赤襦袢・1

 

「鋼の、これをやろう。」
全てはその一言から始まった。
 

 ある日の昼下がりの出来事であった。その日、軍の書庫に用事があり、ついでに中尉に頼まれていた書類を届けにエドワードは大佐の部屋を訪れていた。大佐と顔を合わすのは癪に障るが、大好きな中尉と会えるなら、それぐらい我慢してやろうと、エドワードは息巻いて来たのだった。だが、そこにいたのは中尉ではなく、他の部下でもなく、大佐その人だけであった。
「んだよ、大佐しかいないのか。」
明らかに上司に向かって言う言葉ではない言葉を吐きながらエドワードがその部屋を立ち去ろうとした時、珍しくはないが、大佐の方からエドワードに声をかけた。
「鋼の、ちょっと待ちたまえ。」
一瞬、歩みを止めたエドワードは、ゆっくり数えてその数秒後、すこぶる嫌そうな顔で振り返った。
「何、なんか用でもあるわけ?」
「まあ、そう慌てるもんじゃない。たまにはゆっくり話をしてもいいだろう。」
「嫌だね。誰が野郎と一緒にいて楽しいんだよ。」
どこかで聞いたことのある台詞に少し苦笑をもらしながら、大佐が言葉を続けた。
「鋼の、君にも有益なことだと思うのだがね。」
そこまで言われてしまっては、引き下がるのも余計癪に障るとみて、エドワードは大佐のデスクの前にあるソファにどっかりと腰を下ろした。
「それで?何。」
エドワードの目は、明らかにめんどくさいと言っていた。大佐がこんなことを言い出すのは、大方次の仕事が決まった時か、そうでなければろくでもないことを考え付いた時しかないのだから。どちらにしろ、エドワードには迷惑な話だった。だが、大佐の次の言葉で少し考え直しても言いかと思ったエドワードだった。
「君の弟に、やりたい物があってね。」
弟のことになると、俄然食いつきの良くなるエドワードである。その辺りのことは大佐も重々承知で言っているのだ。
「何だよ、聞かせてもらおうじゃないか。」
 

エドワードは今、国家錬金術師としてまだ軍部に所属している。鋼の腕は元には戻っていないが、帰る家を持つようになっていた。軍属としての地位は、まだ宙ぶらりんな少佐相当。つまり、旅をしていた頃となんら変わっていない。変わった事と言えば、弟が生身の人間になったということだ。そう、今エドワードは、弟のアルフォンスと一緒に中央に住んでいるのだった。そんなこんなで、毎日エドワードは幸せな生活を送っている・・・ように傍目からは見える。それは軍部から家へと帰っていく姿からも容易に想像できる。今日はアルが何を作ってくれてんのかなー、などと、大佐の部下達に夕方頃漏らして帰るのだ。アルフォンスはどうやらおとなしく家にいて家事などをしつつ、エドワードが仕事であちこちの地方に出かけるのについていったりしている。まるで24時間体制の家政婦か、はたまた夫婦かのような暮らしぶりである。それにアルフォンスが不満を持っているかと言えばそうでもないらしく、弟は弟で兄との生活を楽しんでいるようである。それは、市場や店に、夕食の買い物をしに来るアルフォンスの言動からも計り知れる。今日は兄さんの好物のシチューにしようと思うんだーなどと、八百屋のおじさんやら近所のおばさんたちと楽しくしゃべりながら毎日来ているらしい。

 さて、そんなエルリック兄弟の日常は分かっていただけたと思うので、話を今に戻そう。弟と出たとたんに向き直ったエドワードに、してやったりという思惑など微塵も感じさせず、いつもの涼しい顔で大佐が言った。
「実は、この前中尉にとある服を買ってやったのだが、それがお気に召さなかったらしいのだよ。」
「何だよ、そりゃ。惚気か。それがアルと何の関係があるんだよ。」
「まあ、待ちたまえ鋼の。話はここからだ。」
「しょうがないな。手早く頼むよ。」
相変わらずの口調に、多少ピキっときた大佐だったが、ここは大人として我慢してみせた。
「それでだ、その服は東方から取り寄せたもので、かなり良い品なのだよ。で、中尉はそれを身に着けるのは嫌だと言う。だから、君の弟にどうかと思うのだが。」
大人の女性に嫌がられたものを、少年の弟に差し出すというのはいかがなものかと思うのだが、そこはそれ、大佐の目には中尉とアルフォンスは同様の位置にあるということになっているらしい。そしてエドワードもそれを否定はしない。つまり早い話がこの兄弟がらぶらぶであることなど、周知の事実なのである。そうしておもむろにデスクの下から大きな箱を取り出して、大佐はエドワードの目の前でそれを広げた。
「すごい・・・」
それは、思わずエドワードも感嘆の声を漏らしてしまうほどの逸品であった。それは真紅の絹で織り上げられた襦袢であった。東洋のものであるにふさわしく、この国にはない流れるような線を持つ、美しい裁断のなされたものであった。緩やかな襟は真紅に映える純白の縁取りがなされ、その襟と同じ幅、同じ仕立ての帯もついていた。そして着物も帯も、同じ細かい模様が編みこまれていた。神秘的な造形と幾何学模様、それから何かの象徴であるのか美しい鳥、それらが隅々までおしげもなく散らされている。
「触ってみたまえ。」
そうして大佐がそれをエドワードの手に渡す。
「・・・・・・」
そのさわり心地も、まさに極上の品と言って良かった。いつも身につけるような布とは全く違う。肌を掠めるその感触は、春風が産毛をなでているようだった。
「すごい、すごいぜ大佐!」
純粋に、エドワードはそれを喜んでいた。大佐が横で、これで手元からこれがなくなると思ってほっとしているのも知らず。
「本当にこれ、オレにくれるのか?」
「ああ、もちろんだとも。」
「すげーな、これ。アルも絶対気に入るぜ。」
そう言いながら、エドワードはまだ絹を心地よさそうにさわっていた。
「でもさ、」
ふと、エドワードが心配そうに、そしてちょっと疑い深そうに大佐に向き直った。
「こんな高そうなもの、オレにくれちゃって良かったわけ?何か企んでる?」
さすがに鋭い。しかしそれごときで手を引く大佐ではなかった。
「何も企むはずがなかろう、鋼の。はじめに言ったとおりだ。中尉へのプレゼントには喜んでもらえなかった。捨てるには惜しい。だが、誰か見知らぬ軍の連中にやるのも悔しい。部下達にやったら中尉の耳に入ってしまうだろう。君しかこれをやる適任者がいないというわけだ。」
「ふーん、そっか。」
納得したのかしていないのか、エドワードはとりあえず頷いてみた。引き換えに何とかという交換条件も今回はついていないようだし、この素晴らしさだ。きっとアルフォンスが喜んでくれるに違いないと、エドワードの判断力は少しだけ鈍っていた。
「でもそれをアルに着せてどうしろってんだよ。」
「いや、着せればきっと君にもわたしの気持ちが分かると思うのだがね。」
「?」
怪訝な顔をしているエドワードに無理やり箱を持たせ、大佐はぐいぐいとエドワードを部屋から追い出した。
「じゃ、遠慮なくもらっとくぜ。」
「ああ、ではな。弟くんによろしく。」
「ああ。じゃあな。」
というわけで、エドワードは大きな箱を抱えて家路についたのだった。
 

 その出来事から約半日前・・・
「何を考えてるんですか、あなたは!!!」
中尉の鋭い声が、大佐の耳に痛いほど突き刺さった。
「いや、君に似合うと思ってだな。」
「似合うですって!大佐!あなたの考えることなどお見通しです。こんなものを私に着せて何をする気だったのですか!」
「いや、だからこれと言ってやましい心があったわけではなく・・・」
「無ければこんなものを取り寄せるはずないでしょう!今度このようなものを私に着せて変態まがいのことをしようとするなら、少しその頭をすっきりさせて差し上げます!」
「わわわ、分かった!分かったから銃をしまいたまえ中尉!」
そこには片手に先ほどの赤襦袢、そしてもう片手に銃を構えて大佐に狙いをつけた、怒りと恥ずかしさに頬を染めたホークアイ中尉の姿があった。
「これを二度と私の前に持ってこないで下さい。」
「・・・変態とは、言われてしまったな。」
「分かったのですか!?分からなかったのですか!返事は!?」
「分かった。二度と持ってこないと誓おう。」
「そうですか、では許して差し上げます。」
ようやく銃をおろされ、命の危機から脱した大佐であった。そしてその顔にはすこぶる残念そうな表情が漂っていた。
 

 というわけで、そんな大人の事情など何一つ知らないエドワードは、どこか釈然としないものを感じつつだが、上機嫌に家に帰っていった。
「ただいまー。」
今日も、とけきったようなだらしのない、もとい優しいエドワードの声が家に響いた。定時のお帰りだった。
「おかえり、兄さん。」
こちらも、相変わらず甘い声で、一日働いた兄を迎えた。正真正銘エドワードの弟、アルフォンス・エルリックだった。エドワードは、その声を聞くだけで疲れなんてどこかに吹っ飛ぶような気がした。
「今日はね、兄さんの好きなシチューだよ。おいしい牛乳をたくさんもらったからね。」
「ん、そうか。アルの料理は何でもうまいよな。あー、楽しみだ。」
「えへへ、そう?母さんの味に近づいてるかな。」
「ああ、もちろんだ。母さんの味じゃなくてもアル、お前の料理は最高だけどな!」
「そんなこと言ってー。何も出ないよ。」
等々。もしもここに第三者がいたとしたら、余りの甘すぎる会話に砂を吐いて倒れてしまうのではないかと危惧されるような言葉を、この兄弟は素で羅列しているのだった。そんな言葉のやりとりもひと段落し、アルフォンスがエドワードの腕に抱えられている箱を見た。
「あれ、兄さんそれ何?」
「ああ、これか。」
今までアルフォンスの笑顔と声、それにシチューのにおいに五感全てを集中させていたエドワードがやっと気が付いたかのように手元の箱を見た。
「お前にプレゼントだ。」
「えー!ホント?何のお祝いでもないのに。」
「いや、本当のとこ言うとな、大佐にもらったんだ。お前にって。」
「なーんだ。そうだよね。兄さんが下心無しにボクにプレゼントしてくれるはずもないしねー。」
さりげなく酷いことを言いつつ、アルフォンスが言葉を続ける。
「でもどうして大佐から?」
「まあ話せば長くなるし、腹も減った。とりあえず飯食い終わってからでいいか?」
「あー、そうだった。ごめんごめん。お腹すいてるよね。すぐ用意するから。」
というわけで、ひとまず箱はリビングに置かれ、エルリック兄弟はいつもどおりの夕食をはじめたのだった。
 

 さて、夕食もすんで、洗い物も仲良く二人で済ませてようやく夜のゆるやかなひと時が訪れた。先ほどからリビングで、エルリック兄弟はこれをどうしたら良いものかと、二人して真面目に思案していた。箱を空け、アルフォンスにその襦袢を見せると、やはり弟も兄と同じように、しばらくそれに見とれているようだった。
「わー、すごいや兄さん!なんかすっごく綺麗・・・」
「だろ?大佐にしちゃ、なかなか気の利いた贈りもんだろ。」
「そんなこと言っちゃ、せっかくくれたのに悪いよー。いくら中尉がいらないって言ったからって。」
「いいんだよ。それよりも、これをどうやって着るかが問題だな。」
「うーん、そうだねぇ。」
はっきり言ってしまえば、二人はこの着物の着方が分からなかった。どう見てもこの国にあるような服のスタイルではない。これを昼間に着るのは間違いだろう。あーでもないこーでもないと議論を重ねた上、二人の結論は、とりあえずバスローブのように使うのではないかというところに落ち着いたのだった。
「ああ、そうだな。きっとそうに違いない!」
「なんか自信たっぷりだけど、本当にそうなのかなぁ。」
「そうに決まってるさ!オレを信じろよアル。前がこんなに空いてて、腰を縛る紐まで付いてるんだぜ?湯上りに羽織るものに違いない!」
「うーん、あながち間違ってるとは言いがたいけど・・・あー、でも、なんだかとっても気持ちよさそうだね。」
「そうだろ?よし、じゃ今日早速着てみるか?」
「うん!そうだね。そうさせてもらうよー。」
ということで、本日の風呂上りにアルフォンスがこの襦袢を使うことになった。

  「赤襦袢・2」に続く。