その十分間 <克哉×御堂>
「社長、申し訳ありませんが、もう会議の時間が迫っております。」
男の声が時間を告げた。もうそんな時間かと、ふと我に返って御堂は背後を省みた。するとそこにはいつものように平然と構えた御堂と同世代の男と、心なしか顔色が悪く見える若い男がいた。二人とも社長付の秘書である。このまま克哉の言いなりになるのも、議論を放り出すのも癪に障りっぱなしの御堂は、あと十分でカタをつけるつもりで秘書に告げた。
「そうか、分かった。もういい。君たちは先に行きたまえ。私はこの分からず屋とちょっと話がある。」
分からず屋を強調し、克哉を睨みつけて言葉を紡ぐと、その視線すらも美味しいかのように、克哉が底意地の悪い顔でにやりと笑った。その表情にもまたカチンときた御堂は、無言で克哉を威嚇しつつも言葉にはこれ以上秘書の前では出すまいとして黙り込んだ。
「了解いたしました。では失礼します。」
手馴れたもので、男は冷静な声のままそう告げて、若い方の秘書を連れて社長室を後にした。
「すぐに行く。会議には遅れはしないだろうから、そのつもりで準備は進めておくように。」
去り際にそう秘書達に告げた克哉の声は、これまた御堂の感情を逆撫でするような、やたらと上機嫌で浮かれたような声だった。
「・・・・・・」
秘書が去って社長室に二人きりになると、御堂は克哉に届く盛大なため息をついて椅子に乱暴に腰掛けた。さっき机を叩いて怒鳴った事で多少何かは発散されたようで、秘書を見送ってみると怒りは随分おさまっていた。口論はいつもの事であるし、そういう時に克哉が面白がって御堂をわざと熱くする事も分かってはいる。苛々させられたままでは仕事に支障が出る事も分かっている。だが、いつもの事ではあると理解はしているものの、感情が追いつかないのだ。しかしここは御堂も大の大人。状況が変わり、冷静になれば先ほどの口論には中身がほとんどないと分かってしまっていた。そう、御堂が怒っていたのは話の中身ではなく、克哉の態度なのだった。怒りに任せて口げんかの誘いに乗ってしまった自分も悪いとは思うのだが、今回ばかりは克哉が謝るまでは口をきくまいと御堂はフンッと、まだ嬉しそうな表情を崩さない克哉から顔を逸らせた。
しばらく社長室には無言の時が過ぎていた。防音が完璧に施してあるこの部屋には、外からの音は何一つとして聞こえない。お互いがお互いの出方を伺って神経を尖らせ、吐息や心音までも聞こえるのではないかと御堂が思ったその時、ふわりと空気が動いた。毛足の長い絨毯の上を、そっと踏みしめて克哉が御堂に近づいてくる気配がした。椅子に腰掛けて足を組んでいた御堂の目の前にやってくると、克哉はいきなりその前に跪いて御堂の手を取った。そう御堂が認識した瞬間、その手に触れる暖かいものを感じた。
「・・・!」
突然の湿った生々しい触覚に驚いて、思わず克哉へと視線を向けてしまった御堂がそこに見たものは、御堂の指先を舐める克哉の姿だった。
「佐伯!何を・・・!」
ふっと視線だけを上げた克哉は、御堂にわざと見せるようにもう一度の中指から手の甲にかけてをすっと舐め上げた。
「っ・・・!」
御堂が覚えのある感覚に背筋を震わせて息を呑んで克哉を見ると、先ほどまでのからかいの視線はそこから消え去り、どこか真摯で、それでいて妖艶な色が克哉の瞳に宿っていた。
「・・・こんな事で、毎回毎回私が許すと思ったら大間違いだぞ・・・」
そう言いはしたものの、語尾は揺らぎ、御堂はそんな心すら克哉に読まれているのではないかと言う羞恥に頬を染めて俯いた。その様子が余りに恥ずかしそうで、それなのにどこか辛そうで、克哉は少しだけ自分の行動を反省した。
「すまないな、ちょっと調子に乗りすぎた。あんたの怒った顔があまりにも可愛いかったからな。」
そう言いながら御堂の腰掛ける椅子に手を置いて御堂を見下ろすと、御堂の幾分か和らいだ視線と視線が絡まった。その深くて綺麗な目をじっと克哉が見つめると、幻想の湖のような色を湛えたその瞳も同じように克哉を見つめ返し、克哉は深淵に投げ込まれたかのように一瞬の浮遊感に囚われた。頭の芯が痺れるような甘い疼きによろけそうになった克哉が、引き寄せられるように御堂の唇に舌を這わせると、クスリと笑い声がして甘い声が聞こえた。
「・・・全く、君という人間は・・・」
そこにはもう蟠りも怒りもなかった。その言葉に誘われるように漏れる吐息すら自分のものにしたいと克哉は強烈に思い、御堂の唇を今度は噛み付くようにして奪った。
「っ・・・ふ・・・」
柔らかく温かい口内を堪能していた克哉の体が急に御堂に引き寄せられた。それは御堂が克哉の背中に腕を回したせいだと理解した瞬間、克哉は御堂の項と額を鷲掴みにしてさらに深いキスを与え続けた。
「ん・・・」
息をつくのも忘れるほど長いキスの後、名残惜しげに克哉が唇を離すと、二人の間にはつうっとどちらのものともつかぬ唾液の糸が一瞬渡った。
「・・・もう、行かないといけないな。」
あれから既に五分以上は経っていた。秘書に十分後に行くと言った手前、いくら身体と心が高ぶっていても、仕事に戻らなくてはならない。既に何であんなに怒っていたのか今となってはもう分からなくなっていた御堂は、少しうっとりとして克哉を見つめた。
「ああ、そうだった。」
そう言った御堂の瞳があまりに潤んでいて、克哉は思わず咽喉を鳴らしそうになった自分を諌め、言葉の応酬で自分の意識を御堂の羞恥に変換しようとした。
「家に帰ったら、続きをしてやる。さっきのキスは途中からお前が誘ったんだからな。責任は取れよ。」
「・・・!」
企みは成功し、御堂は言葉をなくして椅子から立ち上がり、そしてよろけた。
「もう腰にきてるのか?まったく、感じやすい身体だな。」
「うるさいっ!」
克哉に身体を支えられながら、怒りからではない高揚のせいで真っ赤に染まった頬を隠すために、仏頂面をしようとして失敗した御堂の顔は、しかめつらしく歪んでいるのにどこか幸せそうに見えた。
おわり |