暗闇の世界  <Mr.R>

 その眼鏡をかけたものは、仕事においては完璧、しかし性格が鬼畜になると言う。だが、真実の裏はその逆も然り。眼鏡をかけてさえいれば完璧な者がそれを外した時・・・何かが終わり、何かが始まる・・・

 

 Mr.Rと名乗った謎の人物から、佐伯克哉が眼鏡を受け取ってからもうすぐ3ヶ月になる。その間、眼鏡をかけた克哉は非道の限りを尽くしてきた。あらゆる機会、同僚、上司、取引先、そして自分の内なる心すらも利用し、この社会を牛耳る側の立場になろうとしていた。今や克哉はキクチマーケティングなどと言う小さな下請け営業会社など飛び出そうとしており、その準備は着々と進んでいた。

 

まるで眼鏡を受け取る以前の自分のように使えない上司を泣かせてうさを晴らし、暑苦しく馴れ馴れしくいつまでも自分の主義主張が一番だと言い張る同僚の心に何本も釘を打ち込み、親会社の鼻につくエリート面をした上司を力で屈服させ、私生活で懐いてきた五月蝿いだけの子供を弄んできた。そのどれもが一皮剥けば犯罪スレスレ、もしくは犯罪にどっぷりと足を突っ込んだ行為であった。

 

取引先においては、自分の思惑通りにならないと見ると、小さい店舗では弱みにつけこみ、裏で暗躍する者があればそれを利用し恐喝をし、大手企業群の裏をかいて暗部を強請り、通常ではありえないほどの契約を強引に推し進め、そして全てを吸い取ってきた。そこには人を労わる気持ちも人情も何も存在しない。ただ、この世の全てが克哉の前に平伏すその足がかり、否、踏み台ですらなかった。世界の全ては克哉の思うがままであり、そこに君臨するのも時間の問題かと思われた。

 

 しかし、克哉はやりすぎた。

 

行き過ぎた者には罰を下さねばならない。やりすぎた者には制裁を加えなければならない。そうして、次第に克哉の罪を叫ぶ者が出始めた。それは大きく、小さく、全てがうねりとなって克哉にひたひたと静かに押し寄せてきていた。そしてそれを、ただ暗闇から微笑んで見守る者もまた、存在していた。その男の名は、R

 

 Rは、うっとりと克哉を見つめた。
「あの方こそ、全てに君臨すべき存在だと思ったのですがねぇ。せっかく用意したステージも、無駄になってしまいましたか。」
Rは肩をすくめ、ふうと一つため息をつくと、克哉の方へ足を踏み出した。そこには得体の知れない笑みが灯っていた。
「まあ、これはこれでいいでしょう。せいぜい、楽しませてもらいますよ。私の商品として・・・。」

 

 眼鏡を持つに値しない克哉の意識を失わせたRは、自らのステージへと克哉を連れ去った。そこは、光が届かない暗い闇の世界。ただ甘ったるい澱んだ空気だけが濃密に肌に絡みついていた。部屋には外界の雑踏など一欠けらも聞こえず、どこからか聞こえる人の呼吸のような、鼓動のような、低い振動だけが全身を震わせていた。

 

 はっと、激しく焼け付くような痛みで克哉が目を覚ますと、そこは夢か現か分からぬ幾つかの夜にRに連れてこられた妖しい空間のようだった。ぼやける視線を上げ、目の前に唯一光る物体に焦点を合わせた。まるで金糸のようなそれは、Rの髪だった。それを克哉が認識した瞬間、Rは嬉しそうに残酷な笑みを浮かべ、今まで克哉に振るっていた馬上鞭の先を克哉の咽喉笛にあてがった。

 

「佐伯克哉さん。私は想像していました。あなたがこの眼鏡を支配し、全てに君臨する王者となる日々を。しかし、残念です・・・。ええ、非常に残念ですねぇ。あなたは、王になる資格を失ったのですよ。王道を進む者、確かにあなたはある地点までそれそのものでした。でも、悲しいですねぇ。悲しい事に、あなたはそれを踏み外してしまった。自らの行動と言動に、責任を持たなければなりませんでした。そう、こうなる前に・・・。そして、後はただ、私の元に堕ちてくるだけ・・・。」

 

 悦とした表情でRが鞭を振るう間、克哉は考えていた。まだ冷静になる事のできる痛みだった。じわじわと嬲り殺すような痛みは、本当に逃げられない者には何よりの恐怖となるかもしれない。しかし克哉は違った。自分が縛り付けられている手と足に違和感を見出したのだ。ぐっと手に力を入れてみる。何かが軋む。足の角度を変えてみる。ピシッという亀裂音が聞こえる。確かに、縛り付けたその縄や道具は新しい物なのだろう。だが、椅子はどうだ。以前、CLUB Rに招待された時、Rはこうも言っていた。
「これらの家具たちは、長年人の悲鳴と絶望を吸収し、自らのものとしてきた物体たちなのです。さながら、生きぬ私のような・・・。」
言い換えれば出所が闇に包まれたアンティークだ。ただ、CLUB Rに置いてあった家具たちは、造りの非常に良い物ばかりだった。壊れそうにもない。男二人が全体重をかけてどれほど激しく動こうとも、軋み一つあげなかった。だが、ここは店ではない。その奥の、暗い場所だ。ならばただただ古いだけの物で、耐久性が落ちている可能性は否めない。現に今、椅子の脚が一本、Rの鞭による振動で内側に曲がって左足が自由になった。克哉はその機会を見逃しはしなかった。

 

 Rは鞭を振るいながら、恍惚とした表情を浮かべている。既に自分の言葉と空気を震わす鞭の音だけに酔い痴れ、克哉の行動などRの瞳には映ってはいても、見えてはいなかった。
「あなたはここで、私になぶりいたぶる喜びを与えるだけの存在となるのです。その瞳が強ければ強い方がいい。憎しみに燃えれば燃えるほど。そして、その瞳が絶望に染め替えられ、全てを失い私の所に堕ちてくるまで、存分に・・・」
そうRが口にし終わる瞬間、克哉は渾身の力を込めて左足でRの横腹を蹴り飛ばした。

 

 カシャンと何か金属製のものが床に落ち、それと同時に木が砕ける音がした。先ほどの自分の蹴りの反動で、克哉は身体ごと椅子から転げ落ちていた。衝撃と、元々脚部分が弱っていたせいもあり、椅子はバラバラになった。こうなればもう、克哉を拘束していたものたちは意味を成さない。克哉は、どうにか自由が自分の手にあるうちにここから逃げ出そうと一瞬考えた。すると、すぐ近くから、聞いたことのあるようなないような、不思議な音をもつ声が聞こえた。
「こ・・・ここは・・・私は・・・何を・・・?私は・・・誰?」
「・・・!」
目の前には、Rであったはずの男が頭を抱えて蹲っていた。他人の痛みを楽しむような、人生を手の平で操って弄ぶような、あの芝居がかった口調は影もない。ただそこには、無力な一人の男がカタカタと身を震わせていた。

 

 一瞬、何が起こったのか理解ができなかった克哉だが、ふと足元を見て、そこに先ほどまでRの顔に存在していた眼鏡を認めて全てを悟った。
「ふ・・・ふふっ・・・ハハハハハハ!」
Rであった男が辺りを見渡そうと、手を顔から上げた瞬間、克哉はその瞳に恐怖と後悔と不安と絶望と、そして以前の克哉のような全てを心に閉じ込めた不安定な色を認めた。そして克哉は、腹から込み上げる笑いを抑える事ができなくなっていた。

 

「形成、逆転のようだな。下らない、お前の世界を支配してやる。」

 

克哉は身をもって知っていた。眼鏡を外してしまえば、自分が元の自分に戻ってしまう事を。その眼鏡もRから与えられた物。R自身がつける眼鏡も、克哉と同じ類の眼鏡でないと言う保障はない。いや、それどころか、あの自信をなくすとは思えないような飄々とした雰囲気と、先ほどまでの鞭を振るう残虐な嗜好。それを鑑みれば、Rの眼鏡が克哉の眼鏡に近い物である可能性の方がずっと高い。故に克哉は結論付けた。Rは今、眼鏡を失って以前のRに戻ってしまったのだと。遠い遠い昔、まだ古いRの意識があった頃のRに。

 

ただ、Rが克哉と違ったところは、その眼鏡に依存していた時間がはるかに克哉よりも長いという事だ。克哉には眼鏡をはずした時の記憶が微かにあった。だがRのように長年かけ続けていたとしたら、記憶は戻らないのではないだろうか。それはつまり記憶をごっそり失った事と同じだ。それならば、新たな記憶を調教しながら植えつければいい。そのためには、何よりもまず、眼鏡を壊さなければならない。ニヤリと笑った克哉の心には、ただそれだけが浮かんだ。自分だけでいい。ここに君臨し、支配し続けるのは一人でいい。そうして克哉はRの眼鏡を強く踏みつけた。

 

ぐしゃっとRの眼鏡を踏み潰し、粉々になった破片を見つめながら、克哉は呟いた。
「妙な眼鏡だからな、壊れる事はないと思っていたが・・・こうも簡単だとは。」
落ちてぐにゃっと変形したフレームを拾い上げ、克哉はそのつるを舌でべろりと舐めて咥えた。そして、不安そうにぺたんと床に這い蹲ったまま自分を見上げるどこか純粋な瞳を見つめ、克哉は男に語りかけた。
「お前はさっき、自分は誰だと言ったな。」
その威圧的な声にびくっと身体を震わせ、男はそれでも克哉から視線を外す事だけはしなかった。
「あ・・・あなたは・・・」
明らかに恐怖で怯えているにも関わらず、克哉に対する執着だけは持ち続けていたようだ。それならば、その方が手っ取り早い。克哉はつかつかと男に近づき、遥か上空から下界を見下すように男を見つめ返した。
「俺は、全てを支配する者、お前の王だ。」

 

「私の、王。」
先ほどまでとはうって変わった男の、ただ克哉の言葉を繰り返すだけになった様子に、克哉は満足そうに一つ息を吐き、まるで歌うように言葉を続けた。
「お前は、俺の嗜虐心を満たし、ただ嬲られるだけの存在だ。それがお前の存在意義、そしてここにいる訳だ。」
「ここにいる、理由。」
「そうだ。お前は俺に服従する数々の俺の奴隷の中の一つだ。その全てに俺は君臨し、そして頂点に立っている。お前は俺に全てを捧げるんだ。」
「捧げる。私の、王。」
「俺からの命令が、お前にとって一番の幸福だ。俺に虐げられれば虐げられるほど、お前は悦楽を手にする。」
「悦楽。」
「さあ、跪け。命令を乞うがいい。」
「王よ、命令を・・・」

 

 こうして全ては克哉の支配におかれた。そこには全てがあり、全てが闇に沈んでいた。そして、うわごとのように
「私の王よ・・・」
と繰り返す男も、周りの男たちと同様に、やがて虚ろな人形として完成され、克哉の貪欲な欲望に飲み込まれていった。

 

  おわり