Hold Hands
ヨーロッパ選手権は3月に入って丁度中間地点を迎えた。ミハエル率いるアイゼンヴォルフはこれまで圧倒的な強さを見せ、全勝優勝という好調子でほかのチームを大差で退け、一位に君臨し続けている。今日もフランスチームを破り、悠々と帰ってくるところだった。メンバーが暗い競技場の廊下を通り、出口に近づくと、後ろからクラウスがエーリッヒを呼び止めた。5人の歩調が一瞬止まり、エーリッヒが振り向いた。シュミットはエーリッヒの視線を追った。そこには関係者用の部屋のドアに背を預けたクラウスが、こっちへ来いと指で合図している。日ごろからクラウスに対して反感を抱いているシュミットは、『やめておけ』という強い視線をエーリッヒに投げかけた。しかしエーリッヒはやんわりと笑顔でシュミットの視線を和らげた。
「大丈夫ですよ。」
エーリッヒは小声でシュミットにそう告げ、そのまま軽く走ってクラウスについて行こうとした。シュミットは背筋に冷たいものが走るのを感じた。そして思わずそのまま行こうとするエーリッヒの腕をつかみ、驚いたように振り向いたアイスブルーの瞳を見つめた。しかしエーリッヒはその手を解き、
「――?どうしたんですか?すぐ戻りますよ。」
と言って走り去ってしまった。
「行かないの?シュミット?」
不思議そうに聞いてくるミハエルに促されるようにシュミットは競技場を出た。3月も終わりだというのに、外は冷々としていて息さえ白く見えるような気がした。トランスポーターの入り口で立ち止まったシュミットは、エーリッヒの行った方向をじっと見つめていた。
「どうしてですかっ!何もエーリッヒだけ連れて行かなくても!」
クラウスを前に、机に手をつきシュミットは大声をあげた。第一回WGPが4月から日本で開催される。アイゼンヴォルフも、もちろん優勝候補者として登録されていた。しかし、ヨーロッパ選手権において全勝という成績を取っておきながら、途中棄権して日本へ行くわけにも行かなかった。そこで緊急に二軍が集められたのだが、GPチップをはじめ、緻密なコンピューターの管理できるものが一人もいなかった。そこでエーリッヒが、二軍のリーダー兼コンピューターの知識として選ばれ、一人日本へ行くことになったのだった。何回も講義したシュミットではあったが、いつも返ってくるのは同じ否定の言葉だけであった。エーリッヒにも、首を横に振り、シュミットを止める事しか出来なかった。
エーリッヒの、ヨーロッパでの最後のレースが終わりホテルへ帰ってきたメンバーは、それぞれの部屋へ帰っていった。
「エーリッヒ、本当に明日行くのか?」
マシンボックスを机の上に置き、ソファーに腰掛けながらシュミットは尋ねた。いくら聞いても同じなのだが、もう一度聞かずにはいられなかった。
「はい。」
堅い表情でエーリッヒが答えた。
「すみません、シュミット。」
「おまえがあやまる事なんて何もない。これは事情が事情、仕方のないことだ。」
いつもの高慢な口調はどこへ言ったのか、組んだ自分の手を静かに見ながらシュミットは言った。エーリッヒは、そんなシュミットにとっさに言う言葉が見つからなかった。こんなシュミットを見るのは初めてだった。
「そうだ、仕方のないことだ・・・。」
まるで自分に言い聞かせているようで、エーリッヒはたまらなくなって口を開いた。
「すみませんシュミット。貴方にそんな思いをさせて。私だって・・・一人では行きたくない。でも・・・・。すみません。」
下を向いていたシュミットが少し顔を上げ、深い蒼の瞳でエーリッヒを見つめた。それに答えるように、透きとおるアイスブルーの瞳が少し笑った。突然シュミットは立ち上がり、エーリッヒを強く抱きしめた。
「シュミット!!」
「エーリッヒ、おまえとそんなに遠く離れるなんて、私は今まで考えた事はなかった。今までも、これからも、ずっと一緒だと。そう思っていた・・・・。」
びっくりして目を見開くエーリッヒを抱きしめながら、シュミットは懇願するような声で言った。そんな言葉に、エーリッヒは少なからず驚かされた。シュミットにも、こんな一面があったのだ。
「シュミット。離れなければならないのは半年ですよ。」
優しく言うと、予想もしていなかった答えが返ってきた。
「おまえは、半年が長いと思わないのか・・・?この距離が、遠いと思わないのか・・・・?」
マシンを取られた小さな子供のように、シュミットは固く抱きついて離れない。声が、かすかに震えている。これがシュミット・・・・いつも冷たく人を突き離し、誰も近寄らせない
その態度の裏にはこんな想いが宿っていたのだ。―――ひとりになりたくない―――エーリッヒはそのことをやっと感じ取った。
「私だって、貴方と離れるのはいやですよ・・・。たとえどんなに短い時間だとしても。」
そこでエーリッヒは少し力を抜いたシュミットをし腰話、限りなく優しい笑顔をシュミットに向けた。
「シュミット、早く来てくださいね。約束ですよ。貴方の事を、いつも想っています。だから・・・。」
そう言ったエーリッヒは片目を瞑って付け足した。
「もちろん、このまま優勝して。」
そんなことを少し悪戯っぽく言うエーリッヒに、シュミットはやっといつもの笑い顔に戻った。
「ああ、必ずな・・・・。待っていてくれ。」
「はい。」
笑顔で答えるエーリッヒに、シュミットから思わず笑みがこぼれた。
WGPももう半ばだというのに、二軍の成績は振るわなかった。今日のビクトリーズ戦、ただ負けないためだけに戦った二軍の4人とクラウスは、ビクトリーズの本当のミニ四レーサーとしての走りに完璧に負けた。あんな事をするものに、勝者の資格などひとかけらもない。そんな思いが表彰台を辞退したエーリッヒの胸をかすめた。ヨーロッパを離れて日本に来てどれくらいたつのか、エーリッヒには分からなかった。シュミットが言っていたように、半年という時間は、エーリッヒには長すぎた。もう限界だった。二軍の4人は廊下に座り揃って黙りこくっている。その向側に、壁にもたれてエーリッヒは立っていた。エーリッヒは何も言わず、ただ何もない壁も一点を見つめていた。
突然、“ドサッ”と大きな荷物が4人の前に放り出された。4人はびくっと顔を上げ、その反応に、やっと我に返ったようにエーリッヒも顔をあげた。
「・・・・シュミット・・・・」
そこには、前と変わらぬ不敵な笑みを浮かべたシュミットと、一軍のメンバーがいた。
「どういう意味か、分かるよな。」
上から見下ろしながらシュミットが言った。
「国に帰る空港チケットも入ってる。」
それ以上に冷たく言い放つミハエル。クラウスはもはや解雇され、監督はおろか、オーナーの座までも、全てミハエルのものとなった。ふっと我に返ったエーリッヒは、その荷物の中に自分の物がないことに気がついた。4人は帰っていったが、残ったエーリッヒには今までの責任が全てかかっている。エーリッヒはシュミットを見つめていた視線をすっと伏せた。
ヨーロッパ選手権を全勝優勝してきたアイゼンヴォルフだったが、WGPドリームチャンスレースを控えた二軍の成績は、曲がりなりにも良いとは言えないものだった。そのため、日本に到着早々、会議となった。先にたって歩いていくシュミットたちの後ろから、沈んだ面持ちのエーリッヒはついて行った。シュミットは一度エーリッヒのほうを振り返ったが、エーリッヒは気付かなかった。
「諸君、我ら栄光のアイゼンヴォルフは、現在五勝四敗で六位という位置に甘んじている。次のレースで一気に四将を得ても、最高で三位にしかならない。」
シュミットが司会を務め、その簡潔な報告に、はっきりしすぎている自分の責任を再度確認させられたようで、エーリッヒは手を堅く握ってうつむいた。
『私は一体何をやってきたのだろう。自分のレースをしてきたのだろうか。シュミットはヨーロッパで立派に事を成し遂げ、今日本にやって来た。それに比べて私は・・・・』
二人の差に、一つの考えがエーリッヒの頭の中をよぎっては消える。
『これではもう、アイゼンヴォルフとして、いや、シュミットとともに走るなんて出来ないかもしれない・・・・。』
「だが、二軍メンバーのふがいなさを責めている場合ではない。」
―――え―――
シュミットは何か自信に満ちた目でちらっとエーリッヒを見、付け足した。
「エーリッヒ、おまえに新たなマシンを与える。汚名を返上しろ。」
シュミットが何を行っているのか、エーリッヒには一瞬理解できなかった。目の前に、真新しいマシンボックスが置かれる。それでやっと我に返ったように、エーリッヒは伏せていた目を上げた。
「シュミット!」
「私とおまえで一位二位を押さえ、完全勝利を目指す。いいな。」
シュミットが、当然の事のようにそう言った。
「えっ!」
やっとシュミットの言わんとするところを理解し、エーリッヒは言葉を続けようとした。
「しかし・・・・。」
しかしミハエルが・・・・、ミハエルがシュミットと違う反応をするのであれば・・・・?そう恐れたエーリッヒはミハエルのほうに視線を移した。
なんでもないようにふっと振り返りながらミハエルはそう言った。その答えを予期していたかのように、シュミットはかすかに微笑んだ。その微笑みに促されるように、
「わかりました。」
と、エーリッヒは即座に答えた。
「あっ。ここの空もツバメが飛ぶんだねえ。」
窓の外を見やりながらミハエルが言った。
『私の言ったとうりだろう。』
そう言いたげな視線をエーリッヒに移しながら、シュミットは話し掛けた。
「完成して間もないマシンだ。すぐにGPチップの調整に入るぞ。」
「各チームのマシンデータはこれまでに集めたものが使用できます。」
少し微笑んだエーリッヒは、元の状態に近い口調で答えた。
「よし、すぐにはじめよう。」
ニューマシンのナはベルクカイザー。シュミットとエーリッヒのマシンは、対になった形状をしていた。
GPチップの調整が済むと、もう夜更けであった。やっと部屋に戻ると、さっきまで適確に作業をこなしていたエーリッヒは再び黙り込んだ。
「どうした、エーリッヒ。」
会議の時とはうって変わって、心配でたまらない様子を露にしてシュミットが尋ねた。
「いえ・・・・・・。」
エーリッヒの曖昧な返事に、少し強くシュミットが話し掛けた。
「私が来たというのに元気がないな。嬉しくないのか?」
「いえ、そんな・・・。そんなわけありません。」
困ったように必死で弁解しようとするエーリッヒを見つめ、シュミットはいつものようにふっと笑った。そういえば、こんなシュミットの顔を見るのは半年ぶりだった。ただそれだけの事なのに、エーリッヒには、何かとても懐かしく感じられた。
「おまえ、もう私と走れないのでは・・・。なのにどうしてニューマシンを・・・なんて考えていたのだろう。」
突然のシュミットの言葉が、あまりにも意の的を得ていたため、エーリッヒは言葉が出てこなかった。
「・・・・!・・・どうして・・・そんな・・・」
「分かっているさ。おまえの考えている事くらい。私を誰だと思ってるんだ。」
ああ、いつものシュミットの口調だ。エーリッヒは心の片隅で安堵したが、もう一方ではまだ今までの事を引きずっていた。そんなエーリッヒの心境を見透かしているのか、シュミットは続けた。
「おまえは良くやったよエーリッヒ。私はいつもブラウン管越しにだが、おまえのことを見ていたよ。ヨーロッパで何回か失敗もあったけれど、一人で走っているおまえを見て、次へ進んできたんだ。二軍の奴らもおまえを尊敬していたじゃないか。」
「シュミット・・・・・・。」
めったに人をほめないシュミットの口からそんな言葉が発せられるなんて、エーリッヒには思いもよらなかった。
「もうおまえ一人で苦しむ事なんてない。私がいる。それにおまえが私と走れないなんて考えるな。おまえに私が必要なように、私にもおまえが必要なんだ。やっと会えたんだ、そうだろう?エーリッヒ・・・・」
そう言ってシュミットはエーリッヒの手をそっと持ち上げた。離れている間、そんな事を考えもしなかった。
『ああ、そうか。そうだったんだ・・。私と同じなんだ。シュミットも・・・・。』
やっとエーリッヒの頬に、あの優しい笑顔が戻ってきた。
「・・・はい、シュミット・・・・・・」
エーリッヒはシュミットの手に手を重ねた。アイスブルーとヘイゼルの瞳には、お互いの幸せな笑顔が映っていた。
「直線だ、行くぞエーリッヒ!」
「了解!」
半年遅れの宣戦布告は、見事な成果を残すことになった。二つのマシンはぴったりと寄り添い、チェッカーをくぐりぬけていった。
おわり
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