絶対的既視感 4・追憶
「綺麗ですね。」 少女は決して自意識が過剰な性格ではなかった。それでも思わず赤面して後ろを振り返ってしまったのは、ここが誰もいない崖に挟まれた小路であるが故。少女は先ほどまで誰もいない泉のそばで花を摘んでいたのだ。自分の他に誰がいようはずもない。この村のものは、誰もその場所に近寄らない。美しくも悲しい伝説があるのだから。しかし少女はその場所こそが、寒い冬の雪降る中ですら美しい花が咲く場所だと知っていた。そして伝説に憧れてすらいたのだ。村で待つ少年はいつも少女を心配したが、そんな心の機微など、憧れの前には些細な障害にすらならなかった。 少女が振り返ったその先には、何もいなかった。存在は感じられない。どんよりと曇った空から無音の雪が舞い降り、少女の頬に当たって落ちた。それ以外に動くものはなく、ただ声だけが聞こえた。甘く低く、そしてひとを惑わせるような美しい響きを持って。 少女は、出来事を誰にも話さなかった。そして、声の聞こえる場所へと、毎日のように出かけるようになった。ただ、様子が変だと問い詰める少年に少し驚きつつも、口を開く事はなかった。 声は、毎日聞こえる訳ではなかった。少女が二度目に声を聞いたのは、その場所に通い始めて幾日も経ってからの事だった。その日も、少女は籠の中に花で作った冠を偶然に入れていた。今日も声は聞こえないと、ほんの少しの落胆を背負った少女が崖のそばを通り抜けようとした時、久方ぶりにその声が聞こえた。 しばらくして少女は、全てをその声に捧げるようになった。冬空の下、崖でたった一人、声を待っていた。誰もいない場所。声と少女だけの空間。甘く響く音。心が満たされるのと同じだけ、少女から何かが奪われていった。優しい声、それは甘い甘い毒。少女の笑いも怒りも悲しみも、全て何もなかったように声は言葉を紡ぐ。それは残酷な響きだった。ささやかな一言は少女の涙や感情すらも奪い、痛いほどの優しさに理性は崩れてゆく。凪で動かない舟のような少女の心は、いつしか壊れていった。 その言葉は甘い毒。足りなかった何かを満たそうとしただけ。頭の片隅に残った少女の何かが語りかける。決して実らぬ恋なのだと。分かっているのに抜け出せられない。それならばいっそ、恋に落ちたあの日のように、声だけの存在になれば、寄り添えるのだろうかと、少女は壊れた瞳で泉を見た。そこには静かに漂う水の音だけが響いていた。それは甘美な誘い。この音と一緒になれば、泉に浮かぶ月明かりのように、共にいられるのではないかという愚かな期待。少女は、音もなく泉へと足を踏み出していった。そこにはもう何もいない。ただ、少女の抜け殻が存在しているだけだった。 続く。 |