サクラガ咲イタヨ
ひょうお。 一陣の風が朱雀大路を駆け抜けてゆく。荒れ果てた都に植えられた桜の梢を舐め、風が通り抜けてゆく。男の持つ太刀から鮮血がはたはたと滴り落ちた。男はそれを美しいと思った。この都に散った桜の花弁と同じように・・・・・ 遷都が行われ、人々に見放された古都に男は立っていた。昔都だったこの場所に住むものは、追い剥ぎ盗賊安女郎、それから捨てられた病人だけであった。男の親はもうとうに亡く、連れも子供もなかった。行くあてもなく、食う物もない。ただ一振りのダンビラを腰にさげるのみだった。新しい都へ行く気もない。ここであるべき姿である追い剥ぎでもするか、さもなくばのたれ死ぬか。今まで生きているのが不思議であった。男はそれでも良いと思った。何もいとおしいものなどなかった。 ある夜の事だった。男は空腹に目が冴え、眠れないでいた。月のない晩のこの都は、さらに寒々としていた。夜の鬼気に晒されるのを畏れるためか、人の気配など微塵もない。ただ、桜の蕾だけが人知れず開こうとしているだけだった。塒としていた橋の袂を抜け出すと、男の足は朱雀大路に向かっていた。何か大きな力に牽きつけられているかのように、男は乾いた砂の道をふらふらと歩いて行った。 男はふと我に返り、何故自分はこのような所に居るのだろうかと疑った。あまりに静かなこの夜自体がふわふわと揺れ、現か夢か幻か、男には分からなかった。足元ばかりを見ていた男が視線を上げると、そこには美しく大きな桜の老木が一本、崩れかけた土塀に寄りかかるように立っていた。灯りのない闇に浮かび上がるような淡い紅の蕾に、男は魅せられた用にじっと目をあてていた。 気が付くと、そこは橋の袂の男の塒だった。夢、だと男は思った。しかし手にはしっかと一本の桜の枝が握られていた。 陽が昇り、また気だるいだけの日が始まった。しかし男は自分の中に揺り起こされた変化に気付いてしまった。 男は枯れた桜の枝を、欠けた土瓶にさした。捨て置く事が、どうしてもできなかった。手が、震えた。枝は一昼夜とたたぬうち、知らぬ間に灰となり、風に散った。 男はそれから毎夜、女の元へ、あの桜の下へ通うようになった。何の意志がそうさせたのか、それは分からなかった。ただ、男は気付くとその場所へ――昼には決して見つかる事のないその桜の下へ――足を向けていた。もしその様を見ることができる者がいたとしたら、まるで何かに憑かれているようだと言うに違いなかった。 男は毎夜、咲きそうになる桜と、真白い女を地に座ってただ見ていた。女の口の端に浮かべられた、あるかなしかの笑みを、ただ眺めているだけだった。そしてふと気が付くと必ず塒に戻り、夜が明けているのだった。 男は女の事以外、何も考える事ができなくなった。 ある夜の事であった。生温かい風が都を吹き抜け、たった一夜で街、と昔呼ばれていたものは薄紅色に染まった。 生温い風が吹き始め、幾日か経った。男は女が肩で息をしていると感じた。唇には相も変わらず密やかな笑みが浮かんでいた。しかしその頬は白い、よりむしろ青くほの光って見えた。 男はダンビラをはためかせ、女の為に今宵も首を取る。地獄獣路――そのただ一本の路を、男はひたと走り続けた。はした金で盗賊たちが春を買ってゆく女どもの首を、男は取っていった。男が通る夜は、風さえないのに桜が揺れる。はらはら、と、血染めの簪がこぼれた。 桜は咲き乱れ、舞い遊び、紅に濡れた手の平が、花になる。零れ続ける美しい死臭に、男は何時しか魅せられていった。花弁が散る度に、ひといのちが散ってゆく・・・・・・ 毎宵、男は生きながらの鬼となり、取った首を持って女のもとを訪れた。女は男に首を地面に置かせた。そして首は知らぬ間に灰となり、塵と消え、血の染みだけが砂地に残っているばかりだった。 桜と春女たちは咲き乱れ、舞い堕ちていった。桜吹雪の時分となり、男の躯は風になった。桜の花弁を散らす、狂える京の風となった。 かつて女は、幸せだった。女は、あの壁の屋敷のやんごとなき方に、妾として可愛がられていた。決して愛されてはいなかった。それでも旁に居られるだけで、女は幸せだった。 都全体が流行り病におかされた遠い昔、女はあの方の屋敷でその病に伏した。真白い着物よりも青白い女の肌は、伏してなお、美しかった。透きとおるようなその白さは、病のためか、さらに美しさを増していた。あの方は病の女に触れる事はなかった。しかしその美しい身体をただ見るため、女を訪れた。ほの青く光る女の肢体をただ、見ていた。冬の雪が舞う中でも、一糸纏うことも許さず、ただ見ているだけだった。 桜ガ咲イタ 土塀の側の桜の老木の下に、女は無造作に埋められた。春の陽気が、女の肌を爛れさせたからだ。桜を一時に都に咲かせるあの陽気が、美しい肌を腐らせたのだ。もはや、女は美しくなかった。もはや見るに耐えかねない姿になっていた。それでもまだ、女は生きていた。しかし、女は埋められた。醜い姿を葬れとの、あの方の命により・・・・・・ 女は埋められ、しばらくして死んだ。女が埋められた後、屋敷では妙な事が起き続けた。とうに治まった都の流行り病によって、あの方の身内から順に死んでいった。祈祷も陰陽道も効かなかった。そしてあの方は、不可解不治の病にかかった。流行り病ではなかった。皮膚は爛れ、頬はこけ、全身の血の気が引き、女と同じ姿になった。家は堕ち、家中のものは去っていった。誰もいなくなった屋敷の塀の傍で、あの方も死んだ。それからしばらくして屋敷は人手に渡り、取り壊された。あの方の屍体を捜すものなど、もはや居もしなかった。それから、さらに幾年も時が過ぎていった。 女は男を見つけ、男は女を愛した。 男は、美しいと思った。自分の手と身を染める紅が。男はもう、誰の為に、否、何の為に太刀を振るっているのか、分からなくなった。 ただ、美しいと思った。 最後の花弁が、老木から離れた。男は、もう首を取ることができなくなった。かつての都には、女に奉げるための首が一つもなくなったのだ。もう、都に生きている者は、男しかいなくなった。その男は太刀を手に、木の下へ引きつけられるように歩いて行った。そこには交わうことのない白骨が二体、捩れるように横たわっていた。幻が消え去り、狂気がくず折れ、あるべき姿だけが残った。男は思った。首を、首を取らねば。 サクラガ咲イタヨ―― コノ世ヲ埋メテ―― サクラガ散ッタヨ―― アトハ―― 何モナイ―― 完 |