絶対的既視感 1・伝説

 

人々の記憶から遠い遠い昔、森の中の泉から一つの死体が上がった。

ある冬の日の事だった。偶然、この森の奥深くに来ていた猟師が、それほど大きくもない泉の真ん中に何か浮かんでいるのを見つけた。森全体に霜が降りるような寒い朝。空はどんよりと曇り、今にも雪が舞い降りそうな天気だった。泉の端にはうっすらと氷まで張っている。自分の吐く息が真っ白く見えた。獲物は既に手に入れており、猟師はもうそろそろ帰ろうとしていた頃だった。猟師はほんの好奇心で泉の真ん中に浮かぶものに目を凝らした。ゆらゆらと揺れる金色の細い糸状のもの。凍りついた布のようなもの。そこから出る真っ白い肢体。泉に浮かんでいたのは、凍りついた少女の身体だった。はっとその正体に気が付いた猟師は、恐怖に駆られて走り出していた。

近くの村までは、あとこの切り立った崖の間の小路を抜けるだけで辿り着くはずだった。ちらっと視界に人家の煙を認め、ほんの少しだけ安堵した猟師の耳に、声が聞こえた。低く甘い声で、

「綺麗ですね」

・・・と。気が付いた時には、猟師は悲鳴をあげて猟師は走っていた。

猟師の必死の形相を見て、村の者たちはすぐに人手を集めて泉に集まった。小舟を出し、少女の身体を岸に引き上げた。それは、身内のないその村の少女の死体だった。放浪癖があり、今回失踪していたのを村人たちは気が付いていたにも関わらず、誰もがいつもの事だろうと思って相手にしていなかった。少女が失踪したのはもう随分前の事だった。故に、少女がどれほどここに浸かっていたのか誰にも分からなかった。それでも少女の身体は水を吸って膨らむ事も腐る事も朽ちる事もなく、ただ冷たい水にさらされて、白よりもっと青く透き通り、どこか人間のものでないように美しかった。そして、そんな少女の死体を見た村の誰もが背筋の凍るような思いをした。少女の表情があまりに穏やかで、閉じた瞳は夢見るひとのようであり、そして口元が嬉しそうに微笑んでいたからだったからだった。

それから時が過ぎ、森は開拓され、その泉や崖の傍にも人間が住むようになった。しかし人間たちはある声に悩まされるようになった。寒い冬が来ると、泉の傍の崖からは声が聞こえてくるのだと言う。低く甘い声でたった一言、「綺麗ですね」と。そしてそれを聞いた人間は老若男女問わず、身も心も声に奪われ、春が来る前に思いを遂げる事ができずに泉に身を投げて死んでしまうと言う。昔々、身も心も捧げた叶わぬ愛のため泉に身を投げた少女がいた。崖から聞こえるその声は、死んで幽霊となった少女の愛する相手なのだ・・・と。

さらに時は流れ、そこに住む者も移り変わり、何代もの人間が生まれ、老い、そして死んでいった。そして、伝説だけが形を変えて残っていた。それも、今では昔のお話・・・

続く。