Phase
ATHRUN
そこに眠るキラは、今にも起きて、『アスラン』と言いそうだった。
キラが、フリーダム・プランの声明通りに撃たれてから、既に11ヶ月が経とうとしていた。アスランたちのとっさの行動により、キラの延髄に定められていた狙いは微妙に外れ、キラは一命を取り留めていた。しかし、それはキラを深い眠りに引き込む引き金となってしまっていた。キラの身体能力、再生能力は目覚しく、いまだ昏睡状態のままだが、割れた無数のガラスの破片で作られた皮膚の傷はすっかり癒えていた。それでもキラは、一度も目を覚まさなかった。
世界の混乱とこれ以上の議論の過熱を防ぐため、キラ・ヤマトはフリーダム・プランの成功と共に死を迎えた事になっていた。『母親』たちは心のバランス・ポイントの獲得と同時に、自らの命を絶ったと自動音声による声明が出された。その真偽は確かめようもなかったが、彼女らはキラ・ヤマトが死んだものと断定したのであった。そしていつの間にか、あらゆるメディアから彼女たちの影もキラ・ヤマトの影も全てが消え去り、そこにはただ、真実だけが残っていた。
キラが撃たれて7日経った時点で、ラクスと懇意のエターナルの軍医は、撃たれたキラから離れようとしないカガリとアスランにはっきりとこう言った。
「もう、ラクス様には伝えてあることだがね、キラの身体は、もう治っているんだ…見える場所は。ただ、それた弾丸が大脳皮質と海馬の一部に衝撃を与えてしまっている。いわゆるコンクルトゥの状態で、右脳の一部が鈍性の障害を受けている。外科的な処置ではもう、それはどうにもならない。キラの脳神経はほとんど再生していないと言ってもいい。それは、キラの睡眠中枢と、そして記憶中枢を酷く破壊している。だからキラは眠り続けているんだ。もう、目覚める可能性は本当にごくわずかだろう。そして、目覚めても記憶の混線は酷く、以前の生活に戻れるかは分からない。」
「そ…そんな!じゃあ、キラは…」
言葉を失ったカガリは、それ以上何も言えず、絶望の表情で固まっていた。つと、カガリの頬を涙が流れ、そのままカガリは顔を手に埋めて泣いた。ラクスは静かにそれを見、そして瞳を伏せた。
アスランはそれを聞くと、急に全ての音が遠くなってゆく気がした。目の前に光が瞬き過ぎて眩暈がした。医師とラクスが机の向かいに座っている、それすらも分からなくなり、すっと全身から血液が流れ出たような感覚に陥った。カガリの横で重くなりすぎて真っ直ぐにしていられない頭を抱え、アスランは必死に空気を肺に入れようと努力した。しかしそれでも眩暈は治まらず、遠くでラクスの声だけが響いていた。
「お二人とも、聞いてください。キラ・ヤマトは7日前に死んだと…世界にはそう配信いたしましたわ。メディアはそろってそう報じるでしょう。もう、これ以上の犠牲は何も必要ないのです。『彼女』たちは、狙撃の失敗を知らない。そして、キラが生きている事を知っているのはわたくしとあなた方だけです。『彼女』たちの心は満たされ、それで何が変わるのかわたくしには分かりませんわ。でも、世界はこれ以上惑わされる事はないでしょう。そして、いつかは記憶から薄れてゆくのですわ。それまでわたくしたちは、今まで通りの生活をしなければなりません。でも、覚えておいてください。キラはまだ、生きています。たとえそれがキラの望みでなくても。キラはまだ、生きているのですわ。わたくしには、ただ、それだけでいいのです…。」
そしてそれから11ヵ月後――
ラクスはオーブの海辺の家に、キラを引き取っていた。そこは質素な外見と異なり、オーブの持てる技術全てが集結された医療機器の数々があった。その中で、キラはただ眠り続けていた。アスランは毎日、時間の余裕が出来るとすぐキラに会いに来た。それは11ヶ月変わる事はなかった。朝早くか、夜遅く。誰も連れず、誰にも行き先を教えず、そっと来てキラが生きている事を確認し、そして誰も知らぬ間に帰っていった。アスランが来ると、ラクスは決まってその部屋をアスランに明け渡した。もう、ここに専属でいる医師はいない。状態は安定しており、すぐにどうこうなるものではなかった。
「キラ、…キラ。」
今日もただ、アスランはそうキラの側に腰掛けてそう話しかけた。まるで、話しかけてさえいれば、そのうちキラが返事をするのではないかというように。そしてアスランの手元には、片羽が壊れたトリィがいた。それは今までずっと、カガリが泣くので電源を切っていたトリィだった。トリィはキラが眠りについてからずっとアスランの肩にいた。片方では飛べない翼は折りたたまれたまま、飛ばずにアスランの肩にいた。カガリはそれを見るたびに泣いた。あんなに自由だった翼が今はもうないと。これを肩にのせているキラはもうここにはいないと。アスランはそれが辛かった。カガリがキラを想って泣くのが辛かった。だからアスランはカガリには見せないように、せめてこれをキラの側で直そうとしていた。まるでトリィが直れば、その持ち主も一緒に戻ってくると信じているように。
「なあ、キラ。もうすぐトリィはちゃんと直るよ。」
キラの周りに細かい道具を広げて、アスランは静かにそう言った。
「心配するなよ、そんな顔して。」
その声は、悲しそうであり、そしてどこか楽しそうでもあった。甘い声は不思議な響きを持ち、どこか何かが軋んでいるような話し方をしていた。そっとキラの頬にかかった髪をかき上げ、アスランは続けた。
「大丈夫、大丈夫だよ、キラ。俺が直してあげるから。泣くなよキラ。お前のトリィはちゃんと直せるから。だから泣くなよ、キラ。お前に泣かれると、俺どうしたらいいか分かんないだろ?なあ、だから…だから…」
小さな緑の鳥を抱きしめて、アスランは泣いていた。零れる涙を止める術はどこにも見つからなかった。
「どうして…どうしてこんな事になってしまったんだ…。俺が、もう少しだけ早く動けていたら、俺がもっと気をつけてやれば、俺が、キラを守るって言ったのに…!」
急に現実に戻ったかのように、アスランはその身体を小さく震わせて泣いていた。
「キラ…もう一度でいい、キラの笑顔が見たい。ただ、それだけなのに…!キラに逢いたい、キラに…そのために、俺が人でないものになってしまうとしても。それで俺がもう二度とこの足でここに立てなくなってしまっても。キラに会えるのなら、俺は何だってするのに…!」
涙はキラの手の平に垂れ、キラの体温を少しだけ奪い、生命維持装置がほんの少しだけ数値を変えただけだった。
静かにドアが開く気配がして、アスランが顔を上げた。泣き濡れたその面は危い脆さを孕んでいた。そしてその視線で見た先には、ラクスが立っていた。
「…ラクス…」
小さく微笑んだラクスは、そっとアスランの横に寄り添うように立った。やわらかい微笑みはやはりどこか狂気と悲しみをたたえていて、アスランはその瞳に引き込まれるようにラクスを見つめていた。そして自分でも気がつかないうちに、こう口に出していた。
「いっそここで殺してくれませんか、ラクス。」
ひとたび口にしてしまったその言葉は、急に膨張してアスランの中からあふれ出し、そしてもう止める事はできなかった。アスランは、次々と出てくる言葉を、まるで他人が話している出来事のように聞いていた。
「ここで眠らせてほしいんです、ラクス。キラの側で。」
そう懇願するようにラクスに言うと、アスランは足元を凝視したまま、独り言のように、何かを吐き出すように苦しげに続けた。
「もう、このままでは耐えられない。俺は弱い人間だ。駄目なんだ!現実を見ようとしても、キラの微笑が見えてしまう。狂気に迷い込もうとしても、現実が邪魔をしてすぐに引き戻される。どちらにもなれない俺は…もう、どうする事もできない。助けてほしい。俺の弱さを嘲笑ってもいい、一人で楽になる事ばかり考えている事をなじってもいい。それでも、俺には耐えられない!キラのいない世界が。もう、ずっと前から知っていた。キラがいなければ、俺は生きていくことが出来ないという事は…。それでも、今まで俺は生きてしまった。キラが生きているからと、自分に言い聞かせて。でも、もう駄目なんだ…。」
そしてまた一筋、アスランの頬を涙が伝った。そしてその冷たさに自分で驚き、縋るような視線をラクスにもう一度向けた。
「お願いだ、ラクス!こんな事、君にしか頼めない。どんな方法でもいい。記憶の中でなら会える事があるとすれば、永遠に俺を眠らせてほしい。夢も見ない眠りがほしい。そこでキラに会えるなら。だから…。カガリには、ありのままを話してやってほしい。きっと、何を言ってもカガリは許してくれないだろうけど。でも、俺は…!」
静かに、それを見ていたラクスが、そっとアスランの髪に触れた。それは信じられないほど暖かく、そして優しかった。
「分かりましたわ、アスラン。」
そう言ったラクスの声は静かで、まるで微笑んでいるかのように聞こえた。
「分かりましたから、その涙を拭ってください。大丈夫ですわ。きっと、キラに会えますわ。遠い記憶の彼方で。」
アスランには、髪をそっと撫でるその手のぬくもりが、全てを救うものに感じられた。
「ありがとう…」
アスランはただそう言って、そっと目を閉じた。
「Phase ATHRUN with CAGALLI 」に続く。 |