも一度うつむき、そして視線を戻した。そして少しだけ沈黙をつむぎだし、口をそっと開いた。白い息が目の前に漂ってすぐに消えた。
「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。僕には、分からないんだ。君のことも好きだし、カガリだって大好きだ。それから、守れなかったひとも。みんな僕には大切なのに、みんな守りたいのに、僕自身を守ってほしいと、そう思ったんだ。他の誰でもない、アスランに。なんでだろう、僕は、何からアスランに守ってもらわなくちゃいけないんだろう。もう、そんなことはないはずなのに。僕は、あの時、戦争の終結したあの場所で死ぬつもりだった。でも、声が聞こえたんだ。『キラ』っていう声が。それはあまりに切なくて、あまりに強くて。ああ、僕はこの声に守られるんだって思ったんだ。そうしたら、悲しかった冷たい涙が急に温度を持ったんだ。暖かすぎる涙が宙を浮いて、何も見えなくなったんだ。ああ、この声のもとに行けば僕は生きていけるって思ったんだ。そこにはカガリもいた。ラクス、君もいた。それなのに、僕はあの時アスランの手を取ったんだ。この手をアスランが守ってくれるなら、僕は生きていてもいいんだって、そう思ったんだ。」
そう言うと、キラは目を閉じた。それは苦しそうに歪んだ顔だった。
「わたくしにはそのお顔を、本当に微笑ませることはできませんのね。」
ばっと、キラがラクスの方に向いた。しかしラクスの目は変わらず星々に向けられていた。そんなラクスに、キラは訴えかけるように続けた。途中で、苦しくてあえぐようになりながら。
「違う、僕は君に救われてる…!僕は、ここにいて今までにないくらい安らいでる。それは君がいたから。ラクス、君がいなければこんな穏やかな気持ちにもならなかった。」
「それでも、悲しいのですね、キラは。」
さらに優しくなった声のトーンに、キラは思わず上ずった声を出していた。
「聞いてたの?」
「いいえ。でも、分かりますわ。あなたのことですもの、キラ。」
やっと、ラクスはキラを見た。そのまっすぐな瞳で、キラの深淵から覗く様々な色を全て包むように。そして、そっと微笑んだ。それは優しい微笑みだった。優しすぎて、痛々しくさえもある笑顔だった。
「キラ、わたくしにはあなたのことが今やっとはっきり見えました。今までずっと見えそうで見えなかったあなたの心の底。あなたは優しすぎるから。あなたはわたくしを大切に思ってくださっているし、わたくしを思う気持ちも、わたくしがキラを思う気持ちと変わりのないものだと知っています。でも、あなたを微笑ませられるのはアスランだけ。わたくしはずっと、気がついていましたわ。でも、あなたが言わないから。アスランもわたくしには何も言いませんしね。そんなお二人の優しさに、わたくしは甘えておりましたの。」
「そんなことない、ラクス!君は何も甘えてるなんてことはないし、僕はそんな人間じゃない。僕は、きっとずっと自分のことしか考えてなかったんだ。誰も傷つかずにこのままでいられたらと思っていたんだ。自分が傷つきたくないから。僕は君のことも大好きなんだ、でも、分かってしまったんだ。今日、この場でアスランに肩を触れられて。アスランは、空を見る僕のつぶやきを全部受け止めて、黙って聞いてた。僕は悲しかったんだ。何がかは分からない。僕の中の何かが叫ぶんだ。本当にこのままゆっくりと時は過ぎるのか、本当にこのまま生きていていいのかって。そうするともう、何もかもが悲しくて寂しくて、気が狂いそうになる。そうして思わず涙がこぼれてしまったんだ。今までそんなことなかったのに。あの場で流しつくしたと思った涙が、後ろにアスランがいる、そう思っただけで溢れてきたんだ。そうしたら、アスランが僕の肩に手を置いたんだ。ただ、それだけ。それなのにまた僕はあの時のように溢れる涙を止められなくなってしまったんだ。次から次へと溢れてくるんだ。暖かいものが。あの時と同じ涙が。肩先が、痺れたようになったんだ。ああ、そこにアスランの温もりがあるって思っただけで。どうしてなんだろう。それはずっと前から分かってたはずなのに。」
そうしてキラは、うつむいて涙を零した。服にできる染みは徐々に広がり、冷たい風と共にキラの体温を奪った。ラクスは、そっとキラの膝元にしゃがみ、その頬を伝う涙をそっと指先でぬぐった。そしてまだ潤む瞳で自分を見つめるキラにもう一度微笑んだ。
「キラ、お行きなさい。アスランに会いに。そしてちゃんとお話をしなくてはなりませんわね。アスランにお伝え下さい。わたくしは大丈夫だと。あなたもお分かりでしょう。わたくしは強いと。いいえ、わたくしはあなたが生きているだけで良いのです。キラ、あなたが幸せになってくれさえすれば。あなたが本当に微笑んでくれさえすれば。わたくしはあなたを縛りません。わたくしはあなたのものではありませんし、あなたもわたくしのものではありません。わたくしはわたくしのままで、キラはキラのままです。その心がどこを向いても、その瞳がどこを見つめても、わたくしにはあなたはキラ、ただそれだけなのですわ。でも、アスランは違いますわね。あなたにもお分かりでしょう。アスランにはあなたしか見えていない。例えカガリさんがアスランの側にいても、あなたがいなければアスランは生きていられないのでしょう。同じように、あなたにもアスランしかいないはずです。分かっていますか?ご自分の気持ちが、本当は何を見るべきか。あなたを本当に必要とし、あなたが本当に必要としている者を。それは、わたくしではありませんわ。」
少しうつむいたラクスは、涙は流さなかった。一度目を閉じ、そしてゆっくりと開いたその瞳には、全てを包み込む大きさが宿っていた。
「ごめん、ラクス、僕は…」
言いかけたキラを、ラクスは有無を言わせぬ笑みで止めた。
「謝罪の言葉など、どこにも必要はありません。そうでしょう、キラ?別れの言葉も要りませんわ。わたくしとキラは、たとえどのような形であれ繋がっているのですから。それは出会った時からずっと。同じようにわたくしとアスランも、あなたとカガリさんも。」
「カガリと僕も…」
「ええ、そうですわ。血のつながりよりも深い何かがあるはずですわ。そんなつながりでわたくしたちは強くなれますの。お分かりでしょう、あなたになら、キラ。」
「…うん。そうなんだろうね、きっと。ラクス、君のことが大好きだった。それは今もこれからも変わらない。それでもやっぱり、僕はアスランを選んでしまったんだね。ちゃんと話すよ。アスランと、二人で。だから…」
そう言うと、キラはラクスに指輪を渡した。
「だから、そんな顔で笑わないで。」
もう、ラクスの口から言葉が出る事はなかった。ただ一粒だけ涙を流して、そして視線を遠く遠くへと向けた。その姿はまるで、夜明けを待つひとのようだった。
「カガリ・アスランサイド」に続く。
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