奇跡

 いつかの時代の、どこかの国に、救世主が生まれた日には、奇跡が起こると言われている。奇跡は鐘の音に乗り、どこまでも広がっていくと言う。これは、そんな日の兄弟のお話。

 エドワードとアルフォンスは、旅の途中である街に寄った。そこはとある救世主の生誕の地だと、他の旅人は二人に言った。そして、今日がその救世主の生まれた日だと。二人は、特にエドワードは宗教には興味はなかった。しかし、その街の人々は、この特別な日にこの街を訪れた二人を暖かく歓迎した。誰も彼も、子供と鎧の二人のことを奇異の目で見なかった。それは、この日だからなのだろうか。

夜になって、街は静かになった。それは厳かな静けさだった。部屋の中にいた二人だが、綺麗だから教会にでも行ってらっしゃいという宿の主人の言葉で、外に出ることにした。エドワードは白い息を吐いて、誰もいない交差点にアルフォンスと二人で立っていた。他に出歩く人はいない。みな、家の中で祈りを捧げているのだろうか。二人には、名前も知らぬ救世主に。街は、その生を喜ぶように、美しく着飾られていた。それが、妙に切なかった。

エドワードとアルフォンスの間に、粉雪が舞う。空を見上げたエドワードの頬にも、真っ白な雪が降りかかる。アルフォンスの鎧の上にも、天は同じように雪を降りかける。
「雪だな。」
「うん、綺麗だね。」
「・・・そうか?オレには、塵のようにしか見えないけどな。空から降る、白い塵に。真っ暗な空と、輝く星を隠してる。」
「そんなことない!」
アルフォンスが、少し声を大きくして言った。
「違うよ、兄さん。もし雪が、星を隠してるんだとしたら、兄さんがそれを悲しいと思うなら、雪は地上にもそれを分けてくれてるんだ。そして、降り終わった後は、天にも星を返してくれる。」
エドワードは少し目を見開いて、決して溶けることのないアルフォンスの上に積もった雪を振り払いながら少し微笑んだ。
「そうかもしれないな。アル、お前がそう言うなら。」
そして、アルフォンスの手を取り、歩き出した。
 

 エドワードとアルフォンスは、誰もいない街角を行く。教会まではあと少し。エドワードはアルフォンスの手を取り、何も言わない。アルフォンスも、何も言わなかった。アルフォンスは思った。

『もし、今日が特別な日ならば、すこしだけボクに夢を下さい。願い事はひとつだけ。ほんの小さな願いだけ。兄さんの、暖かさを感じさせて下さい。このつないだ手に、兄さんの体温を感じさせて下さい。他には何もいらない。兄さんがここにいるのだから。今日が特別な日ならば、きっと、奇跡は起こる。だって、歌にもあった。昔聞いた歌に。誰もがほんの少し誰かを思えば、奇跡の鐘が鳴るのだと。鐘が鳴り響く時、愛の灯火がともるのだと。だって、今日は特別な日。ボクの兄さんへの愛があふれそうな日。泣きたくなるくらい、切ない日。きっとボクに奇跡は起こる。』

美しく光がもれ出る教会にたどり着くと、中からは静かな音楽が聞こえてきた。聞いたことがないはずなのに、どこか懐かしいメロディが。雪は、その音を消すことはない。ただ、静かな時を二人に与えるだけだった。
「綺麗な音。それに綺麗な光。ねえ、兄さん。」
「ああ、そうだな。」
「ね、そうだ。中に入らない?もっと聞こえると思うよ。」
「いや、ここでいい。それよりアル、ちょっとしゃがめ。」
「え?」
「いいから。」
「う・・・うん。」
アルフォンスがしゃがむと、エドワードがそっとその肩を抱いた。
 

 エドワードとアルフォンスは、誰もいない教会のまえにいた。音楽だけが、やさしく響いてくる。エドワードは、アルフォンスを見つめたまま何も言わない。エドワードは思った。

『もし、今日が特別な日だと言うのなら、すこしだけオレにも夢がほしい。願い事は・・・。ほんの小さな願い。今日は特別な日なんだろ?奇跡も、信じてやろうじゃねえか。ほんの少しだけ。アルのやさしい言葉が聞けるのなら。オレたちの愛の絆が見えるのなら。今日が、特別な日だと言うのなら、奇跡くらい起こしてみせろよ。このオレに。頼むから。少しだけでいい。だって、今日は特別な日なんだろ?オレの、アルへの愛があふれそうな日。泣きたくなるくらい、悲しい日。きっとオレにも奇跡が起こる。』

 いつの間にか、教会からの歌は止んでいた。今は静けさだけが二人の周りに漂っていた。粉雪と共に。
「なあ、アル。・・・アルフォンス。」
「なあに、兄さん。」
「ん、なんでもない。」
「ふふ、変な兄さん。」
エドワードがそっと、アルフォンスの口もとに唇を寄せた。そっと目を閉じて。アルフォンスも、同じように。冷たい、はずだった。何も感じない、はずだった。でも、とても暖かかった。それはまるで本物のアルフォンスの唇のように。それはまるでエドワードの唇が触れているかのように。鐘が、教会から響いてきた。心の底から何かを洗い出すような鐘の音が、二人を包み込んだ。それが鳴り止むまで、二人はそうしていた。これは、奇跡なのだろうか。奇跡でもいい。夢でもいい。それがお互いの暖かさならば。

 鐘が鳴り止み、エドワードが唇をアルフォンスから離し、そっと目を開けた。そこには、やっぱり変わらぬ鎧姿があった。降りかかった雪は溶けることなく積もっている。
「アル、お前・・・」
「兄さん、さっき・・・」
「「え?」」
二人は同時にそう聞き、同時に驚いたように目を見開いた。
「なんでもない。」
「うん、ボクもなんでもない。」
「そうか。」
「うん。じゃ、帰ろっか。」
「ああ、そうしよう。」
そして二人は、また手を取り合って、誰もいない街を歩いて帰っていった。ほんの少しだけ、奇跡を信じて。
 

いつかの時代の、どこかの国に、救世主が生まれた日には、奇跡が起こると言われている。奇跡は鐘の音に乗り、どこまでも広がっていくと言う。これは、そんな日の特別な話。愛の鐘が鳴る日に起きた、たった二人の兄弟の小さなお話。

おわり