いつまでも

 

「兄さん、最近寝不足じゃない?」
ふと、アルフォンスがそんな事を言っていたのを、エドワードは眠る前に思い出した。

 

 リゼンブールからセントラルに戻ったエルリック兄弟は、軍の施設に寝泊りしていた。そして戻ってからというもの、エドワードは熟睡できなくなっていた。何があったというわけでもない。それなのに、毎朝起きると頭痛がするのだった。しっかり寝たはずなのに身体がだるいのだった。エドワードはアルフォンスに心配かけまいとして、毎日元気なふりを続けていた。しかし、それに気がつかないアルフォンスではない。兄が無理している事も、しっかり眠れていない事も分かっていた。だからさりげなく、こう切り出してみたのだった。何か、自分にもできる事はないかと。
「ねえ、兄さん。」
「んー、何だ?アル。」
さっと振り向いたエドワードの目の下に、アルフォンスはうっすらと隈が見えた気がした。
「えっと、その、」
「何だよ、どうしたんだ、アル?何かオレに言いたい事でもあるのか?悩み事でもあるのか?」
『これはこっちのセリフだってば…。』思わず鎧の頭を抱えたアルフォンスは、言いにくそうに続けた。
「あのさ、兄さん、最近寝不足じゃない?」
アルフォンスは、一瞬エドワードがはっとして動きを止めた気がしたが、その数瞬後にはいつもの不遜な態度のエドワードに戻っていた。
「んな訳ねーだろ、アル。オレはいつだって元気だし、ちゃんと寝てるじゃないか。それに最近仕事もねーし、もうそろそろ次の旅にでも出ようって思ってんだ。あのクソ大佐の側にこれ以上いたら、こっちまで嫌味ったらしくなっちまうぜ。」
「ハア、そんな事ばっかり言って…。」
ちょっと溜め息をついて、アルフォンスは続けた。
「それならいいんだ。でも、兄さん、最近疲れてるみたいだ。」
「そんなことないって言ってるだろ?」
アルフォンスの鎧の目を覗き込みながら、エドワードはそっと微笑んで優しく言った。それはどこか母親を思い出させるやわらかくて懐かしい微笑みだった。
「オレは大丈夫だよ、アル。だから、心配すんな。な?アル。」
「…う、うん。」
そんな目で言われたら、アルフォンスは頷くしかなかった。

 エドワードは、横でエドワードと同じように宿のベッドに横たわる鎧を見て、そっと目を閉じた。今は眠りも夢も欠落してしまったその弟の姿を、今日見る最後のものとして。そして、今夜はあの夢を見ませんようにと、小さく心の中で唱えてから。

 今回リゼンブールに寄ったのは、とある調査の帰り道だった。大佐に押し付けられた仕事が思ったより早く切り上げられたため、どうせならリゼンブールに寄ろうと、アルフォンスが言い張ったからだ。最初は文句を言っていたエドワードだったが、懐かしい故郷の空に空気、そして遺骨すらない母の墓に触れ、いつしか黙り込んでいた。リゼンブールからセントラルへの汽車の中で、エドワードは夢を見たのだった。そして、それ以来ずっと毎日、毎日同じ夢を見ていた・・・

 

 風が吹いていた。緑の丘を抜ける、やわらかい風が。エドワードは家へと続く小道に一人立っていた。幼いエドワードの視線の先には、母親の優しい微笑があった。そしてその隣には、自分のこの身よりも大切な、幼い弟がいた。
「ねえ、おかあさん。」
「なあに、アルフォンス。」
そう言って母親はにっこりと笑ってアルフォンスの髪を撫でた。少しだけくせのある前髪を、エドワードと同じ金色の髪を。急に、アルフォンスがくしゃっと顔をしかめた。
「おかあさん!」
そうして、アルフォンスは母親の胸に顔を埋めて泣き始めた。
「あらあら?どうしたの、アルフォンス。ねえ、どうしちゃったの?」
ただ、アルフォンスは首を振るだけだった。
「アルフォンス、何か言いたい事があるのね。いいのよ、お母さんに言ってちょうだい。誰にも言わないわ。ナイショにしててあげる。何がそんなに悲しかったのかしら。誰がそんなに涙を流させたのかしら。」
ふっと、アルフォンスが顔をあげた。そして母親の細い首にすがりついた。
「ねえ、おかあさん。」
「ん、なあに?」
「いつも、ぼくのそばにいてね。」
少しだけ、母親の目が悲しそうな色を帯びた。それでも、母親はそっとアルフォンスの頬に手をあてて、にっこりと微笑んだ。
「ええ、もちろんよ。誰がこんな可愛い子を残してどこかに行ったりするもんですか。」
「ほんとう?ほんとうだよね。ね、おかあさん!ずっと、ずっとだよ・・・」
「ええ、ずっとね。ずうっと、一緒。アルフォンス、それにエドワード、あなたも。」
そう言って母親の視線がこちらに向いた。優しくて、温かいその瞳が、エドワードを見た。そして、その光景がどんどん遠くなってゆく。母親も、アルフォンスも、家も、あの風も、何もかもが。
『かあさん・・・!』
エドワードはそう言おうとした。しかし口から言葉は出てこなかった。
『アル!』
そう叫ぼうとしても、何も言えなかった。足が動かなかった。たった一言だけ言えればよかった。ただ一言、いつまでもここにいて、と。ただ無邪気に、何も知らずにただ、そう言えばよかった。本当のさよならの意味を知らない、幼いあの頃に。

 

 

「兄さん!兄さん!」
はっと、エドワードが夢から覚めた。そこには鎧姿のアルが上から覗き込んでいた。鎧の手を、エドワードの頬にあてて。それはちょうど、母親があの頃のアルフォンスにしていたように。それは人の体温を感じさせない、無機質な冷たさだったが、それでもエドワードは、ほっとして息を吐いた。
「・・・アル・・・?」
「ああ、よかった。」
表情もない鎧のはずなのに、エドワードには心底ほっとした顔のアルフォンスがそこにいるように見えた。
「もう、大丈夫だ、アル。」
「兄さん・・・」
アルフォンスの腕を借りて、エドワードはベッドの上に起き上がり、生身の手で顔の汗を拭った。ガシャンと音を立てて、アルフォンスがエドワードの隣に座った。
「すっごく、うなされてたんだ。大丈夫?って声かけても、全然起きないし、ボクどうしたらいいか分かんなかった。それに、兄さん言ってたんだ。『かあさん』って・・・。また、夢に見てるの?母さんを練成した、あの日の事を?」
「いいや、違うよ、アル。」
そっと、かぶりを振ってエドワードはうつむいた。
「じゃあ、何?話して。誰にも言ったりしないよ。話せば、楽になるかもしれないし。」
ふっと、エドワードは笑ってアルフォンスを見つめた。
「はは、まるでお前が母さんみたいだ。」
「え?」
「いや、なんでもない。」
そう言って、エドワードは話し始めた。深夜の静かな部屋に、低めのエドワードの声だけが小さく響いていた。

「夢には、母さんがいたよ。それにお前もだ、アル。あれは、オレにとって一番幸せな風景だった。それなのに、オレは足がすくんでそこに辿り着けないんだ。お前が、泣いてるんだ。いつまでもそばにいてって、母さんを困らせてるんだ。まるで、一人っきりになるのが怖いみたいに。でも、本当は一番オレが懼れていたんだ。いつか一人になる時を、心のどこかでずっとずっと恐れていたんだ。それは今も、昔も、ずっと。あんな小さい頃からずっとさ。あの頃は知らなかったさ。そのつたない予感が当たるかどうかなんて。それでも、悲しい事に、それは間違っちゃいなかったんだ。それなのに、オレは・・・お前を泣き止ませてやる事も、お前の側に行く事もできなかった。何も、できなかったんだ・・・」
「そんなことない!」
急に、アルフォンスの高い声が響いた。
「そんな事ないさ。いつだって、兄さんは側にいたよ。兄さんがいるから、ボクはもう悲しくないんだよ?そんな風にしてる兄さんを見る方が、ずっとずっと辛いよ。」
「でも!オレはなくす悲しみを、お前にはもう感じさせたくないんだ!」
「うん、分かってる。分かってるよ、兄さん。だから、ゆっくり寝なよ。ボクが、ここにいるから。兄さん、ボクはどこへも行かないよ。兄さんと一緒にいる。」
「ああ、そうだよな。そうだったよな。アル。」
アルフォンスの鎧に寄りかかって、エドワードは目を閉じた。そして、だんだん小さくなる声は、深い眠りへとエドワードを誘っていった。
「オレらはまだ、どこかに帰れるのかな・・・」
「うん、大丈夫だよ、兄さん。おやすみ。」
 

もうそこには、悲しい夢は待っていなかった。ただ、幸せな風景の中に自分も入っていけるのを、エドワードは感じられたのだった。

おわり