絶対的既視感 6・名前

「少年には宝石を。少女には未来を。過去には夢という名の幻を。」

朝日が崖に差し込む瞬間、凛としたアキの声が響いた。声がはっとすると、目も眩むような光が当たり一面を照らし、気が付いた時には声は声だけの存在ではなくなっていた。

 頭の中に、甘美で抗い難くそれでも冷たいとらえどころのない妙な感覚が訪れたと思った瞬間、その声は実体を伴って、崖の路に立つアキの前に身体を投げ出すようにして存在していた。ふと、頭上でアキが息を飲む気配がした。
「・・・?」
先ほどの疑問と、今アキがした反応にさらに疑問を煽られ、声の存在はつとその頭を上に向けた。そこには、先ほど崖の上から見ていたのとはまた違った風に感じられる揺らめく煙のように、滾る炎のように、手を伸ばしても決して掴む事などできないもののように感じるアキがいた。そしてその足元には、真っ黒い目をした小さな動くいのち。狐のような身体つきに、滑らかな黒がかった艶やかな毛。無垢であるが故にどこか軋んだ様な光を持つ美しい目に、小さく濡れた鼻。声とその存在の目の前に現されたあまりの違いにアキは少しだけ目を見張って、その首筋をひょいと掴みあげた。すると、暴れるでもなく手足を動かしすらせずに成されるがままになっていたその小さな生き物はアキの目の高さまで吊り上げられていた。じっとその黒い目を見ていたアキの瞳が、また何かの色を含んで煌めいた。それに魅せられるように、小さな生き物は何も言わずにその瞳を見つめ返した。
 

 しばらくの沈黙が、朝日の中に漂い、崖にはようやく起き出した小鳥のさえずりが聞こえてきた。それは春の到来を呼ぶ鳥の声。それは、ここにはもはやあるべき音が交代したのだと世界に告げていた。ふっと、アキが目を瞬かせた。そしてひょいとその生き物を地面に放ったかと思うと、背を向けて歩き出した。危なげもなく着地した「声だった」生き物は、とてとてとアキの背を追いかけようとした。

 崖を出、人家が見える辺りまで歩いたアキの足がぴたっと止まった。つられて止まった生き物の耳にしか届かない程度の声で、アキは呟いた。
「少年には宝石を。少女には未来を。過去には夢という名の幻を。だが、お前には何もやらない。・・でも呼びにくい・・・か。」
それはまるで自分に言い訳をしているようにも聞こえた。
「・・・ザギ」
はっと、黒い生き物は絹のように朝日に透ける色素の薄い髪が揺れる様を見た。
「それが・・・名。」
思わず呟き返したその声に、アキは答える事なく再び口を開いた。今度は明白な意図を持って。
「どこへでも、好きな所へ行くといい。ここではない、どこかへ。」
「はい。それでは、貴方についてゆきます。どこまででも。」
そしてザギは、そっと後ろをついて歩き出した。

 

村には何か伝説があったはずだった。それは少女の命に関わる事のはずだった。でも、どうしてもそれが何だったのか、少年には思い出せなかった。ただ、その朝、少年は誰かに呼ばれたような気がして崖下に駆けつけていた。するとそこには全身びっしょりと濡れてはいたが、静かに呼吸を繰り返す少女がいた。村人たちも、伝説の事など最初からなかったかのように、少女のとった不可解な行動にも首を傾げるだけであった。あまりの安堵に少女を抱きしめた少年は、少女が涙を流している事を自分の腕の中に感じた。その全てがどうしてだか、少年には分からなかった。ただ、少女が生きている事が、嬉しかった。

続く。