絶対的不戦敗
「『雪のように消えないで。儚い貴方。』」
彼が何か、とんでもない事を口にしているような気がする。
座木が夕食の片づけを終え、エプロンを外し、居間というには殺風景すぎる動線の一番込み合った部屋に足を踏み入れた。そこには既にリベザルの姿はない。大方お腹がいっぱいになり、眠りに部屋に戻ったのだろう。もしくは自分だけ腹を膨らすのが申し訳ないと、彼の金魚に餌をやりに行ったのだろうか。どっちにしても寒々としたを遥か昔に通り越してきたような秋の科白とは百八十度異なって、思うだけで楽しくなるようなほのぼのとした光景が座木の頭の中に広がった。そんな事を思い、タオルで手を拭きながら窓辺に座る秋の方へと歩み寄った。すると、また彼がとんでもない言葉を完璧な無表情のまま口にした。
「『貴方が月なら、私は貴方を照らす太陽になりましょう』『花のように可憐という言葉は、貴方の為にあるようなもの』『鳥の翼がほしい。今すぐ貴方の元に飛んでゆけるのだから』『風に乗って貴方の香りがしました。とても芳しい香りが』『時の流れなど、私と貴方の永遠の前には無意味な存在』『清らかな水のように、私の手をすり抜ける貴方』『貴方を想う燃え盛る想いは、天まで届く火のよう』」
「・・・秋。何のおつもりですか」
うっかり口を挟んでしまった方が、負けだという事は最初から承知している。それでも思わずため息と一緒に言葉が零れた。心底、どうしてくれようこの人は、という雰囲気を醸し出しながら一種の覚悟を持って挑んだ座木に、秋は実に楽しそうに振り返った。
「ザギのマネ」
「・・・はぁ」
もう座木はすっかり脱力しており、嫌味を言う事すら忘れていた。
「口説きバトンとゼロイチが言っていた」
「?」
相変わらず訳が分からない。それでも秋にしては珍しく、すぐに自分の世界から戻ってきて座木の問いに答えてはいる。これなら少しは話の筋が見えるような会話になりそうだ。話の内容はともかく。そう素直に思って、座木は秋の隣に腰掛けた。
本日昼頃、秋はまた妙な新発売のどら焼きを持って零一の所を訪ねていた。解読不明の一歩手前のような秋のメモを持たされて、座木が朝のうちに買ってきておいたものである。確か店の売り言葉にはこうあった。『DHCたっぷり!鰯餡入り』。何故かは座木の知るところではないが、零一は極端に秋を苦手としており、秋は零一を大変気に入っている。いや、零一が秋を苦手とする原因はそのような土産にもあるのではないかと思い立ち、それではやはり自分もそれに加担している事になるのだろうかと一瞬座木は頭を抱えかけた。が、そんな事を気にしていては、長く秋の相手をしていられない。それ故、短時間で思考の渦を頭の隅に追い遣って、座木は昼という近い過去を思い出してみた。秋は出掛けに座木の部屋に立ち寄り、無駄に分厚いインターネットマニュアルを持って行った。おそらく零一のパソコンに無線ランでも勝手に繋ぐつもりだったのだろう。そしてそれが成功し、確認等と言ってインターネット上で零一に無断で遊んでみたに違いない。それにしてもバトンという言葉と秋の妙な発言がかみ合わない。座木は記憶の片隅からバトンという言葉を引っ張り出して暫く考え込んだ。バトンとは陸上競技やバトントワリング等で使用される円柱状の道具だったはずである。ふっと、記憶をよぎるもう一つのものがあった。決して辞書には載っていないが、確かインターネット上で友人同士に回す、自由回答式質問回覧のようなものがバトンと呼ばれていた気がする。『シャドウ』も一度掲示板で回されていた。座木の頭の中で二つのピースが一つになり、秋の発言に納得がいった。口説きバトンとは、きっと口説くという行為と何らかの言葉を関連させて、最もふさわしいと自分が思うように回答すべきものらしい。そして秋はその回答を座木に似せてしていると。この間およそ数秒の沈黙。秋は礼儀と沈黙をさほど美徳とは考えてはいないが、座木はそのどちらもを兼ね備えた者であった。
ふと、その心地よいとは言えない妙な間と沈黙を破って秋が言葉を続けた。
「んー、残っているのは『光』と『無』か。光はともかく、無はちょっとね。」
相変わらず人の話を聞いているのだか聞いていないのだか、それすら相手に分からせないのが秋である。
「光・・・輝かしいもの。『眩し過ぎて、貴方以外の光が見えない』くらいにしておこう」
やはり座木の想定したバトンというものは、正解だったようだ。それにしても秋の口説き文句と言うのはなかなか聞けるものではない。
「む、無、ム・・・。うーん」
文章の出来はともかく、整った顔を歪めて眉間に皺を寄せてまでも、本人曰く座木のマネをしている姿はそれなりに面白いと言えた。
「nothing。存在自体を否定する言葉を敢えて口説く為に使う、どう考えても矛盾が生ずるわけだ。ザギ、どうだ?お前ならなんとかなるだろう」
はぁ、ともう一度ため息をついて座木が答えた。
「『世界を無に帰してでも、私は貴方と共にありたい』」
「おお!」
ぽん、と握った右手を左の掌に打ちつけて、秋が嬉しそうに口の端を数ミリ上げて笑った。
「やっぱり、付け焼刃だな。とても特級エタノールには敵わない。まあ精度50%でギリギリ消毒の域で我慢しよう。」
意味不明の喩えはこの際無視して、座木はふっと小さく笑った。
「お褒め頂き、ありがとうございます」
「嫌味と世辞の境界線は僕の中でもう一度引き直しておかないといけないようだ。・・・ザギ」
「はい」
「明日俗語辞典とイミダスを買っておいてくれ」
「・・・はい。でも秋、これ以上、妙な言語中枢に壊れかけた例文を入れないで下さい」
一応は返事をしておきながらも、座木は少しだけ意趣返しをした。すると秋は、実に楽しそうに声をあげて笑い、座木を見た。それは『見た目』の年相応の子供の笑顔のような眩しさだった。そして次の瞬間、また完璧に表情が読めなくなり、ふいと顔を窓の外に向けて思考の世界に入り込んでしまった。月の光に照らされたその横顔は感情のぬくもりが消え失せていてもやはり美しく、凛として冷たくほの光っているようにも見えた。
『光である貴方の傍に、影として寄り添いましょう』
そう心の中だけで呟いて、座木はもう一瞥だけを秋に投げかけてすっと音もなく立ち上がった。
「おやすみなさい、秋」
聞こえるか聞こえないかの囁き声に、返事など元より期待などしていなかった座木だが、次の瞬間目を見開いた。
「A
good dream to you」
『ああ、やっぱりこの方には敵わない』
極限までまろやかな微笑をたたえたまま小さく呟いた座木の言葉は、夜の月に溶けて消えた。
おわり
|