サクラガ咲イタヨ

 

ひょうお。

一陣の風が朱雀大路を駆け抜けてゆく。荒れ果てた都に植えられた桜の梢を舐め、風が通り抜けてゆく。男の持つ太刀から鮮血がはたはたと滴り落ちた。男はそれを美しいと思った。この都に散った桜の花弁と同じように・・・・・

遷都が行われ、人々に見放された古都に男は立っていた。昔都だったこの場所に住むものは、追い剥ぎ盗賊安女郎、それから捨てられた病人だけであった。男の親はもうとうに亡く、連れも子供もなかった。行くあてもなく、食う物もない。ただ一振りのダンビラを腰にさげるのみだった。新しい都へ行く気もない。ここであるべき姿である追い剥ぎでもするか、さもなくばのたれ死ぬか。今まで生きているのが不思議であった。男はそれでも良いと思った。何もいとおしいものなどなかった。

ある夜の事だった。男は空腹に目が冴え、眠れないでいた。月のない晩のこの都は、さらに寒々としていた。夜の鬼気に晒されるのを畏れるためか、人の気配など微塵もない。ただ、桜の蕾だけが人知れず開こうとしているだけだった。塒としていた橋の袂を抜け出すと、男の足は朱雀大路に向かっていた。何か大きな力に牽きつけられているかのように、男は乾いた砂の道をふらふらと歩いて行った。

男はふと我に返り、何故自分はこのような所に居るのだろうかと疑った。あまりに静かなこの夜自体がふわふわと揺れ、現か夢か幻か、男には分からなかった。足元ばかりを見ていた男が視線を上げると、そこには美しく大きな桜の老木が一本、崩れかけた土塀に寄りかかるように立っていた。灯りのない闇に浮かび上がるような淡い紅の蕾に、男は魅せられた用にじっと目をあてていた。
――美しい太刀を持っておられるようじゃのう――
突如、桜から音が発せられたと思った。男は驚き、ばっ、と太刀に手をかけた。しかし、声が出なかった。
――その太刀でひとを斬ったことはおありか――
桜、ではなかった。蕾よりさらにぼうっと光る靄に包まれた、女の発する声だった。何時の間に現れたのか、男には分からなかった。ただ、女はこの世のものとは思えぬほどに美しく、桜と男の間にゆらりと立っているだけだった。漆黒の濡れたような髪は一筋の乱れもなく、糸を引いたような目にかぶさる睫がふわさっとあがった。その瞬間、男はこの女に心の臓を片手で掴まれているような感覚に陥った。血のように紅い唇の端が少し歪んだ。笑ったようにも見えた。
――のう――
もう一度女が口を開くと、男は咽喉からつかえが取れたように声を出す事ができた。
――ない――
ただ、そう言えただけだった。するとまた女はひっそりと笑ったように見える唇の形をした。
――わらわのためにその太刀をふるうてはくれぬか――
――そなたの為ならば――
男は自分の口が勝手にそう動いたのが分かり、はっとして口を噤んだ。何を俺にさせる気だ。そう叫ぼうとしても、今度は糊でも付いたかのように、口を開く事ができなかった。
――ありがたや――
そう言って女は男に近付いた。手には枯れた桜の枝が一振り。男にそれを渡すと、女はふっと消えた。いや、女の真白い着物と肌のおぼろげな光が男の目を眩ませた。天地が逆がえるような感覚に襲われ、男は目を固く閉じた。

気が付くと、そこは橋の袂の男の塒だった。夢、だと男は思った。しかし手にはしっかと一本の桜の枝が握られていた。

陽が昇り、また気だるいだけの日が始まった。しかし男は自分の中に揺り起こされた変化に気付いてしまった。
――おかしい――
男は思った。あの女の声が耳から離れないのだ。顔、は思い出せない。ただ怖いほどに白く美しかったとしか。しかしあの声が男の頭に響き続け、気が狂いそうだった。あの透き通るような鈴の音 に似た、それでいて人に否と言わせぬ力のある、あの蠱惑の声が。

男は枯れた桜の枝を、欠けた土瓶にさした。捨て置く事が、どうしてもできなかった。手が、震えた。枝は一昼夜とたたぬうち、知らぬ間に灰となり、風に散った。

男はそれから毎夜、女の元へ、あの桜の下へ通うようになった。何の意志がそうさせたのか、それは分からなかった。ただ、男は気付くとその場所へ――昼には決して見つかる事のないその桜の下へ――足を向けていた。もしその様を見ることができる者がいたとしたら、まるで何かに憑かれているようだと言うに違いなかった。

男は毎夜、咲きそうになる桜と、真白い女を地に座ってただ見ていた。女の口の端に浮かべられた、あるかなしかの笑みを、ただ眺めているだけだった。そしてふと気が付くと必ず塒に戻り、夜が明けているのだった。

男は女の事以外、何も考える事ができなくなった。
――俺はあの女を好いているのか――
馬鹿な。男は即座に自分の考えを否定した。名も、素性も、ましてや正体も分からぬ女を。美しく、おぼろげな光の中にいる、妖しい者を。
――鬼、やもしれぬ――
そう思った瞬間、ぞくっと、男の背中を一筋流れる冷たいものがあった。それでも、男は女をいとおしいと思った。それでもよいと。鬼でも、よいのだと。男の目には、狂気が在った。それが女と同じ色を帯びるのに、そう時間はかからなかった。

ある夜の事であった。生温かい風が都を吹き抜け、たった一夜で街、と昔呼ばれていたものは薄紅色に染まった。

女は啜り泣いていた。朧春霞の中で、泣いていた。まるで傷ついた鳥のようであった。
――恋しや、都――
と、そう鳴いていた。男にはそう聞こえた。女は男に気がつかぬように泣いていた。
―― 誰の為に流す涙なのか――
口に出した言葉の返事にも、やはり恋しや、都とだけ、女の口は動くのだった。そして女はその狂気の目を、崩れかけた土塀――昔はたいそうりっぱであったであろうその壁――に向けるだけだった。男は不安に荒れ狂うようになった。女があまりに美しすぎたのだ。女の涙があまりに美しすぎて、男は耐えられなくなった。男は生まれて初めて、孤独を感じた。愛しては果てのない孤独ばかりを・・・・・・

生温い風が吹き始め、幾日か経った。男は女が肩で息をしていると感じた。唇には相も変わらず密やかな笑みが浮かんでいた。しかしその頬は白い、よりむしろ青くほの光って見えた。 
――どうかされたのか――
男がそう口を開くのを待っていたように、女が今、はじめてにたり、と笑った。満開の桜の下 、その笑みはあまりに美しく、怖かった。男はまた、あの初めて女を見た夜と同じ感覚に襲われた。口ばかりか、身体さえ動かせなかった。また、手が震えた。
――首を――
その笑みのまま、女は言った。鬼、であった。自らが生きんとするがために、生きるものの生首を必要とする、鬼であった。縛られたように動けぬ男が、かろうじて視線だけを女からそらした。その視線の先には女の足があった。女の足元には一つ、男とおぼしき屍があった。ほとんど骨ばかりになってはいたが、まだ皮も毛もあった。その屍の目にはまやかしの光が燈っていた。男は寒くなった。身体の芯から音を立てて自身が凍ってゆくのが分かった。
――にたり――
と、屍が嘲った。女と、同じ笑みであった。
――鬼だ――
男は太刀に動かぬ手をかけ、引き抜いた。手が震えて止まらなかった。
――ぬしも、命惜しかろ――
屍、だったはずのものが、口をきいた。
――ぬしの首でも、わしは構わぬ――
そう言い終わるか、終わらないか、男には分からなかった。女が男のすぐ目の前に音もなく立っていることに、男はその時はじめて気付いた。女は片手を太刀の切先に、もう片手を男の顎にかけた。
――冷たい――
と、男は脅えた。
――動かぬ――
と、男は怯えた。それだのに女はまだ嘲っていた。もう、逃れることはできなかった。
――美しい太刀じゃ わらわのほしいものも存分に斬れよう 首を おなごの首を――
男はまた、女が自分に触れたように感じた。気が、遠くなった。目の前が、薄紅色に染まった。
――この街のように――

男はダンビラをはためかせ、女の為に今宵も首を取る。地獄獣路――そのただ一本の路を、男はひたと走り続けた。はした金で盗賊たちが春を買ってゆく女どもの首を、男は取っていった。男が通る夜は、風さえないのに桜が揺れる。はらはら、と、血染めの簪がこぼれた。

桜は咲き乱れ、舞い遊び、紅に濡れた手の平が、花になる。零れ続ける美しい死臭に、男は何時しか魅せられていった。花弁が散る度に、ひといのちが散ってゆく・・・・・・

 毎宵、男は生きながらの鬼となり、取った首を持って女のもとを訪れた。女は男に首を地面に置かせた。そして首は知らぬ間に灰となり、塵と消え、血の染みだけが砂地に残っているばかりだった。
――今宵の首も、そなたの美しさには敵わぬ――
ある夜、男はそう言おうとしていた。嬉々として首を掲げていた。しかしそこに見たものは、女があの地に横たわる嘲う屍を土塀に押し付けている姿だった。髪を振り乱し、木釘を屍の胸に打っていた。
―― 愛ほしや 恨めしや その胸を殺めたい――
女はまた、男に気付かなかった。屍は木釘を打たれながら、男を見た。そしてまた、にたり、と嘲った。破壊的な笑みだった。恍惚とした喜びにも、蔑みにも、憎しみにも見える笑みだった。男は、とらえようのない嫉みに溺れた。

桜と春女たちは咲き乱れ、舞い堕ちていった。桜吹雪の時分となり、男の躯は風になった。桜の花弁を散らす、狂える京の風となった。 

かつて女は、幸せだった。女は、あの壁の屋敷のやんごとなき方に、妾として可愛がられていた。決して愛されてはいなかった。それでも旁に居られるだけで、女は幸せだった。

都全体が流行り病におかされた遠い昔、女はあの方の屋敷でその病に伏した。真白い着物よりも青白い女の肌は、伏してなお、美しかった。透きとおるようなその白さは、病のためか、さらに美しさを増していた。あの方は病の女に触れる事はなかった。しかしその美しい身体をただ見るため、女を訪れた。ほの青く光る女の肢体をただ、見ていた。冬の雪が舞う中でも、一糸纏うことも許さず、ただ見ているだけだった。

桜ガ咲イタ

土塀の側の桜の老木の下に、女は無造作に埋められた。春の陽気が、女の肌を爛れさせたからだ。桜を一時に都に咲かせるあの陽気が、美しい肌を腐らせたのだ。もはや、女は美しくなかった。もはや見るに耐えかねない姿になっていた。それでもまだ、女は生きていた。しかし、女は埋められた。醜い姿を葬れとの、あの方の命により・・・・・・

女は埋められ、しばらくして死んだ。女が埋められた後、屋敷では妙な事が起き続けた。とうに治まった都の流行り病によって、あの方の身内から順に死んでいった。祈祷も陰陽道も効かなかった。そしてあの方は、不可解不治の病にかかった。流行り病ではなかった。皮膚は爛れ、頬はこけ、全身の血の気が引き、女と同じ姿になった。家は堕ち、家中のものは去っていった。誰もいなくなった屋敷の塀の傍で、あの方も死んだ。それからしばらくして屋敷は人手に渡り、取り壊された。あの方の屍体を捜すものなど、もはや居もしなかった。それから、さらに幾年も時が過ぎていった。

女は男を見つけ、男は女を愛した。
女は鬼となり、屍は土となれなかった。
屍は嘲い、男は風となった。
寂れ朽ちた都に、名も無き女たちの首が散った。

男は、美しいと思った。自分の手と身を染める紅が。男はもう、誰の為に、否、何の為に太刀を振るっているのか、分からなくなった。

ただ、美しいと思った。

最後の花弁が、老木から離れた。男は、もう首を取ることができなくなった。かつての都には、女に奉げるための首が一つもなくなったのだ。もう、都に生きている者は、男しかいなくなった。その男は太刀を手に、木の下へ引きつけられるように歩いて行った。そこには交わうことのない白骨が二体、捩れるように横たわっていた。幻が消え去り、狂気がくず折れ、あるべき姿だけが残った。男は思った。首を、首を取らねば。
――もう、ない。首が、ない。――
そして男が最期に見たものは、自分で切った自分の首の鮮血と、白骨と、女の幻であった。女は、笑って見えた。美しいと、思った。男の目には、悦びが、あった。

サクラガ咲イタヨ――

コノ世ヲ埋メテ――

サクラガ散ッタヨ――

アトハ――

何モナイ――