My Dearest Watson

 

私は戻って来た。この日をどれほど待ち望んでいただろうか。この懐かしきベーカー街へ,私は戻って来た。妻は本当に素晴らしい女性だった。彼女の死は私に深い哀しみを与えたが,今はその悲しみもロンドンの深い霧の中に包まれ,薄れようとしていた。

  「お帰り。わが親愛なるワトスン君。」

  ホームズの声が今にも聞こえそうな階段を,私はゆっくり上がって行った。果たしてドアを開けるとそこには後ろを向いた肘掛け椅子があり―――彼の愛用のあの椅子である―――そこには懐かしい黒髪が覗いていた。私には分かっていた。ホームズは感動の再開というものを軽蔑していた。彼の論理的思考能力をちょっとした感情で途絶えさせてはならないと,彼はいつもそう私に言うのだった。たかが人と会うだけの事で。しかし私はどれほどこの再会を待っていた事だろう!深い霧の中でホームズと静かな引退生活を送り,ちょっとした書き物を―――彼の活躍を書き留めるこの記録である―――するだけの生活を!
「やあ
,ホームズ。僕の部屋はどうなっているのかい?」
私はまだ窓の外を向いているその椅子に背後から声をかけた。ホームズは意地でも振り向くまいとしているようであった。
「ホームズ!何とか言っておくれ。」
半ば苦笑いを噛み潰しながら私はなお
,離れた所から話し掛けた。私には分かっていた。ホームズはある言葉を私が言うまでは決して振り向こうとしないだろう事を。彼は心から私の帰りを待っていたはずだった。私が診療所を持つときの彼の不機嫌さはこの上もないものだった。ホームズは私とまた暮らす事を望んでいたはずである。しかし彼は自分でその事を認めようとはしなかった。あくまでも私が,そう私が彼と暮らしたいのだと,そう言わせたいのだ。私は今日こそは彼に,ホームズに愛情を示してもらわなければ割に合わないと思っていた。この私の感情は,決して私だけのものではないのだから。
「ホームズ!」
いつまでたっても振り向こうとしない彼に私は痺れを切らして歩み寄った。そして椅子に左手を伸ばして上からどうにかして彼の表情が見えないかと努力した。(努力は無駄に終わったが)彼はぴくりとも動かなかった。私は一人小さなため息をこぼしてもう片方の手を彼の痩せて長い指に重ねた。ここで私の彼への期待はほぼ無となった。私のほうが
,彼の反応を待っていられなかったのだ。彼の手は前に見たときよりさらに華奢になっていた。化学薬品で少々ただれた指先は相変わらず冷たかった。その手を温めるように私はホームズの横に回って椅子のそばに屈み込み,両手で彼の手を持ち上げた。
「ホームズ。私は帰ってきたよ。」
そう言いながら私はそっとホームズの顔を見た。彼は努めて冷静なふりをしていたが彼のいつもより上気した頬がその努力の成果を無駄にしていた。私はそっと彼の手の甲に口付けた。従者が主人にするように。
「ワトスン君。君は僕を慕ってくれているのかい?それでわざわざ診療所という社会的にも心地の良い君の住居を売り払ってきたと?」
もう苦笑いするよりほかなかった。やはり今回も彼の作戦は私を呑みこんでしまったようだった。そんな言葉はたとえ彼がもっと他の言葉を隠す為に用いたとしても
,めったに聞けるものではなかったのだ。
「そうだよ
,ホームズ。もう分かっているだろう?私は君と暮らす為に戻ってきたのだよ?」
そこでやっとホームズは一瞬視線を合わせようとしたが
,また次の瞬間窓の外に注意を向けなおしてしまった。ある人物がここに来るのが見えたからだ。
「ワトスン君
,お客だよ。」
彼はそうぶっきらぼうに言った。私が出て行ったときと同じように。私も負けてはいなかった。
「そうかい。なぜここへ来ると分かるんだい?」
私は彼がどうしても答えたくなる機会を作ってやった。私がホームズの推理を疑う時
,または分からない時,彼は必ずこちらを向いて答えるのだ。私の目を見て,『何で分からないのだい,ワトスン君。』そう言いたげな少し尊大な目をして。私はいつもからかわれていると知りながらもその目が好きだった。彼は説明しようとしてこちらをはじめて向き,私の顔に張り付いた笑いを見たとたん,しまったという顔をした。まるで苦虫を噛み潰したようにホームズの眉はひそめられ、目には後悔の色がありありと浮かんでいた。彼はもう何も言えなかった。今回こそ私の勝ちであった。
「どうしてここへ来るんだい?」
私はそう言いながら彼の乾いた唇に唇を重ねた。珍しい事にホームズは何も動きを見せなかった。ただ私に翻弄されるがままになっており
,目は閉じたままだった。誘うそぶりもなければ拒否する姿勢もなかった。そっと顔を離してやると,彼は少し乱れた呼吸を取り繕うようにこう言ったのだった。
「もうハドスン夫人が上がって来る頃だよ
,ワトスン君。」
それも私には分かっていた。ドアの音と
,階段を上がる彼女独特の足音がしたのだった。
「ホームズ様
,お客様ですよ。」
彼女はそうドアの外で告げた。下から聞こえてくる耳に残る発音の大きな声で
,訪問者が誰かなど,告げる必要もなかった。
「お通ししてくれ。」
ホームズは私の手をわざと邪魔そうにのけながらそう言った。私も状況をわきまえ
,立ち上がった。警部にわざわざこんなところを見せなくてもいい。はたから見れば分からない程度の困ったような―――たとえ他の人が気付いても警部には分からないのだろうが―――ホームズの顔を。私はもう一度彼の方に顔を向け今度は額に軽くキスをした。
「私は疲れたから奥で休んでいるよ
,ホームズ。警部とのおしゃべりに付き合う体力は残っていないよ。」
疲れたのは引っ越す準備だの何かで忙しかった為
,事実だった。彼の言葉が後ろから追いかけてきたが,私は急いでその場から逃げ出した。
「待て!ワトスン!ここに―――」
ホームズがそう言い終わらないうちに
,警部がずかずかと入ってきた。丁度私はドアを後ろ手に閉めたところで,彼には見つからなかった。ドアの向こうで警部の嬉しそうな自慢話と,ホームズのいたって不機嫌そうなやりとりが聞こえてきた。警部はホームズが自分の手柄に嫉妬しているのだとありがたい勘違いをしているのだろう。私はそう思いながら着替え,ナイトガウンを羽織ってベッドにもぐりこんだ。はじめは眠るつもりはなく,ホームズの機嫌の悪い声を聞き取ろうとしていたが,そのうち瞼がふさがってきてもうどうする事もできなくなっていた。やはりはしゃぎ過ぎて疲れていたのだろう。加えていつものホームズとの立場が逆転している事実に酔いしれていた。まだ夜は早かったが,このまま明日の朝まで眠れそうであった。
「ワトスン,起きろ。」
私の心地良い眠りはそんな声で中断させられた。私は無視を決め込み
,また暖かい眠りに戻ろうとしていた。
「ワトスン君!起きてくれ。」
彼の調子が少しやわらかくなったが私はまだ夢を彷徨っていた。沈黙が流れ
,私はほっとした。今はただ眠かった。しかし次の瞬間眠気は吹き飛び私の理性もついでに取り払われようとした。
「お帰り
,わが親愛なるワトスン君。」
彼はベッドにこしかけ
,枕もとに肘をおいて私の耳元に,それこそ唇が触れるか触れないかというところでそう囁いたのだった。私は全身の毛が総立つような感覚に襲われた。もうここで,いつもの関係に戻ってしまっていた。主導権は常にホームズにあった。私はがばっと跳ね起き,ホームズの肩をつかんで自分の元へと引きずり込んだ。
「やあ
,やっと起きたね。」
そう言うと
,ホームズは悪戯が成功した子供のような笑いを私に見せた。ランプの火は一番小さかったが,その様子は見て取れるものだった。
「ホームズ!酷いじゃないか!」
私はそう言うしかなかった。
「何がだい?」
白々しくそう言った彼はまだにやにやと笑っているようだった。
「僕は君がしてくれた事への恩を返しているつもりなんだがね。」
何が!と私は思った。いつもそうだった。ホームズはこうやって人を弄ぶのが得意なのだ。ホームズを目の前にした私はもう彼の策略から逃げ出る事は出来なかった。何よりそれは私が望んでいた事でもあるのだから。彼は平常決してこういった態度を見せることはない。むしろ私の態度をからかっているだけなのである。しかしホームズは実に上手く私をいつも誘うのだった。今晩の様に。
「ホームズ!」
半ばあきらめながら私は言った。
「いつもに増して酷いじゃないか。さっきはあれほど私の誘いに乗らなかったくせに君は私を簡単に乗せるのかい?」
「それは君のせいだよワトスン君。僕は忍耐を知っている。君はまだまだ甘いという事だよ。僕がひどい訳じゃない。お互い様だろ?」
悔しい事にホームズの言った事は当たっていた。ここで私が睡眠を優先して寝てしまえば私の勝ちなのである。しかしこの機会を逃すほど私には余裕もなければ忍耐もなかったのだ。
「君の勝ちだよホームズ。」
大げさにため息をついて見せるとホームズは満足したようだった。嫌な勝ち誇ったような笑いをおさめ
,打って変わって彼にしては穏やかな微笑みをその灰色の目に浮かべた。
「それで?」
彼は私を探るような目をした。
「僕は勝ったのだよ?君は何を―――」
ホームズに言われるまでもなく
,私は彼の唇を塞いだ。彼の目はもう閉じられ,ヴァイオリンを聞いている時のようなうっとりしたどこか夢を見ているような顔をしていた。幾度となく繰り返されるそれに私も酔っていた。いつの間にか私の首に回された彼の腕を取り,少し強くシーツに押し付け,私は彼の身体に没頭していった。彼の名を繰り返し呼んでいる自分の声だけがひどく忙しなげであった。 

 ふと気がつくと朝の日差しが私の顔に当たっていた。私はかろうじてガウンだけを羽織ったような姿で突っ伏していたが,ホームズはやはりもういなかった。だるい身体を叱咤しながら私はハドスン夫人の朝食を食べ損ねまいと寝室から這い出してきた。ホームズは例の肘掛け椅子に座り,新聞を広げていた。久しぶりの夫人の朝食は申し分ないものだった。やっと食べ終わり,私はホームズの方に恨みがましげな視線を向けた。
「もう食べ終わったのかい?」
私が食べ終わるのを待っていたようにホームズはそう言った。彼の格好はきちんとしており
,ガウン姿の私が滑稽に見えた。彼の調子はいつもどうりで,何もなかったかのような調子だった。それもまた私のしゃくにさわり,私は返事をしなかった。今朝は口をきくものか,,私は椅子を彼と反対に向けて彼のもう読み終わったであろうタイムズ紙を広げた。急にホームズが新聞をたたみ,テーブルの上におく音がした。 私は新聞を読むふりをしていたが,それも彼に見破られているような気がしていた。しかし彼の口から出た言葉は私の機嫌を直らせるのに余るほど私の心を揺さぶった。それはいつも私が口にする言葉であり,決して彼が口にする事のない言葉だった。

「わが愛しのワトスン君。僕は君が帰ってきてくれて嬉しいよ。

END