大人たちの憂鬱 1 〜ロイ・マスタング大佐の場合〜

八月十三日 午後十時三十分

 

私の名はロイ・マスタング。地位は大佐だ。そして焔の錬金術師でもあり、東方司令部では自分で言うのもなんだが、かなり重要な人物である。このたび優秀な部下と共に中央への移動が決定した。夢、と言うには具体的過ぎ、かつ生々しい望みは、大総統となり軍部の全権を握ることだ。顔、は悪くない。巷の女性たちをそれなりにキャーキャー言わせていることも知っている。もちろんその声を無視できるはずもなく、今週末もとある美しい女性とデートの約束が入っている・・・とまあ、私のことはこれくらいにしておこう。

 

 さて、今日はそんな私が唯一頭の痛い思いをしていることについて書き記そうと思う。一般の方からすると、とんでもなさが度を過ぎて私の頭こそおかしくなってしまったのではないかと疑われる可能性が高いので、まだ誰にも話してはいない。では本題に入ろう。

 

 きっかけは、私が珍しくどうしても鋼のの助けを必要とする場面からであった。今日の夕刻過ぎに、私の最も信頼できかつ優秀な部下であるホークアイ中尉が、大量の書類の束を持って私のデスクにやってきた。明日の朝までに提出しなければならない書類らしい。それは彼女のせいなどではなく、軍部の上から下まで嫌がられるようなめんどうな書類が、最後にこの私に頼らざるを得なくなり、仕方なくここに回ってきたというわけだ。優秀であることは時には辛い自体を招くものだ。それはさておき、こんな私でも、この書類はちょっとやっかいな問題を含んでいた。今の私の仕事は主に司令部内で行われているが、この書類には現地調査の必要性があるとのことだった。もちろんそんなものをしている時間はない。それゆえ、地方をあちこち回っているエルリック兄弟に、何らかの情報をもらい、それで片付けようとしたのである。

 

というわけで私は、夜も遅い時間にエルリック兄弟の泊まっている宿へと赴いた。私がわざわざ行く必要性はなかったとも思うのだが、あいにく司令部には今残っている部下が少ない。残っている直属の部下であるホークアイ中尉も、ハボック少尉も書類の山に埋もれている。私の仕事は彼らより今日は少ない。あとこの書類を片付ければおしまいだ。それゆえ彼らにわざわざあの兄弟のところへ行ってもらうのは気が引けた。こんなところにも慕われる上司の資質が伺えると思う。

 

 エルリック兄弟は、いつも軍部の施設には寝泊りしない。弟のアルフォンスはそれほどこだわっていないようなのだが、いかんせん鋼のが頑固なのである。誰が軍の世話になるかよ、などと言いながら、いつも結局ある安宿に泊まる。そこはよく兄弟が利用している宿であるので、きっと今日もそこだろう。そう思い、私は書類を持って出掛けた。

 

 宿に着くと、そこには顔なじみの男がいた。宿の亭主である。
「マスタング大佐だ。エルリック兄弟はいつもの部屋か?」
あの兄弟は、いつも決まった部屋を取って休んでいる。それくらいの情報はいとも簡単に私の手元に入ってくるので、今日も私は男にそう尋ねた。
「いや、そうですが・・・」
「そうか、では失礼する。」
歯切れの悪い答えを聞き終わる前に、私はさっさと用件を済ませて帰ろうと、エルリック兄弟がいる部屋に向かおうとした。しかしそこで男に腕をつかまれて止められた。
「すみませんが大佐、今はやめておいた方がいいかと・・・」
「何故だ。私は鋼のに情報をもらいに来ただけだ。それとも軍の紹介状がないとこの宿は入れないというのかね。」
「いや、そうじゃなくてですね、」
「ではいいだろう。」
まだ何か言いたそうな男を振り切って、私は兄弟がいると思われる宿の二階へとあがっていった。

 

 きしむ階段を登りきると、そこにはいくつかの部屋があった。どの部屋も鍵はなく、多少立て付けの悪いドアが開き気味になっている。その中の、エルリック兄弟がいるのは一番奥の部屋だ。多少夜も遅いので、私は彼らが既に休んでいる可能性を考えてドアの前で立ち止まった。彼らに頼みごとをするのはこちらである。あくまでも彼らは子供であり、叩き起こして私の書類の手伝いをさせようとまでは思わない。鎧の弟の方は眠らないとはいえ、彼は軍人ではない。一般人なのだ。だから部屋が静かで既に休んでいるのであれば、そのまま引き返してもいいかと仏心を出したのだ。しかしそんな私の気遣いは、どうやら無用のものだったようだ。部屋からは明かりが漏れ、小さくだが話し声も聞こえる。内心無駄足を踏まずにすんだとほっとした私は、ドアノブに手をかけようとして一瞬躊躇した。なぜならば、彼らの会話がこの耳に飛び込んできたからだ。

 

「ほら、アル!こっち来い。」
「えー、いいよ兄さん、ボク自分でできるってば。」
「お前の手が届かない所をやってやるって言ってんだよ。」
「でもー、パーツ外せば全部できるよ。」
「オレはそんなこと言ってんじゃないんだよ、アル。」
「じゃあ何なの兄さん。」
「今は鎧でも、それはお前のいれものだ。オレにとっては大事なお前の一部なんだよ。なのにお前はほっておくとパーツばらばらにして磨くつもりなんだろ。オレはそんなこと許さないぞ。お前は人間なんだよ。ちゃんとオレがいるんだから、たまには甘えろよな。」
「でも・・・甘えるって言っても、兄さんボクに何もやらせてくれないじゃない。」
「そんなことないだろ。」
「あるってば。何でも兄さんは自分でやっちゃう。」
「じゃあ、これでどうだ。オレがお前の鎧を磨く。お前がオレの機械鎧を整備する。」
「えー」
「何だ!なんか文句あるか?」
「別に文句って訳じゃないけど・・・」
「じゃあいいだろ。よし、決定。等価交換、だろ?ほら、こっち来い。」
「ふー、しょうがないなぁ。分かったよ兄さん。」
「しょうがないとは何だアル、兄貴に向かってー!」
「はいはい。」
ここまでは普通だった。まぁ、鋼のがいつもの調子で弟を巻き込み、弟がそれを仕方ないなといった風情で受け流している、大体いつもの雰囲気だった。それは傍から見ても、ほほえましい光景の部類に入るのだろう。ホークアイ中尉だったらそっとドアを閉めてやっているところだ。この兄弟の会話に仕事の話を持ち出すのは無粋かとも思いもうしばらくこのままにしていようと思った。しかし私には仕事がある。単に部屋に入るタイミングを計っているだけなのだ、そう自分に言い聞かせて。しかしこの数分後には、立ち聞きなんかするんじゃなかったと、私にしては珍しく激しく後悔するはめになるのだった。

 

 がしょがしょと、鎧の動く音がして、弟が兄のそばにいく気配が感じられた。
「よし。」
満足げな鋼のの声もした。おおかたベッドにでも腰掛けてあの鎧を拭いてやっているんだろう。そう思った私の予想は、悲しいことにみごとに裏切られた。
「ちょっと、兄さん!どこ入ってるの!」
「ん?どこってお前の中に決まってんだろ。」
おい、ちょっと待て鋼の。入ってるのか?あの鎧の中に!
「そういうことじゃなくてー。わざわざ中までやらなくてもいいってば。」
まったくだ。
「何言ってんだよ。せっかくやるなら隅々までやってやるよ。いつも中なんて掃除しないだろ。あ、またネコ飼ってるとか言うんじゃないだろうな。」
「飼ってないよー。でも中に兄さんがいると何か・・・何か変な感じだよ。感覚はないけど。」
「なんだよ、気持ち悪いのか?オレが中にいるのがイヤなのか?」
「そういうんじゃないよ兄さん。別に兄さんが入ってるのが嫌なんじゃなくて、中に入らなくても掃除はできるでしょ?」
「いいの。オレがやりたいんだから文句言うな。お前だってぴかぴかの方が気持ちいいだろ。」
「でも・・・」
「まだなんかあるのかよ。」
「でもね、このオイルのにおい、兄さんの体にはあんまり良くないと思うんだ。」
「心配してくれてんのか?そんなことお前が考えることないんだぞ。オレはただ、したいようにしてるだけだから。」
「うん、分かったよ。でも、無理しないでよね?気持ち悪くなったりしたら、すぐに出てよ?」
「分かってるって。心配すんなよ。」

 

私はそこで少し考えこんでしまった。さらっと聞けばただの他愛のない会話にも聞こえる。しかしなんだかあやしい。そう思ってしまうのは私だけだろうか。兄の手放しで弟を可愛がる様子はちょっと尋常ではない気がする。一歳しか歳の離れていない弟を、兄はそこまでして守ったり可愛がったりするものなんだろうか。それに弟の甘ったるい声のトーンでの受け答えもたまらない、もとい、ちょっと引っかかる。普通弟は兄に対してあんな風に口をきくだろうか。彼らは事情が事情であるので多少大人ぶっているとは言え、世間で言えば反抗期の真っ最中である年齢、と言ってもいいのだろう。兄弟げんかも多分一生のうちで一番する時期だろう。それなのに私は彼らが言い争っているところを見たことも聞いたこともない。あまりに仲がよすぎて、どのように喧嘩などするのかが想像できないのだ。うーん、と考え込んでしまった私は、また部屋に入るきっかけをのがしたようだ。また鋼のの声がした。

 

「うーん、やっぱりアルの中は落ち着くなー。」
「何言ってるの兄さんってば。こんな中で落ち着かないでよね。ボクはなんだか落ち着かないっていうのに・・・っていうかハアハアしないでよ兄さん!変態くさいよ。」
「なにー!兄に向かって変態とは何だー!」
「だってしょうがないでしょ。事実なんだから、まったく。それにほら、兄さん。今度はボクの番だよ。」
「まだ。あとちょっと。」
「ダメ。ほら出て。これ以上は本気で体によくないよ。一回出て、きれいな空気を吸わなきゃ。」
「・・・分かったよ。」

 

すこぶる妙な会話が途切れた。今だと思い、私はドアの向こうをちらっと見て、体の全ての力が抜けた気がした。さっきまでは、鋼のが、鎧の中に入って鎧の整備をしていた。そして今度は弟が、兄の機械鎧を整備してやる、ただそれだけのことと言えばいいのだが。やり方が悪い。悪いという言い方が適切かどうかはこの際置いておき、とにかく何かがおかしかった。鋼のは、ベッドに腰掛けた弟の膝の上に乗り、背を鎧にもたれかけさせて軽く目を閉じていた。その顔は、私なんかには見せたこともないような幸福そうな表情であった。そして少し首を傾けて、ちょっと視線をあげれば弟と上と下で目が合うような位置にいた。その兄を弟は後ろから左腕を回してずり落ちないようにしていた。そして右手で兄の右の機械鎧をそっと持ち、兄の体に回している左手でそおっと整備をしているのだった。つまり早い話が、弟の膝の上に兄が乗り、それを抱きかかえるような姿勢で整備のし合っこをしていたのだ。

 

何をやっとるんだね君たちは!

 

その場でそう私が叫ばなかったのは我ながらすごい自制心だったと思う。そこで声を出してしまえばこちらの負けだと、心の中の何かが私にそう語りかけていた。そしてさっきまでああでもないこうでもないとしゃべっていた鋼のも、弟も口を閉ざし、静かな空気だけがその部屋を満たしていた。時折、
「これでいいの?」
と弟が聞き、
「ああ。」
とだけ兄が返事する。言ってしまえばたったそれだけのことなのだが、二人がそうふるまうことがあまりに自然で、かつ愛情に満ち溢れていて・・・と、何を書いているんだ私は。この光景を頭から振り払おうと、私は軽く首を振った。その時。少し強い風が窓から吹き込んできた。そして、キィとドアを鳴らして兄弟の目の前に、私の姿をさらしてくれた。

 

「あれ?大佐?」
はじめに気が付いたのは弟のアルフォンス・エルリックだった。その時彼の目に映った私は間抜けに見えていただろう。そして、私の名が出たとたんに今までの表情を崩して思いっきり嫌な顔をして、鋼のがキッと三白眼で私を睨んだ。
「・・・なんで大佐がこんな時間にここにいるんだよ。」
「用があった。」
とりあえずそれだけ答えた私は、自分の表情を取り繕おうと、無駄な努力をしてみて、それは見事に失敗した。
「どうしたんですか、大佐?何かお疲れのようにに見えますが。」
兄の腕を離した弟が、私にそう問いかけた。
「いや、なんでもない。」
私に言えたことはそれだけだった。
「で、用って何なんだよ。」
弟の膝から降りて、ドスドスと足音を響かせて私の方へ歩いてきた鋼のは、かなり憮然として開口一番そうのたまった。
「・・・・・・忘れた。」
「何ぃ!?そんなことがあってたまるかよ!せっかくアルがオレの機械鎧の整備をしてくれてたってのに邪魔しやがって!ったくヒマ人にもほどがあるぜ!」
「兄さん、言い過ぎだよ。ほら、大佐だって何か事情があるのかもしれないよ?」
「お前は黙ってろ!」
「兄さんったらもー!すみません、大佐。」
温和な弟もひっこめて、鋼のはかなりお怒りモードに入っている。怒る鋼のをからかうのはそれなりに楽しいが、今日は別だ。こっちの気力がもうない。大体整備のしあいっこをする兄弟がこの世にいるだろうか。いや、いるかもしれない。サルのノミ取りなどが良い例ではないか。いやいや、そういうことではないだろう。だがしかし、要点はそこではない。やり方に問題があるというのだ。あんな・・・あんなやり方で整備をし合うなんて、下手すると世間の恋人たちよりも仲睦まじい光景なのではないのか?いや、そう見えてしまう私が悪いのか?そうではないだろう、絶対。あれは誰がどう客観的に見てもイチャついているとしか思えないだろう。それとも今時の子供はみなあんなものなのか?

 

というか兄弟だろ!

 

まだ怒りながら私に立ち向かってくる鋼のを後にして(もちろん弟にがしっとつかまれていて暴れようにも私に手は出せないのだが)私はげっそりしながら宿の一階に戻ってきた。二階からは、鋼のの叫び声が聞こえてくる。「この無能!」だとか何とか。もうそれを咎める気力もなかった。私は決して純情な乙女などではないし、また世の中を知らない若造でもない。歳はそれほどいっていないが経験は豊富であり、またこういった愛情表現にかけては当方司令部一と自負しているくらいである。しかしそれにも関わらず疲れを覚えた私は何か間違っているだろうか。そんな、まだ現実に立ち直れていない私に、宿の男は言った。
「だから言ったでしょう、大佐。今日は二人がうちの前の店でオイルを買ってたんですよ。うちには鍵なんてありませんからね。こういう日は上に行かないことになってるんで。」
「・・・・・・」
毎回彼らのあんな行動に直面しているせいか、妙に達観している亭主が心底うらやましくなった。

 

 そうして私は一人で書類を片付けるハメになった。それもどうにか朝までには終わらせることは可能だろう。しかし私はそれだけのことで頭を悩ませているわけではない。肝心なことは、鎧と少年が、いや、兄弟が、何をどうどこで間違ったのか、あんなことをしていてよいのだろうか、ということだ。否、良いわけがないか。しかし私にどうこうできる問題でもない。記憶を辿れば、思い当たることがないわけではない。いや、むしろ情報としては十分すぎるのではないか?年子で二人きりの兄弟・幼い頃に親を亡くし、たった二人で乗り越えてきたこれまでの生活・人生を変える惨劇・命をかけて魂を定着したその想い・お互いを思いやる痛々しいまでの努力(この辺りからあやしくなってきたと思うのは私だけだろうか。)相手さえ幸せならば自分はどうなってもいいという自己犠牲精神・必死にお互いを呼び合う切ない響き・・・あぁ、どれを取っても表面は美しい兄弟愛に思えるかもしれない。しかし、行き過ぎている!そう、その表現がしっくりくる。行き過ぎた兄弟愛なのではないか?試しにあの兄弟を引き離してみようと思うほど私はヒマでもなければ冷たい男でもないが、このままにしておいていいのだろうか。いいのかもしれない。実害は何もないのだからな。しかし私はどうすればいいのだ。お互いに女性を紹介してやればいいというのか?それは飛躍しすぎだろう。彼らはまだ何と言っても十代の少年なのだから。それに弟は(妹であるという未確認情報もあるが)鎧の姿なのだから。これほどまでに私が悩まなければならないことはない気もする。もしかしたら私の勘違い、というか思い過ごしなのかもしれない。しかし考えれば考えるほど、なぜか憂鬱になってきた。

 

願わくは、この日記に書いた心配ごとが事実ではないよう・・・。

 

つづく