指輪
果てしない探求と旅路の果てに、やっとたどり着いた結論を、ようやく兄弟は実行に移すことができた。迷いも疑問も全ては過去の産物となり、二人は完全なる禁忌を犯した。そうしてアルフォンスの体が元に戻り、エドワードの手足が元に戻った。二人が喜びの涙に抱き合っているその錬成陣の中には、まだ鎧の欠片と、機械鎧の欠片が落ちていた・・・
人の姿に戻ってから、アルフォンスはしばらく体調が優れなかった。元に戻れたという、心に対する衝撃はすさまじいものがあり、体が心についていかなかった。今まで長い間使っていなかった涙腺や、興奮することを忘れた脳が、いっきに最高潮まで駆け上ったのだ。血管も心臓も、それに対応するだけの準備ができていなかった。戻ったその時は、あまりの衝撃に涙がとめどなく流れ落ち、兄にすがりつくようにして泣くしかできなかった。そして、アルフォンスはそれを抱きとめてくれた兄の腕の中で、ぐったりと倒れ、そして気を失ってしまったのだった。それから丸一日が経ち、アルフォンスの状態は徐々に良くなってきていた。
「アル、もう起きてて平気なのか?」
意外に器用に剥けているリンゴが乗った皿を手に持ち、エドワードがアルフォンスの寝ている所にやってきた。
「うん、もう大丈夫みたい。」
にっこりと笑ったアルフォンスは、やさしい兄の視線を感じていた。そして自分も同じ感覚を兄に与えられていることを嬉しく思った。
「そっか。でも無理すんなよ。まだ本調子じゃないんだからな。」
そう言いながら、エドワードはアルフォンスにリンゴのささったフォークを差し出した。もう昨日一日で、流動食は卒業できたらしい。消化器官の異常は、今のところなかった。普通の食生活をしても平気だと、昨日の三食で判断できていた。
「分かってるよ、兄さん。でも、本当に今日は気分がいいんだ。」
リンゴを受け取り、一口かじってから、アルフォンスは答えた。
「ま、そうだといいな。オレの見たところ、ちょっと酷い貧血と、興奮状態と、交感神経過敏になってただけみたいだから。」
「それなら大丈夫だよ。明日には完全復活できる、ね。」
アルフォンスは、ちょっと片目を瞑ってみせた。
「お、おう。そだな。」
そんな仕草にちょっとどぎまぎしたのか、エドワードは照れ隠しのように笑った。
「でも、本当に、戻れて良かった・・・ボクも、兄さんも。」
「ああ、そうだな。」
二人は、もう何度となく繰り返してきたそんな言葉を、もう一度口にした。それは、何度言っても尽きることのない泉のような言葉だった。
「ありがとう、兄さん。」
「お前もな。」
そして、二人は顔を見合わせて、ふふっと笑った。
「あ、そうだった!」
突然、エドワードが大きな声を出した。そして、はっとしてアルフォンスを心配そうに見つめた。
「ごめん、アル。オレまたでかい声出して・・・大丈夫だったか?」
今のアルフォンスに、突然の出来事は禁物だった。全ての感覚が過敏になっている今、聴覚からの刺激が心拍数を上げすぎてしまう恐れがあるのだ。昨日は、それで不整脈も出ていた。
「だ・・・大丈夫。」
少し、呼吸と拍動が乱れたアルフォンスは、息苦しさを一瞬感じたが、それも一過性のものだと確認できた。だから大きく一呼吸おいて、エドワードに微笑みかけた。
「ほんとか?アル。オレに気なんか使うんじゃないぞ。分かってるな?」
「分かってる。本当に大丈夫だよ兄さん。ところで、思い出したこと、何?」
「あ、ああそうだ。これ・・・どうしようかと思って。」
そうしてエドワードがポケットから取り出したのは、二つの小さな金属破片だった。
それは、アルフォンスの魂のイレモノだった鎧の破片と、エドワードの右腕の機械鎧の一部のようだった。
「どうやら、オレたちは今回ばかりは用意がよすぎたみたいだな。」
そんな風に言って、エドワードはへへっと笑った。自分達で用意した材料、それが、たったこれだけ、ほんのひとかけらずつだけ、余分だったのだ。
「そっか。これがボクらの一部だったんだね。」
「ああ、そうさ。で、これをどうしようかと思って、アルに聞こうと思ってたんだ。どうする、アルフォンス。」
そう言った時の兄は、いつもとは違う色を帯びた声をしていた。彼が自分をアルフォンス、と呼ぶ時。それは、飾りも偽りも何もない、真摯なエドワードの心の言葉だ。それを、アルフォンスは分かっていた。そして、その声に、いつも心臓が鷲摑みにされていると思っていた。さっきより、鼓動が激しくなっているように感じた。
エドワードの手のひらに乗った二つの欠片をじっと見つめながら、アルフォンスは少し考え込んだ。これは、過去の自分。忘れてはならない戒め。そして、兄の苦しみの象徴だった。もし、この場にアルフォンス一人がいるのであれば、それは捨てられたものかもしれない。しかし、アルフォンスにはそれができなかった。今の自分があるのは、その頃の想いがあるから。兄弟の絆はこんな姿形でも決して途切れなかったという証。その欠片は、二人の思い出と、絆と、過去と、そして自分達に対する戒めの形として、ずっとここにあるべきだと、アルフォンスは思った。
「ねえ、兄さん。ボク、それをずっと持っていたいんだ。ダメかな。」
「アル・・・」
「だって、それはボクと兄さんが、その時存在し続けた、紛れもない証拠なんだから。」
「でも、アル。お前、それで苦しくないか?それが、重くないか?」
「重いよ、兄さん。」
ぽつりと、アルフォンスが言った。
「一人じゃ、背負えないくらい重い。でも、ボクはそれを、兄さんと一緒に背負って生きたいんだ。それに、その重みを忘れちゃいけないような気がするんだ。だから・・・」
「そうか・・・オレだけだったら、これは捨ててたよ。昔焼き払った家のように、消すべきものとしていたかもしれないな。でも、ここにはお前もいる。だから、オレはお前とそれを背負っていきたいよ。アル、お前がそう言ってくれるんなら。本当は、お前の分まで全部背負いたい。でもアル、お前はそれを許してくれないんだろ?」
そんなエドワードの言葉に、アルフォンスはにっこりと笑った。
「うん、そうだね。きっと許さないよ。だって、過去はボクの罪でもあるんだ。」
「そっか。」
そう言って、エドワードはアルフォンスの手をとった。そして、欠片二つを、そっと自分の左手と、アルフォンスの左手で包み込んだ。すると、錬成時独特の光が、二人の手から零れ落ちていった。その光がやんだ時、二人の手の中には、二つの指輪が残っていた。
「オレはこっちを持ってる。いつまでも、オレが土に還る日まで。」
エドワードは、鎧からできた指輪をそっと右手にとった。
「ボクはこっちを持つよ。いつまでも、ボクと兄さんが永遠に分かたれるその日まで。」
アルフォンスは、機械鎧からできた指輪をそっと受け取った。
後日、軍部に出てきたエドワードは、マスタング大佐とホークアイ中尉に、事の次第を告げた。指輪のことも。
「そうか。」
大佐は、それだけ言って、目の前で腕を組み、そして少し何かを考える風にその手の上にあごを乗せた。そして何かを促すように、中尉に視線を預けた。
「そう、それは良かったわ。安心したもの。エドワード君も、アルフォンス君も元気になって。でも、辛くない?」
結論の出ている問いに、エドワードは静かに首を振った。
「辛くないよ、中尉。アルも、同じものを背負ってくれてるから。」
「そう・・・。そうね。」
そして、少し苦しそうにエドワードを見つめた。エドワードの澄んだ瞳には、もう迷いも、後悔も、影さえなかった。それを確認したかのように、中尉は眉間をそっと開いた。そして、今度は声の調子をすっかり変えて、明るくエドワードにたずねた。もう、これ以上のことは必要でなかった。
「それで、今は指輪をどうしてるの?指には見当たらないようだけど。」
「ああ。」
その声につられたように、エドワードは、にっと笑った。
「指だと不便なことが多いだろ?だから、・・・」
そう言って胸元から取り出した細い銀の鎖の先に、その指輪はあった。
「アルと相談して、こうして持ってることにしたんだ。ずっと、オレの鼓動が聞こえるところに。それがアルの願いだったから。」
「そう、そうなのね。ありがとう。」
「いいや、こっちこそ、話聞いてもらってありがと!それじゃ、中尉。それから、ちゃんと仕事しろよ、大佐。」
そういい残して、エドワードは去っていった。二人に見せた微笑は、今まで見せたことのないような晴れやかな、そして決して軽くない笑みだった。
「あの子、大人になりましたね。」
「ああ、分かっていたことだがな。」
「はい、そうでしたね。」
二人の会話は、それ以上続くことはなかった。ただ、この場を出て行った錬金術師の軌跡を目で追うばかりだった。
おわり
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