君と僕の距離

 

「飯、行くか?」
今日も眉村は、その何を考えているのか分からないどこか憮然とした表情で僕にそう声をかけた。

時々、眉村はこうやって僕を誘いに来る。お互いの球団の本拠地が近い事もあり、僕たちは日常的に顔を合わせている。眉村が僕を夕食に誘うのは、大体会った日を3と数えると、そのうち1日くらい。そして僕がその誘いに乗るのは、その中のさらに三分の一くらいの確率になる。別に誘いに乗ったって、何があるという訳でもない。ただ安い夕食を食べに行き、二十歳を越えた今ではほんの少しだけ酒を飲み、球団の事や今期の試合の事や、日常生活なんかも少しだけ話して、そして互いの家に帰るだけだ。眉村とは長い付き合いだけど、まだ本当は何を考えているのか実は分からないところが多い。吾郎君みたいに思った事がそのまま口に出るような人だったら、あるいはもう少し仲良くなれたのかもしれない。いや、逆に本当にそんな人がもう一人いたら、それはそれで困る。これ以上僕を振り回す人がいたらたまったもんじゃない。そう、アメリカと日本と、そんな離れた場所にいるのに、いまだにこんなに僕を振り回している・・・そこまで考えて、僕ははっと気がついた。性格がどうこう言うんじゃない。僕は吾郎君だから振り回されるだけで、眉村の性格が今更どうなろうと、この付き合い方は変わる事はないし、変える事はできないのだろう。そう思うと、今の眉村が一体何を僕に求めているのか、本気で分からなくなる。高校時代からの友人とは言え、まあ他の付き合いに比べれば頻繁に会っている僕たちに、軽いノリの先輩たちに「お前らデキてんじゃねえの?」と酒の席で冗談混じりによく言われる。そんな事実はないのだから、僕は少しだけ苦笑してさらっとかわしているけれど、そんな先輩たちの指摘は、実はもっともなんじゃないかとたまに思う日がある。特にW杯が終わってからのこの一年。今日も、そんな日だった。

眉村が無口なのはいつもの事で、しゃべるのは主に僕の仕事だったりする。相変わらず身にもならないような些細な話を僕がするのを、眉村は黙って聞いている。たまにぽつりぽつりと返事をして、そしてひたすら箸を動かしている。ほんの少しだけ入った酒の力も手伝って、僕は少しだけ眉村を試したい気分になった。眉村の本心が見たい。ただ、それだけのはずだった。僕はなんの被害にも合わず、後腐れも何もない。少し眉村の心を覗いて、それで自己満足できれば酒の肴にはちょうどいいと、ただそう思っただけだった。だから僕は、吾郎君の話題を口にした。眉村の心には、きっと引っかかるだろうと思ったから。

「あれからもう、一年も経つんだね。」
そう僕が口にすると、器用に魚の身をほぐしていた箸がぴたっと止まり、眉村の表情が少しだけ変わった。近くで見ている者にしか絶対に分からない程度の、ほんの小さな変化だった。それは苦しいような、見ているこっちが少しだけ痛くなるような、それでいて・・・どこか諦めに似たような。
「ああ、そうだな。」
息と一緒に吐き出すようにそう言った眉村は、また元の表情の乏しい顔に戻って再び箸を動かし始めた。もうとっくに魚の身はホネからはがれて食べられるのを待っているというのに。
「吾郎君、今頃何やってるのかなぁ。」
大方食べ終わった皿を少しだけ脇に避けて、僕はカウンターに肘をついて遠くを見つめた。その視線の先が、アメリカだとでも言うように。
 

 しばらく沈黙だけがあった。僕は僕の中の思い出に浸り、それでも眉村の行動に全神経を傾けながら。店の中の小さな喧騒だけが、やけにはっきりと、それでもどこか遠くに聞こえていた。
「佐藤、お前自分で分かっててそんな事言ってるのか?」
ぱたりと箸を置く音が聞こえて、眉村がいきなりそう切り出した。
「え?何が。」
本気で僕は眉村が何を言っているのか分からなかった。ふと肘をついたまま眉村の方へ視線だけを動かすと、眉村は僕の方すら見ず、ひたすら目の前の空間を見つめたまま眉間にしわを寄せて難しい顔をしていた。相変わらずだなぁと思ってその横顔を眺めていたら、今度は睨むようにしてこちらを見てきた。
「お前、茂野の事をしゃべる時、小さなため息をつく。」
それは、気がついていなかった。僕の失態だったかもしれない。逆に僕は、そんな風に見られていた事にほんの少しだけ羞恥心を覚え、ふと眉村から視線をはずした。きっと頬は無駄に血色がよくなってしまっていたはずだ。でもそれは、きっと酒のせい。そう、こんな事を眉村としゃべっているのも、きっとアルコールのせいなんだと、自分に言い聞かせながら。
「そうかな?僕はただ、思い出を懐かしく話しているだけだよ。」
我ながら嘘で塗り固められた台詞だとは思う。でも、そうでもしないと心を覗くつもりが逆に覗かれてしまうようで、僕は少しだけ身構えて、それからふっと肩の力を抜いた。そうだ、ここにいるのは眉村なんだ。吾郎君じゃない。だから、何を話したって別にいいじゃないか。僕の中の何かがそう言っている。眉村の目が、あまりに真剣だったから、僕はそれで冷静になれた。でも、口に出た言葉は思っていたよりずっと僕の心に近いものだった。
「いいんだ。ずっと、しまっておくさ。ずっと。」
少しだけ、涙が出そうになった。
 

 しばらく眉村は何も言わずにただ遠くを見ている僕を見つめていた。視線が少しだけ痛い。その瞳が、何よりも雄弁に僕に眉村の何かを語りかけているようで、僕はふうっとため息をついた。そして、もうこの話は終わりにしようと思った。これ以上は、近づけない。これが僕と眉村の距離なんだから。これからも変わらない、平行線で続く永遠の路。そう思って口を開こうとした瞬間、眉村が僕の手首を強い力で握った。
「な・・・何?」
思わず驚いてついていた肘から顎をはずして眉村を見ると、まるで怒っているような顔をして眉村が言葉を続けた。
「いつまでもいない奴の事で悩むな、佐藤。」
表情はかたく冷静な口調なのに、僕に触れているその手はとても熱かった。その熱から逃げるように、思わず僕は眉村の手をぱっと振りほどき、こう言ってしまった。
「君には関係ないじゃない。」
「・・・!」
眉村はめったに見られないほど吃驚した表情で僕に振り払われた自分の手を見た。もう、僕の側にも余裕はなかった。眉村の心を覗いてやろうとしたのは僕なのに、どうしてこんなに眉村に心を乱されなくてはいけないのか分からなかった。眉村が訳の分からない行動をするから、吾郎君がここにいないから、眉村の手が熱すぎるから。全ての事に無性に腹がたって、僕はキッと眉村を睨んだ。
「じゃあ、君が慰めてくれるの?」
「・・・佐藤!俺は・・・」
今度こそ眉村は言葉を失い、数瞬後に何かを言おうと口を開きかけた。でも、僕はなぜかそれを聞きたくないと思ってしまった。だから、少し早口になって言った。
「君はさ、有能な投手だよ?それは、もうずっと前から知ってる。でも君は、吾郎君じゃない。吾郎君じゃないんだろ?だったら黙っててくれ。関係ない。関係ないじゃないか!」
思わずカウンターに叩きつけた拳はじんと痺れ、最後は店の人が振り向くほど大きな声になってしまった。
 

ふっとため息をつき、眉村が指を組み、そこにまるで祈るように顔を伏せたのが気配で分かった。そして、まだ痺れる手の熱を持て余している僕に、静かに語り始めた。
「お前の事は捕手として、人間として尊敬できる。それは今も昔も変わらない。それに、W杯で思い知った。茂野と俺との差を・・・。俺にはないものを、奴は沢山持っている。お前が惹かれているのも、分かってる。お前が、誰の球を受けたいのかって事も。でも・・・」
そこで言葉を切り、眉村はまるで泣きそうな顔になって僕の方へ顔を上げた。
「俺に何が言わせたいんだ、佐藤。俺は、お前が考えている事が分からない。」
「何って、僕は・・・」
それ以上、僕には続ける事ができなかった。君には関係ない。君に言わせたい言葉なんて何もない。もう一度そう言えば良かったじゃないかと、何かが叫ぶ。でも、僕はそれ以上何も言えなかった。眉村が僕と同じ事を考えていた事に、衝撃を受けたからかもしれない。眉村の瞳が、あまりにも真剣な色をしていたからかもしれない。そしてそんな眉村の言葉は、僕の胸の奥に重い波紋を投げかけ、心の中に深いざわめきを残した。
 

波紋は、しばらく消えそうにもなかった。

おわり