あの人 <克哉×片桐>
あの人と街で出会ったのは偶然だった。まさかあの人がいるとは思わなかった。自分のいない、あの子の思い出のない、遠い遠い場所に越して行ったのだと思っていた。
克哉と片桐が同居を始めてからもう半年が経とうとしていた。羽陽曲折あって、何度も色んなものにぶつかってきたが、その度二人はそのどれをも乗り越え、あるいは壊して今の幸せを手に入れた。それは片桐にとって経験した事のない衝撃の連続であり、自分より何年も短い人生しか生きていない克哉に教えられる事が沢山あった。その逆も然りで、克哉も片桐に知らなかった感情を溢れるほどに与えられてきた。最初は会社に行くのも、買い物に行くのも、ましてや家から出るタイミングまで一緒になるのは君の迷惑になるから嫌だと言い張ってきかなかった片桐だったが、克哉の粘り勝ちで、今では周囲の人々に色々と黙認され、あるいは堂々と公認されつつある二人だった。二人が彼女に出会ったのは、一緒に出かける事が日常となってしばらく経ってからの出来事だった。
克哉と片桐は色々な買い物のハシゴをして、もう帰ろうとしていたところだった。片桐の手には新しい鳥籠。克哉の手には大量の日用雑貨が詰まった袋がぶら下げられていた。袋は二つあったが、片桐が一つを持とうと申し出ても、克哉に頑として断られていた。克哉が言うには
「あんたがそれ以上の荷物を持ったら、どうせ鳥籠で前が見えにくくなってひっくり返るに決まっている。そうしたら、その荷物を拾うのは俺なんだ。そんな苦労をかけさせたくないのなら、大人しく鳥籠だけ持って歩け。」
という事らしい。しかしそれが微妙な克哉の照れ隠しだったりする事も片桐には分かっており、素直に従うそぶりを見せながらも、幸せに顔が微笑みを形作るのを止められなかった。ただ、
「はい・・・そうですね。」
と返事をした後に、
「それに、あんたには腰や身体に負担をかけさせたくない。今夜も好きにさせてもらうんだからな。こんな下らないところで体力を消耗してもらっては困る。」
と言われてしまっては、もう反論などできるはずもなく、大人しく言いなりになるしかないのだった。
克哉の隣で大きな新品の鳥籠を両手で持って、嬉しそうにインコの事をしゃべりながら歩く片桐は、まるで子供のようだと克哉は思った。
「これでもんてん丸も、少しは羽が伸ばせるでしょうね。やっぱり止まり木が何本かないと、静が籠の大部分を占拠してしまうからね。」
大の男、しかも自分より15歳以上も年上の男に向かって可愛いと言う感想を持つのはどうかと克哉自身も思ってはいたが、それでも楽しそうに目をキラキラさせている片桐を見ると、そう思ってしまうのもまあしょうがないかと諦め気味になるのだった。
そんな調子で機嫌よくしゃべっていた片桐だったが、信号待ちで立ち止まると、さっきまでの笑顔はどこへ行ったのか、黙り込んでしまった。克哉は、最初は片桐が疲れたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。片桐の視線は、赤信号で遮られている車道の向こう側、横断歩道の向こう岸の一人の女性に釘付けになっていた。その視線の先にいたのが美人だったりして片桐が見とれていようものなら克哉は強引に自分という存在を教え直そうと思ったのだが、どう見てもその女は克哉より随分と年上で、どこにでもいるような優しげな面立ちの、どちらかと言えば儚げな印象を与える人だった。しかも、それを見る片桐の目は羨望などではなく、どちらかと言えば恐怖に慄いているように見えた。
「おい、どうした。」
信号が青になっても前に進まず、まるで足元が氷で張り付いてしまったかのようにぴくりとも動かない片桐に、克哉は声をかけた。しかしその声も聞こえていないのか、片桐は視線を動かす事すらできずにその場に立ち尽くしているだけだった。
「片桐さん!おい!しっかりしろ!」
荷物をとりあえず道端に置いた克哉が片桐の両肩を揺さぶり、頬をそっと撫でると、やっと片桐は焦点が合ったような顔をして克哉の目を見た。
「あ・・・あ、ご・・・ごめんなさい。佐伯くん。あの、ええと・・・僕・・・は・・・」
そう片桐が言った直後、向こう岸からの歩行者の波が二人を押し流しそうになった。その流れに逆らうように立ち尽くす二人の前に、先ほど片桐が見つめていた女が歩いて来て、片桐の目の前で立ち止まった。背後では信号がまた赤に変わり、自動車が通り始めていた。
「貴方が・・・」
女が一言声を出した瞬間、今まで固まっていた片桐がいきなり鳥籠をガシャンとコンクリートの地面に派手な音をたてて落とし、それにすら気がつかなかったようにぺこりと頭を下げて走り去ってしまった。
「・・・ったく、俺に籠まで運ばせる気か、あの人は・・・」
片桐が走り去った訳が分からず取り残された克哉が、分からないものはしょうがないと、地面に置いた荷物と籠を抱えようとしゃがみ込んだ時だった。
「貴方が・・・今、片桐と一緒に居て下さっている方ですか・・・?」
思いもよらぬ方向、つまりしゃがんだ自分の頭上から硬い女の声が聞こえた。
「ああ、そうだが・・・」
片桐の行動に驚いてまだ呆然としていたのか、言葉を選ぶ間もなく克哉は女にそう答えていた。籠を拾い上げ、いぶかしげな視線を女にひたと据えながら克哉が立ち上がると、女は一瞬逡巡してから克哉に一言こう告げた。
「私は、あの人の妻だった者です。」
今度は克哉が荷物を落としかける番だった。眼鏡をかけた克哉らしくなく、珍しく克哉は動揺していた。今の状況に恥じるところがある訳ではない。それどころか、誰にでも片桐は自分のものだと宣言できてしまうのが、今の克哉だった。ただ、今まで自分が壊して作り直し、そして積み上げてきた片桐の心を壊せてしまう存在が目の前にいると分かり、克哉はどうしようもなく焦燥感に駆られていた。声が出ない。何をすべきか分からない。女を無視すべきなのか、片桐を追い駆けるべきなのか。混乱した克哉を見かねてか、女は克哉に目配せをした。
「ここでは、通行の邪魔になりますから。」
そして女は音もなく歩き出していた。
女が立ち止まるまでついて行くしかできなかった克哉がはっと我にかえると、そこは住宅街の中の閑静な公園の中だった。女は公園にある池を囲む木製の手すりにふんわりと腕を乗せ、克哉の方を見る事なく口を開いた。
「貴方が、片桐の笑顔を取り戻して下さったんですね。」
「・・・さあ、どうだろうな。俺はただ、あの人を一度壊してやっただけだ。何もしていない。」
「そう・・・ですか。でも、片桐は今日、笑っていた。貴方の横で。とても幸せそうに。私の存在を認めるまでは。」
そこで口を噤み、女は少しだけ俯いて言葉を続けた。
「私が片桐の傍を離れてもう随分経ちます。」
それはまるで独り言のようであり、風にさらわれて言葉はすぐに空気に混じっていくようだった。雪のように溶けていってしまう言葉を聞き逃さないように、いつの間にか克哉はその淡々と語る女の声に聞き入っていた。
「私は今、ここではない遠い場所で暮らしています。ここへ戻ってくるつもりはありませんでした。でも、家族の・・・新しい家族の都合で今日一日だけこの街に戻っていたのです。まさか、片桐に会うとは思わずに。いえ、少しは予感があったのかもしれません。でも、お互いに会っても平気だと思ったのです。いいえ、片桐はいつものあの悲しそうな微笑みすら零すかもしれないと、思っていたのです。それには、訳があります。」
言葉を切ると、女は池に投げていた視線を戻し、振り返って克哉をしっかりと見つめて続けた。
「・・・必要な手続き以外で一度だけ、片桐から手紙をもらいました。そこには、こう書いてありました。『今は、本当に愛する人と一緒に笑っていられるから、もう貴女にはこれきり連絡をしない』・・・と。それを見た時、私はほっとしたと同時にとても驚きました。片桐がまた心から笑う事ができるようになったなんて、とても信じられなかったからです。あの頃の片桐は、ずっと自分を責めていました。責めても仕方のない事を、いつまでも、いつまでも。私は、そんな片桐を見ている事が辛かった。たとえ微笑んでいたとしても、それは心からの笑顔ではありませんでした。私に片桐が微笑みかけるたび、私は泣きたくなりました。毎日、毎日、あの人の笑顔を見るのが痛かったんです。だから、私は逃げました。片桐の悲しみに自分が囚われて、そして私まで涙に暮れてしまわないうちに・・・。だから、今日、あの人が手紙にあったように、本当に笑っているのを見て驚いたんです。それはとても幸せそうな顔だったから。そしてあの人の横には、貴方がいた。貴方はどこか不機嫌そうな顔をしているのに、片桐の微笑みを貴方が全て引き出して与えていると、すぐに分かりました。貴方がいれば、片桐は幸せになれるのだと、そう思いました。もう、片桐に未練も懸念も私にはありません。ただ、私は、貴方の事が心配になりました。」
そこで言葉を切ると、女は克哉の目をそっとのぞきこんで微笑んだ。
「いつか貴方も、きっと泣きたくなる。片桐のせいで。」
そう言った女は酷く悲しそうに見えた。
「今は、貴方も笑っていられるのかもしれません。かつての私がそうだったように。でも、いつかは片桐の悲しみに引き込まれて戻れなくなってしまうのではないかと、そう思ってしまったのです。」
静かだった。街の喧騒は遠くにしか聞こえず、車の通る音すら消えていくようだった。ざわっと、木々の葉を揺らす少し強い風が吹いて、克哉は少しだけ目を眇めた。それを見て、女はゆっくりと瞬きをして、すっと克哉から視線を外した。
「・・・すみませんでした。いきなりこんな事を聞かせてしまって。どうして貴方に話そうと思ったのか・・・私にも良く分かりません。でも、貴方に話しておかなければと思ったのです。貴方の目が、あの人に似ていたからなのかもしれません。」
「俺の目の、どこが・・・」
言い終わると、女は克哉の問には答えず少しだけ寂しそうに笑い、そして踵を返して歩き始めた。
「私はもう、ここには二度と戻りません。片桐にもそうお伝え下さい。あなたの過去はもう二度と開かないから、安心するように・・・と。それでは、さようなら。どうぞ、その笑顔を失くさぬよう・・・」
女が歩き去って行く音を克哉の耳が捉えたのは、彼女が克哉から随分離れてからだった。克哉が気付くと、いつの間にか自分の周りには街のざわめきと風の音と、小鳥のさえずりまでが戻ってきていた。それを認識した瞬間、はっとして克哉は荷物を地面に投げ出して走り出していた。そして気がつくと、女の腕を捕らえて振り向かせ、克哉から考える事なく言葉が溢れ出していた。
「俺は笑ってみせる。あの人と一緒にな。」
そこには、予想もしなかった克哉の行動に言葉を失った女がいた。突然の事に何も言えず、ただ目を見開いて克哉の瞳を見つめるしかできなかった。しかし、彼女が驚くにはまだ早かった。
「・・・いや。違うな。」
何もできずにいる女から手を離し、克哉はその目の前に立ちふさがった。
「泣いているあの人を無理にでも笑わせて、あの人をもう一度壊してでも、俺は笑ってみせる。」
不敵に言い放った克哉の目には、言葉とは裏腹に残酷な光は欠片もなく、ただ暖かさに満ちていた。そして克哉はそれだけ言うと満足したように、さっと身を翻した。その背中に、ほうっと女のどこか満ち足りたようなため息が聞こえた。
「最初に、あの人が貴方に出会っていたら、何も失くさずに済んだのかもしれませんね・・・。」
彼女の独り言のような言葉は今度こそ風に溶けて消えていった。
その夜、克哉は片桐を激しく抱いた。何が克哉をそうさせたのか、克哉自身にもそれはよく分からなかった。ただ、無性に目の前にある存在と繋がりたくて、一つになりたくて、それは涙までも共有してしまいたくて、ひたすらに片桐を抱きしめていた。克哉が彼女からの伝言を片桐に届けると、片桐はそっと頷いて克哉に唇を寄せた。
「ありがとう・・・僕はもう、大丈夫。君が、いてくれるから・・・。」
「そうだ。あんたには、俺がいる。二度と忘れるな。もう二度と。」
互いの耳に囁き合った言葉は互いの心に染み込んで、悲しみからではない涙と笑顔を一つずつ、そっと共有するのだった。
おわり |