迷い猫  <克哉×片桐>

 

 夕飯の買い物をしてくると言って片桐が出かけてから随分と時間が経っていた。片桐が出かける時には音も聞こえないくらい細い雨だったのが、日が完璧に暮れた今では本降りになっていた。外の空気はだんだんと冷え込んできており、外は既に真っ暗。近所のスーパーに出かけただけにしては遅すぎる帰りに、さすがに克哉は心配になってきていた。片桐がいないからつまらないと、先ほどから窓を開けて吸っていたタバコももう3本目だ。これを吸い終わったら探しに行こうと、そろそろ本気で何かあったのではないかと、克哉がそう思って立ち上がったその時だった。遠慮がちに、玄関の引き戸が開くカラカラという音が聞こえた。

ただ心配していたと言うのは照れ臭いが、どうしても片桐の無事を確認したくなった克哉は、腹も減ったし心配をかけさせた償いをさせようと、眉間に皺を寄せて足音も荒く、それでも濡れていては風邪をひいてしまうからと乾いたタオルを持って、片桐を玄関まで迎えに出た。
「おい、随分遅かったじゃな・・・」
ホッとした気持ちを音に出さないようにと、不機嫌な声で片桐の背後からそう言葉をかけようとした克哉はしかし、首だけで振り向いた片桐の胸の中に納まっている物体を目にして思わず固まってしまった。
『ニ゛ャアー』
片桐よりも克哉よりも先にその物体が、何かが潰れたような声をあげた。変な面ではあるが、猫だ。子猫なんて可愛いサイズではなく、十分に育ちきって、しかも普通に見る猫よりもワンサイズ以上大きくて不細工な顔をしている。
「・・・猫・・・か?」
思わずそこに疑問を持ってしまった克哉が唖然としていると、片桐が恐る恐るといった風に今度は身体ごと後ろを振り返り、克哉に向けてその猫を差し出した。
「え・・・ええ、猫・・・です。」
その仕草があまりにもびくびくしていて、克哉は今まで自分が一人で置いておかれた状況も手伝い、イラッとして地を這うような低い声で片桐を糾弾した。
「あんた・・・どうしてそんなものを拾ってくるんだ。」
「えっと・・・雨に濡れててかわいそうだったんだよ・・・」
克哉がそれを受け取るどころか触ろうともせずに腕を組んで、まだ靴も脱いでいない自分を冷たい視線で見下ろしているのを見て、片桐はその猫をもう一度自分の腕の中に抱きこんだ。その様子が、まるで克哉から猫を守るように見えて、克哉はあろう事か猫ごときに嫉妬している自分に苛つきながら舌打ちをした。
「片桐さん・・・まさかあんた、それを拾ってくるかどうしようか悩んでいて帰るのが遅くなったとか言うんじゃないだろうな?」
「・・・ええ、まあ、その、この辺では見かけない子ですし、迷ったのかなぁと、最初はこの子に傘をさしてやっていてですね、それで、雨やまないかなと思ったんですけど。いつまで経ってもこの子は動かないし、雨はやまないし、どうしようかなと考えてるうちに、どんどん寒くなってくるし、雨も強くなるしで、どうしようもなくなって・・・それで、つい・・・」
何を子供みたいな事をこの40過ぎの大人が言っているんだろうかと、克哉は思わず痛む頭を片手で抱えた。そしてそんな片桐に対して自分も子供みたいな嫉妬をむき出しにする訳にもいかず、克哉はハアッと盛大なため息をついた。
「ここにはあんたの鳥がいるだろう。どうする気だ。そいつは猫だ。しかも小さくもない。十分自分で生きていける大きさだ。そいつは野生の本能を持っている。鳥がいて腹が減っていれば食うだろう。お前はそんな事も考えずにそれを拾ってきたって言うのか。」
厳しい口調で言い放ってから克哉は、今のはまるで生徒を叱る先生か、子供を叱る父親のようだと思いついて苦い顔をした。するとその表情の変化をどう取ったのか、片桐が必死な瞳で克哉を見上げてきた。
「静たちの部屋には絶対に入れません。それでも、どうしても駄目ですか?うちの軒先で、ずっと震えていたんです。僕を見上げて一生懸命鳴くんです。それが僕には寒い、冷たいって聞こえてしまって。一泊だけ、泊めさせてやってくれませんか?」
まるで人間の子供を扱うような言葉に、克哉はどうしようもなく再びため息をついた。

 

もう克哉には分かっていた。口ではどんな事を言おうと、もう既に自分は片桐を許してしまっているという事を。だから克哉は片桐を拭いてやるつもりで用意したタオルを猫に乱暴にかけてやりながら、それでも何かどこか悔しくて乱暴に口を開いた。
「ここはあんたの家だ。俺にはそれを決める権利はない。だからあんたが決めていい。でもな、こいつは軒先にいたんだろう?だったらその猫は、この家の軒先を雨宿り場所だと決めただけだ。猫は人には連れ添わない。家や環境に馴染むものだ。いくらあんたがその猫がかわいそうだと言っても、そいつは飯と寝床さえもらえれば満足して、そして晴れたらすっかりあんたの事なんか忘れてどこかへ行ってしまうんだ。」
「そう・・・かもしれませんね。いつか僕も、子供にそう言った事があったような気がします。」
「それに猫がいなくなって、寂しい思いをするのもあんただけだ。」
克哉の言葉を受けて、それでもタオルを渡してくれた事に無言の感謝の眼差しを送り、片桐は少しだけ俯き、タオルにくるまる濡れた猫の頭を撫でながら言った。
「そうですね・・・きっと。でも、僕は今、幸せだから。この猫にも少しだけ、この瞬間だけでも居場所をあげたいなって思ったんだよ。雨の日に、僕の家の玄関で一人ぼっちで震えているなんて、そんな事をさせたくないんです。僕には君がいるけれど、この猫には、今誰もいないんです・・・だから・・・」
一度俯いたものの、今はしっかりと克哉の目を見ながら、必死に子供のような顔でそんな事を言う片桐に、克哉はとうとうため息をついて許可した。
「分かりましたよ・・・まったく、しょうがない人だな、あんたも。」
克哉がそう言い終わると、片桐はぱあっと顔を輝かせて微笑み、そして数瞬遅れて怪訝そうな顔をした。
「・・・『も』?」
聞きとがめられなければ流そうと思っていた言葉に片桐が反応してしまい、克哉は逃げ場がなくなり少しだけ頬を赤らめ、ふいっと横を向いた。
「それを許す俺も、しょうがないって言っているんだ。」
「・・・!」
稀にしか見られない克哉の照れた顔に、一瞬驚いて、片桐は目を丸くして克哉を見つめ、そしてすぐにそこには満面の笑みが浮かんだ。
「ありがとう、佐伯くん・・・!じゃあ、この子を泊めてやってもいいんだね?」
「ああ、一晩だけ、この家の屋根の下に置いてやってもいい。」
つっけんどんに言うその言葉がやはりどこか優しくて、片桐は思わず微笑ましいものを見るように眉を下げてしまった。そしてそれを横目で見た克哉は、さらに気難しい表情で十分すぎるほど譲歩した条件を片桐に突きつけた。
「ただし!台所と居間と寝室には絶対に入れるな。玄関上がりぶちの廊下にダンボールでも置いて入れておけ。」
「・・・はい!ありがとうございます、佐伯くん・・・」
片桐が返事するのを見届けると、克哉はつかつかと片桐に歩み寄り、猫を片桐から取り上げた。そして手際よく廊下の端に用意したダンボールの中に猫をタオルと一緒に押し込んだ。そして一仕事終えると満足げにため息をつき、やる事を取られてアワアワしている片桐の腰を抱いて耳元で囁いた。
「克哉と呼べと、何度も言っているだろう、・・・稔さん。」
「はい・・・克哉くん。」
先ほど自分でも苗字で片桐を呼んだ事など棚に上げてそう囁いた克哉と、突然甘くなった雰囲気に、今度は片桐が頬を真っ赤に染めてそっと克哉に身をもたれかけた。

 

 昨日の雨はどこへいったのかというくらいに晴れ渡った翌朝。ありあわせの餌をやり、二人揃って出勤しようと玄関を開けると、猫はあの可愛くない声で一声鳴いて、するりと出て行き、そしてもう二度と片桐家に訪れる事はなかった。

 

「結局、あの子はどこの子だったんでしょうね?」
「どこの猫でもいいさ。あんたの鳥を食わない分別だけはあったんだからな。」
「静たちの心配をしてくれたんですか?」
「・・・・・・」
「そうなんですか?」
「・・・五月蝿い。」
最近態度が大きくなってきたと、不機嫌そうに呟く克哉の傍で、幸せそうに微笑む片桐がそこにはいた。平和な日々がこうしてまた一つ、小さな思い出に彩られて鮮やかに二人の記憶に刻まれるのだった。
 

おわり