水の中の真紅 2  <克哉×片桐>

 

 片桐の飼っているインコが悪戯した訳ではない。片桐が世話の仕方を間違った訳でも、克哉が餌をやらなかった訳でもない。それなのに、硝子の金魚鉢で飼っていた金魚たちは、数日で次々と死んでいった。水道水を汲んで、ちゃんと天日に一日置いておいたが、それでも水が合わなかったのかもしれないし、何か病気を持っていたのかもしれない。それ以前に、金魚すくいの景品に出されるような金魚だ。輸送やら何やらで最初から弱っていたのかもしれない。理由はともかく、次の土曜には、沢山いたはずの金魚はたった一匹だけになってしまっていた。

 

ぽつんと一匹残ったそれに、片桐はかいがいしく世話を焼いた。日光を集めてしまう硝子の金魚鉢を止め、陶器でできた深めだが広がりのある鉢を買ってきてそこに水を溜めた。水道水はやめて、庭の水撒き用に引いている井戸水を使った。底には綺麗な石と大粒の硝子を敷き、毒のない水草を植え、灯篭や橋のような大理石でできた置物を入れた。水中だけではなく、日光を適度に遮るために水面を半分程度覆うような浮き草も生やした。そうして新しい金魚鉢が完成してみると、それはまるで小さな楽園のようだった。そこに泳ぐ、たった一つの真紅。片桐はそれを、まるで動く宝石であるかのようにそれはそれは可愛がった。

 

最初は克哉も黙ってその様子を見ていた。だが、片桐の金魚に対する入れ込み様を見続けているうちに徐々に苛々してきた。最初はもちろん、あまりに金魚を可愛がるのでつまらないと言う、そんな気持ちもあったのかもしれない。しかし、克哉の奥底に眠る声はそうは言っていなかった。一匹、また一匹と、次々に死んでいくか細くひ弱な命たち。寿命だと、そう割り切ってしまえば短い幸せだった、で終わるのかもしれないが、片桐は一匹死ぬごとに酷く落ち込んだのだ。可愛がれば可愛がるほど、別れが辛い。しかもそれは他の生き物に対して随分と寿命も短い。いくらゆっくり育て、ゆっくり生きろと言っても生きる世界の速度が違うのだ。そんな事は、克哉よりもよっぽど片桐の方が分かっているはずなのに、片桐はその現実を真正面から受け止めて、そして傷ついているのだった。だから、最後の一匹に傾倒する姿が、どこか歪んで見えたのかもしれなかった。克哉は、そんな片桐を見たくなかったのだった。悲しむ姿も、何かに囚われたかのように執着する姿も。

 

だが、そんな事をいくら思い描いていたとしても、言葉にしなくては決して気持ちは伝わらない。増してやそれが、日ごろの態度と行いが品行方正とは言えない克哉の事だ。正しく伝わる訳がなかった。言葉が足りないのはいつもの事だ。しかし、どうしようもなくなってからしか事態が動かないのも、この二人の関係そのものでもあるのだった。

 

そうこうしているうちに、克哉の苛立ちともつかぬ中途半端な感情は爆発してしまった。つまりは、金魚の入った鉢を、蹴飛ばして庭にぶちまけるという行動に出たのだった。

 

庭の飛び石に当たって、陶器が割れた大きな音にびっくりして片桐が駆けつけた時には、水の大半が少し湿った土に吸い込まれていった後だった。金魚は地面に投げ出され、空気の重さに負けて、水の中での華麗な動きとはまるで似ても似つかぬぐんにゃりした様相を呈した水草の上で、ただ力なくぴちぴちと跳ねるだけのものになっていた。しかし、それはまだ生きていた。
「ああっ!」
そう叫んで、思わず靴下のまま外履きもはかずに庭に飛び出した片桐に、追い討ちをかけるように克哉が冷たい一言を言い放った。
「そんなにそれが大事なら、さっさと拾え。」
克哉の声が届いたのか届いていないのか。片桐は克哉に背を向けたまま、慌てふためいて庭に置いてあった雨水のたまった植木ポットを側に引き寄せた。
「はやく、はやく水にかえしてあげないと・・・!」
そこには、顔面蒼白になるほど必死の形相で、まるでそこに克哉などいないかのように金魚を拾う片桐がいた。その姿はあまりに憐れを誘い、それゆえに滑稽だった。縁側に立って、克哉はその様子を見下ろしていた。怒りとも悲しみとも残酷とも、どれとも取りにくい不思議な表情をして。手も出さず、口も出さず。ただ、片桐をじっと見つめていた。

 

「なんでこんな事を・・・」
どうにか無事に風前の灯の命を拾い終わり、片桐は呆然と呟いていた。その手の中には、元は白かったのだろうが、風雨と土に晒されて変色した安っぽいプラスチックの植木ポットが一つ。先ほどまでとは比べ物にならない殺風景な入れ物の濁った水の中に、少し鱗が剥がれかけた、真紅とは言えなくなった金魚が一匹。片桐は克哉を見ようともせず、ただ俯いて弱々しく鰭を動かす金魚を見つめていた。

 

どれほどそうしていただろうか。呆然としている片桐と、時が止まったかのようにぴくりともしない克哉の間に、木々の梢をざわめかせる一陣の風が通り抜けた。風は水面を撫で、その水越しに、揺らめいた克哉の姿が見えた。強い風が収まっても、微風で表面が絶え間なく揺らめき、その表情は見えなかった。水面越しに克哉の視線を感じたからか、片桐が口を開いた。
「拾えと僕に言うくらいなら、どうして蹴飛ばしたりなんかするんだい・・・?」
克哉は答えず、疑問に疑問で返した。
「なんでそんなもの後生大事にするんだ。どうせすぐにまたこいつも死ぬ」
「そうだね。・・・分かってる。」
ぽつりと答えた片桐に、感情の苛立ちの成分を波立たせた克哉が怒鳴りつけるように言った。
「分かっているなら、どうして・・・」
だがその声は、静かだが、珍しく強い調子の片桐の声で遮られた。
「だってこれは・・・佐伯くんが僕のためにと、くれた命なんだよ。」
「・・・それがどうした。そんな事をすればするほど辛くなるのは片桐さん、あんただ。」
「それも分かってるよ。でもね・・・」
水面からの克哉の視線からも逃れるように、片桐はさらに俯いて小さい声で呟いた。
「僕たちには新しい命は生み出せない。」

 

突然言われた言葉は、克哉の疑問から一見かけ離れているかのように思われ、そしてあまりに重かった。それなのに、片桐はなんでもないかのように、そう、まるでこれはたった一匹の金魚の命の重さを話すように落ち着いた声で話を続けた。
「僕は君が大事なんです。もう二度と、こんな大事なものは僕には持てないんじゃないかな。だから、そんな一番大切な君との間に子供ができたらどれだけ良いだろうと思う時もあったのかもしれないけれど・・・でも、それはできない事だからね。望んでも仕方ないって分かっているから。だからね、僕は満足してるんですよ。これ以上望めないくらいに。だって、僕は君に色んなものをもらっている。僕の腕の中には入りきらないくらい、僕の胸の中にはしまえないくらいの沢山のものをね。そんな沢山のものの中で、命をもらったのは、この子が初めてだったんだ。水の中に泳ぐ、真紅の命。だから、大事にしようと・・・」
片桐の語尾は、ほんの少しだけ揺らめいて、まるで泣くのを我慢しているかのように克哉の耳に響いた。

 

「あんたは・・・馬鹿だ。」
はあっと、大きくため息をついて克哉は表情を少しだけ緩めた。感情が声に乗ったのだろうか。ほんの少し穏やかに、ほんの微かに柔らかくなった声の調子に、片桐ははじめて後ろを振り返った。
「え・・・?」
上目遣いで克哉を見つめる片桐の目は、心なしか潤んでいた。目尻が仄かに赤く染まって、それはまるで情事を思わせる妖艶な表情だった。その目から視線を僅かでも外さぬようにと、強く瞳を捉えながら克哉は言葉を続けた。
「そんなものが何の代わりになる。あんたがそれを俺から与えられた命だと、人間の代わりのような扱いをしてどうなるって言うんだ。」
「佐伯くん・・・」
「あんたの側には俺がいる。あんたの鳥がいて、俺がいる。それだけじゃ駄目なのか?俺は、あんた一人だけで十分だ。たった一人、あんたがここに命を持っていてくれるだけでいい。そう思っているのは俺だけなのか?」
「違う!僕だって、君がいれば、それでいい・・・!」
「そうだろう?代わりの命なんか要らない。そいつはただ、そいつの命を全うすれば、それでいいんだ。あんたの想いなんか、そいつには関係ない。そいつはただ生きている。それでいいんだ。」
「うん、そうだね・・・」
「ああ。だから・・・」
そこで言葉を切った克哉は、濡れた土の上に座り込んだ片桐の傍らに、自分も裸足のまま降り立ち、そしてすっと片桐の目の前にしゃがみ込んだ。
「あまりそいつにばかり構うな。」
そう言って片桐を正面から抱きしめた克哉の声は、まるで寂しい淋しいと言っているように聞こえた。それはどこか、水の中の真紅の命と同じ響きを持っていて。片桐は胸の奥が少し痛んで、克哉を抱きしめ返した。

 

 濁っていた水は、いつの間にか上方のみが澄み渡り、ゆっくりとした動きで金魚も上の方へと泳いできた。傾いた陽の光が赤色をその命に足して注ぎ込み、そこにはまるで、永遠に変わらない真紅の輝きが灯っているように見えた。

 

おわり