君の背中

 

 吾郎君が一時帰国している。それを眉村の口から一番に聞いたのは、なんだか意外な気がした。ふと手帳のカレンダーを見ると、もうすぐ吾郎君が「おとさん」と呼ぶ故本田選手の命日だった。きっと彼はそのおおざっぱでいいかげんな性格なのに毎年欠かさない墓参りをするために戻ってきたのだろうと分かった。でもそれをどうして眉村が教えてくれたのか分からなかった。いつもなら、真っ先に自分で情報を手に入れているか、吾郎君本人が僕に知らせてくれるか、清水さんや清水さんの弟の大河君が教えてくれるから。僕があまりにぽかんとした顔をしていたからだろうか、眉村が目の前で困ったように眉間に皺を寄せた。
「・・・・・・。」
何も切り出さないでいる眉村を前に、僕が何か会話のきっかけを作るしかなかった。
「・・・会いたいな。」
つい本音が零れた。すると、今度はなぜか眉村が少しだけ目元の表情を歪ませて笑おうとしているのが目に入った。
「・・・そうだな。」
その顔があまりに情けなくて、僕は思わずこう言ってしまった。
「久し振りだし、三人で会おうか。」
「・・・いいのか?」
「何が。眉村だって吾郎君の友達だろ?何の問題もない。」
「そういう事じゃ・・・」
自分を含め、友達と言い切った言葉で自分にショックを受けた僕は、そこで会話を打ち切り、眉村が何を言おうとしているのかすら考える事を放棄した。そして外に出れば一気に冷める、自分の冷静な口調とは裏腹に、ごちゃごちゃになって沸騰しそうな頭のまま、僕は三人で会う段取りをつけるために吾郎君の自宅へと電話をかけていた。

 

 はじめはただ嬉しかった。そこに吾郎君がいるというだけで。

 

 電話をかけるとすぐに、吾郎君へとつながった。それは今までの距離が馬鹿馬鹿しく思えるほどのあっさりした瞬間だった。眉村を含め三人で一度飲みにでも行こうと誘った僕に、吾郎君は笑って承諾してくれた。
「珍しいな、眉村もか。ま、俺はいいけど。じゃ、どこにする?」
結局いつも僕が行く居酒屋に決まり、
「じゃあ、今夜。」
そう言って通話スイッチを切った僕の手は小さく震えていた。何におびえていたのか、何を期待していたのか、それにすら心が揺さぶられてため息をついた。それから夜までの事は、あまり覚えていない。どうせ今夜は一緒に出かけると言うのに、眉村に場所と時間だけを告げて、僕は眉村の元を去った。

 

吐きそうだった。報われない努力をするのがこんなに苦痛だとは思っていなかった。

 

「この前の試合でさ、クセ、出てたよ眉村。」
眉村と吾郎君と合流して、馴染みの店に入った僕は、吾郎君と対面した側に眉村の隣に座っていた。会話の内容はいつもと同じ、野球の事が中心。あとは吾郎君のアメリカ生活とか、球団内の愚痴とか。野球ばかりの人生を歩き続けている僕たちが、所詮それ以外の会話ができないのもまた通りだった。そして気が付くと会話は投球フォームの話になっていた。
「・・・そういう事は、優勝争いしているチームの投手にわざわざ言わなくていい。」
眉村が珍しく会話に入っている。もし三人揃ったとしても、いつも僕と吾郎君が話しているだけ。だから僕はさりげなく、これはある意味機会と言うものではないかと思って眉村を会話に無理やり引き込んだ。吾郎君の気を少しでも引きたいがための、姑息な手。眉村を利用してやろうという嘘に塗れた笑顔。そんな自分が嫌になった。それでも、僕はやめられなかった。僕の気持ちに吾郎君は気が付いていない。告げる事はしない。それでも、少しは吾郎君が僕を同じように思ってくれる気持ちがあるんじゃないかと、絶望的な希望を少しでも夢見たかった。僕は醜い感情でもよかった。吾郎君が誰かに、眉村じゃなくてもいい、誰かに少しでも嫉妬してくれたら。ただそれだけできっと幸せになれるはずだった。
「えー、でも。僕じゃない人に気がつかれたら困るでしょ?今のうちに直しておきなよ。それに眉村だから言ってるんだよ?特別、ね?」
僕は特別という言葉に少しだけアクセントを置いて話した。同時に吾郎君の目を覗き込む。眉村がどんな表情をしているか、気にかける余裕はなかった。吾郎君の目の中には、純粋な感嘆と友情と、そして愉快そうな色しか見えなかった。何にも動じていない。ただ、アハハと笑って
「相変わらずだなぁ、寿も眉村も。」
と言っただけだった。何の感慨もなさそうに。いや、むしろほほえましいものを見るような目でこちらを見ながら。痛かった、たまらなかった。胸の奥からこみ上げてくる感情に名前をつける事すらできなかった。そんな視線がほしい訳じゃない。そんなものが見たい訳じゃなかった。少しでも、ほんの少しでも何かを期待していた自分が愚かだった事に気がついた。いや、僕はずっと前から分かっていたはずだった。吾郎君に囚われたままでは、どこにも進んでは行けない事に。それでも僕は、笑顔を貼り付けたまま涙が零れるのを止める事はできなかった。

 結局、焼き鳥の煙が目に沁みた事にした僕がトイレに駆け込んで顔を洗い、出てくると吾郎君に顔色が悪いと言われた。目元が赤くならなかっただけでも良かったと思っていると、気分が悪いようならまた今度飲み直そうと言われた。その表情は本気で僕の事を心配してくれているのが分かった。そう、仲の良い昔からの友達として。もうこれ以上は耐えられなくて、僕は素直にその言葉に頷いた。
「じゃあな。今日は俺のペースで飲ませて悪かったな。また今度、のんびり飲もうぜ。」
そう言って吾郎君は、軽く右手を挙げて僕に背を向けた。今度って、いつ?いつ会える?いつになったら僕を見てくれる?何かにとりつかれたようにぐるぐると頭の中を回る決して口には出ない言葉だけが、半分開いた口から重すぎる吐息となって零れ落ちた。それはもしかしたら吾郎君にも届いたかもしれない音。それでもやっぱり遠すぎる背中は、僕に何も言ってはくれなかった。

 

やけに疲れた。それが正直な感想だった。

 

僕は一人になりたかった。何でもいい、この感情を一時的にでも薄れさせてくれるものがあるのなら、それに頼りたかった。だからわざといつも行かないような酒の飲める場所へ行こうとふらりと足を伸ばしかけたその時だった、後ろから遠慮がちな声がかけられる。それは今まで存在を忘れかけていた、聞き飽きるほど聞いた事のある声。眉村のものだった。「・・・もう一件、飲みに行くか?」
はっきりしないもの言いに、苛立ちを感じた。気分が悪いかと吾郎君に問われて、そうだと僕は答えたじゃないか。それなのにもう一件と誘ってくるなんて、どうしてなのか分かりたくなかった。自分以外の気持ちを考える事を強要されたような気持ちになって、僕は思わず拳を握った。そこでふと、冷静になる自分がいた。そんな苛立っているんなら、この気持ちを目の前の相手にぶつけてもいいんじゃないかと僕の中の何かが呟く。どうせ誰にも分かってもらえないこの気持ちを、少しだけこの目の前の男に押し付けようと思ってしまった。今日散々利用しておいて、存在まで忘れかけて、本当に酷い奴だと自分で自分を罵る。それでもこんな事がある度、毎回自分の事を気にかけて、こうして誘ってくる目の前の男がなんだかおかしくなって僕は笑った。
「うん、そうだね。」
そう一言だけ告げて、眉村の後をついていった。思いの他、優しい音が口から零れた。それがどうしてなのか、僕には分からなかった。ただ、冷たい言葉を投げつける気分には到底なれなかった。
 

目の前を、黙ったままの眉村が歩いていく。行く先は知らない。でも、今日はこのままついて行こうと思った。何を言われるのだろうかと色々覚悟していたつもりだったのに、その背中もまた、僕に何も言ってはくれなかった。

おわり