独占欲  <克哉×片桐>

 

 今週末は克哉のたっての願い、と言うよりは、克哉による克哉のためのデートプランが用意されていた。もちろん相手は絵に描いたような美女でも、見るからに可愛らしい女の子でもなく、いつも克哉の隣に居る、ぱっと見た目にはただただ人の良いだけに見えるくたびれたオヤジ。一時期リストラ最有力候補とまで言われたが、色々あっていまだ社に残れているキクチマーケティングの片桐稔だった。しかし、そんな男を真剣以上の熱愛で引き摺り回している克哉は幸せそうだった。どうしてこうなってしまったのか、順を追って話せばきりのないストーリーが二人の間には山のようにあった。だが今は、片桐も克哉も幸せそうにしている。ただそれだけ。お互いにそこに居る事だけが至上の幸福であった。眼鏡をかけて激変した克哉に再び柔和な笑みを与えてくれた片桐を、克哉は紛れもなく愛していたし、自分の世界を一度壊してそして作り変えてくれた克哉を、片桐は自分の世界が全てその男の中にあるかのように克哉を愛していた。はじめはぎこちなかった空気も、いつの間にか二人にしか醸し出せない雰囲気を生み出していた。互いに一方は顕著に、そしてもう一方は密やかに、相手を心の底から欲していた。これは、そんなある日の話。

 

ある日克哉が取引先のベルデパートに出かけた時、克哉はそこの系列会社の上役が贔屓にしているという店の話をそこの社員が零しているのを聞いた。某有名ホテルの最上階にあるそのレストランは、それは美味い料理と酒、そしてそこいらでは体験できないような完璧なサービスを提供してくれると言う。ただし、一般市民には財布はともかく雰囲気その他で気後れし、そこまでのエレベーターに乗るのすら気が引けると言う。それを聞いた時、克哉はニヤリと頬が緩むのを止められなかった。

 

克哉には勝算があった。ベルデパートの上には少々足がかりがある。財布の中身だって、契約をあと少し増やせばどうにかできる。片桐をそこに連れ出して、雰囲気に呑まれる姿を想像してみると、克哉は思わず少しだけ暗い笑いが込み上げてきた。そこには純粋に片桐にいい目を見せてやりたいという気持ちが多々あるにはあるが、それ以上に、慌てふためいて克哉を頼ってくる年上の男を鑑賞したいと言う目的もあった。怯えたような、自分にすがるようなあの視線。それは克哉にたまらない快感を寄越していた。これを逃す手はない。克哉が一度そう思ってしまうと、それはもう実行するしか選択肢のないゲームのような気がしてきた。

 

しかし、克哉の予感は色々な意味で砕かれた。

 

ホテルの隣にある、某紳士服ブランド店にて、克哉は今晩のためにと片桐にスーツを買い与えた。落ち着いた濃いモスグリーンのダブルのスーツに薄い茶色のワイシャツ。一見黒に見えるが光が当たると光沢がほのかに深緑な、さわり心地の良いネクタイ。靴は事前にプレゼントしていたもの、理髪店には先週行かせたばかり。完璧だと克哉は思っていた。スーツを克哉がコーディネートしている間はもちろん、紳士服店に入るだけでも片桐はアワアワしていた。それが終わってさあ本番と、ホテルの廊下を歩いている時も、エレベーターで最上階まで運ばれている間も、片桐は落ち着かなさそうにそわそわとしたり、克哉に「変じゃないかな?」と繰り返し聞いてみたりしていた。それはもう、傍から見れば可哀想になるくらい緊張しているのだ。この調子で行けばいい。克哉はそう思っていた。

 

だが、店に入って席に案内され、料理が出てくる頃には、片桐はその場に上手く馴染んでしまっていたのだった。否、店の対応が完璧すぎたのだった。これは克哉も予想していなかった。まさかこれほどまでに客に配慮し、どのような人間でも寛容に受け入れ、かつそれぞれに最高のもてなしを提供する場だとは思っていなかった。席は一応オープンなスペースはあるものの、ほぼ個室と言っても構わないような空間が作られ、そしてさりげなく他の客や色々な視線から綺麗に切り取られていた。店の従業員の対応も完璧だった。堂々と、一度も来た事もないのにただ予約をしていたというだけでまるで常連のように入っていく克哉の、その虚勢とも素ともつかぬ行動にはもちろんそれ相応の対応を。そして克哉の後にびくびくとしながら付いてくるその男にはさらに丁寧な、心を緩ませ、そして密かに開放するとびきりの対応が付いてきたのだ。

 

これには克哉も舌を巻いた。明らかに先ほどまでとは片桐の様子が違っていた。おどおどと定まらなかった視線は次第にしっかりしたものになり、食事を味わい、景色を堪能し、そして給仕をしてくれた人に料理の説明を求めたりできるほどになってしまっていたのだ。確かに、食事をする前までは克哉の思惑通りに事が運んでいた。それで克哉の思惑が半分以上叶えられたと言ってしまえばそうなのだろう。しかしそれだけでは、克哉は不満だった。のんびりとワインを傾けながら、片桐の一挙手一投足を肴にして一晩かけて楽しもうと思っていたのが綺麗に流されたのだ。正直、ほんの少しだけつまらなかった。それ故にか、克哉は楽しそうに料理の話に耳を傾けている片桐にではなく、話をしている店員に静かな嫉妬の念まで抱いてしまっていたのだった。

 

 そんな外食も、克哉が何か行動を起こしてしまう前に無事終了した。店の人間は、克哉の燃える様な視線に気がついて、片桐にする会話を失礼にならない程度にさりげなく控えていた。そして、そんな克哉の気持ちすらどこかへやってしまうような美食と癒しの空間。いつの間にか燃え立った怒りとまでは行かない何か説明のつかない有耶無耶な気持ちは綺麗に忘れ去られ、克哉も満足してしまっていた。はっと、それこそがあの店のサービスだと克哉が気付いた時には、既に片桐の家に二人して帰宅してしまった後だった。

 

家に帰り着いてみると、心から幸せであるはずなのに、どこかほんの少しだけ不満の残るデートだった。それは克哉の子供のような独占欲の結果であるとも言えるのだが、当の本人はそんな事には全く気がつかず、
「それにしてもおいしかったですねぇ。」
などと暢気にしゃべりながら茶の間の襖を開けようとしている片桐を、少しだけ苛々して見つめていた。今まではタクシーの中だったり、人ごみの中だったりしたので、一方的に片桐がしゃべっていても目立たなかったのだが、しんと静まり返る家の中に入ってしまうと、片桐はやっと、先ほどから克哉からの返事がない事に気がついた。せっかくのデートだったし、とっても楽しかったし、克哉も満足そうな顔をしていたはずなのに、おかしいなと疑問に思った片桐は、まだ電気もつけていない部屋に足を踏み入れながら克哉のいる後ろを振り返った。
「どうしたんですか?佐伯く・・・!」
言葉を最後まで言い終わる前に、片桐は何かを思いっきり踏みつけてずるっと滑った。あっと思った瞬間には何かが部屋の中を猛烈な勢いで吹っ飛んでいく気配があり、そしてその直後、派手なガッシャーンという音が片桐の家中に鳴り響いた。
「っ!」
克哉が反射的に後ろに倒れてきた片桐を抱きとめられたから、片桐には怪我はない。だがしかし、克哉がものすごい音の正体と被害を見ようと片桐をちゃんと立たせ、電気をつけるとそこにはすごい事になっていた。

 

 片桐が踏んづけたのは、今朝お茶を飲んでそのままにしておいた、木をくりぬいてできた片桐お気に入りのお茶のセットだった。中に入っていた桜の木でできた茶葉の入れ物は見事に部屋全体に葉を撒き散らして吹っ飛び、入れておいたお茶請けの干菓子もてんでバラバラの方向に転がっており、湯飲みやその蓋の類はさすがに畳の上に落ちたので割れはしなかったものの、ヒビくらいは入っているかもしれない。一番悪かったのは、その入れ物本体の行方だった。最初は何が起きたのか分からなかった。だが、ものすごい羽音と共に、黄色い物体が克哉と片桐めがけてすっ飛んで来た事で、やっと二人にも今の状況が理解できた。片桐に、端っこだけを思いっきり踏みつけられたそれは、梃子の原理でインコの籠が置いてある部屋の隅まで飛んで行き、そして籠の上部に直撃して、ぱっくりと籠の屋根部分が飛んでしまっていたのだった。幸運な事に、飛んでくるインコたちはパニックにはなっているものの怪我はなさそうだった。よく見れば、掃除用に屋根部分を取るための留め金が外れただけで、多少曲がってはいるものの、籠にも大した影響はなさそうだった。一瞬籠を見て青ざめかけた片桐だったが、部屋中を飛び回り、奇声を上げて鳴きまくるインコたちがとりあえず大丈夫な事を見て取って、片桐はとりあえずホっとしてその場に立ち尽くした。

 

二人がホっとしたのも束の間だった。先ほどまで何が起きたか分からない大混乱で飛び回っていたインコたちだったが、今度は部屋も明るくなり、見知った存在が二つそこに居る事が分かって急に二人に向かって飛んできたのだった。
「シズカー!」
と言いながら、克哉の頭にまっしぐらに飛んでいく静御前。籠の音と衝撃に完全にびびってしまい、片桐のネクタイにぶら下がるように必死にくっついたままのもんてん丸。静御前の方は、いつものお気に入りの定位置である克哉の頭に乗ってしまえばもう怖い事など忘れてしまったかのように嬉しそうに鳴いている。しかしもんてん丸の方は、片桐のネクタイに摑まってしまったのが不運だった。ぐらぐらと揺れるその縄状のものは暴れれば暴れるほど安定しなかった。結局、あまりにもんてん丸が必死にしがみ付くので、スーツの前あわせからネクタイの前部分がだらしなく出てしまった。

 

 あまりの出来事に、片桐はびっくりして声を出す事も忘れ、アワアワとうろたえていた。ネクタイからもんてん丸を取ろうにも、興奮状態で啼いているのが可哀想になってきた。それならばとりあえず落ち着くまで待とうと片桐が思った瞬間、克哉が無言で籠をガシャンと乱暴に元に戻し、いつものように静御前を鷲掴みにして放り込み、籠を閉めた。インコを取り扱う克哉の手は、一見乱暴そうに見えるが意外に優しい事を、片桐は知っていた。そんな事を思いながらほのぼのしている片桐は、もんてん丸を自分のネクタイにしがみ付かせたまま、にこにこしながら事の行く末と顛末をのんびり見届ける事にした。

 

自分を見ている片桐の視線を克哉は感じていた。だがいつもの通りの、無償の愛とも言える優しい視線を感じても、今日どこか子供のような独占欲に駆られていた克哉は、片桐をここでは誰にも奪わせないという無性に行き場のない感情が手伝って、思わずつかつかと片桐に歩み寄ってきていた。

 

どうしたんだろうと片桐が克哉を見ていると、いつもは手がかからないので滅多に触ることのないもんてん丸をも克哉が片手で掴んだ。片桐ともんてん丸の両方がびっくりしたのも一瞬で、克哉はまだネクタイにしがみ付こうとするその足を器用に外し、畳に直に置いた籠に放り込んで、しゃがみ込んだままふうと額の汗をぬぐった。まるで一仕事終えたような仕草に、思わず片桐は笑顔を零していた。

 

インコたちも静かになって、まだ部屋の中は大混乱していたが、とりあえず無茶苦茶な状態からは抜け出せられた。こんなハプニングも、何も重大な事態が起こっていなければ、一瞬ヒヤッとしたけれど楽しい思い出になるのだろう。そう思って、片桐はにこにこしながら克哉を見つめていた。すると、再び自分の前まで歩いて来た克哉はふと視線を合わせて、片桐の乱れたネクタイの片端をすいと手にした。何をする気だろう、もしかしてこんな散らかしたおしおき等と称されて、このままどうにかされるんだろうかと思った片桐が一瞬身体を固くした。すると、予想に反して克哉はすっと姿勢を正し、まるでどこかの王国の姫にでも傅く騎士のように片桐の目の前で膝を折った。そして、びっくりして突っ立ったままの片桐のネクタイの下の方をちょっと持ち上げて、跪き俯きぎみで目だけ上げて口にあてた。

 

その仕草があまりに何かえもいわれぬ艶を含んで、それなのに自分が克哉を見下ろす視線はどこかいつもとは逆で、まるで自分の方が優位に立っているような、そんな気分にさえ片桐はなってきた。だが克哉の目はどこか鋭くて、その差が片桐の頬を染め、そして酸素が足りなくなった頭はクラクラとしてきた。数瞬の間そうしていた克哉だが、まるで口付けを解くようにネクタイをそっと唇から離し、一度目を瞑ってから、片桐を見据えて克哉は口を開いた。
「・・・これは、俺のものだ。あんたの鳥のものじゃない。」
「・・・え・・・?」
克哉が何を言っているのか分からず、片桐は思わず聞き返していた。しかし憮然とする克哉の口から零れた言葉は、全く片桐の予想もしていないような気持ちから出たものだった。
「あんたも、あんたの全ても俺のものだ。店員やら鳥なんかに触らせてたまるか。」
片桐の頭から今度は驚きよりも喜びが勝り、さらに克哉のその格好と言葉の内容のギャップに、笑いがこみ上げるのが抑えきれなくなっていた。
「ふ・・・ふふっ。」
「何がおかしい。」
「だって・・・佐伯くん。それじゃあ僕は、いつも君にくっついている静にまで嫉妬しなくてはいけないのかい?」
カッと、克哉の頬が一瞬赤くなり、そして憮然とした表情のまま、克哉はぽつりと肯定の言葉を紡ぎだした。
「・・・ああ。」
それは驚くほど心のままの素直な言葉だった。克哉は時に、あまりに純粋で、凶暴な程に直接的で、そして目を見張るほど子供らしい。思わず笑みがこぼれてしまった片桐と、そっぽを向いた克哉。キラリと冷たく光るシルバーフレームの眼鏡の向こうにうっすら透けて見えるその瞳が、恥ずかしがっているようで、思わず片桐は愛おしさがこみ上げてきた。
「そんなに僕の事を想ってくれて、ありがとうございます・・・克哉くん。」
珍しい片桐から与えられた名に、克哉は思わず立ち上がり、そしてその愛しい人を正面から抱きしめた。
「やっぱり、あなたには敵わない気がしますよ・・・稔さん。」
もうそこには意固地になった気持ちは掻き消え、ただ優しい響きだけが残っていた。
「そんな事、ないです。いつだって君は・・・」
「もう黙っていろ。」
「・・・はい。」
部屋中に広がる爽やかな茶葉の香の中、後は突然籠に入れられて不服そうな顔をしている静御前の鳴き声と、ホっとしているようなもんてん丸の毛繕いの羽音と、そして衣擦れの音しか聞こえなくなった。

おわり