丑の日
ジーリジーリと地を焼くようなセミの声が響いていた。BL学園は夏休みに入ったが、まだ実家に帰っていない生徒が半数ほどいた。一部は部活動の大会の練習のため、一部は生徒会などの仕事を一気に片付けるため、そしてごく一部は啓太のように、まだみんなが学園にいるから・・・という理由ともつかぬ理由がそれぞれにあるのだった。
うだるような暑さの今日は、土用の丑の日。啓太は、それがいつ頃から始まったのかは知らなかったが、ウナギは大好きなので、丑の日にウナギを食べる習慣にはもろ手を挙げて賛成したい気分だった。啓太はそうでもないが、実家ではよく妹や母親が夏バテだと言って食欲をなくしていた。すると、父親が近所のウナギ屋に連れて行ってくれるのだった。甘辛いタレで濃い味付けのウナギは、確かにバテていても美味しく感じられるのだと言っていた。啓太は小さい頃、あの不思議な食感のするウナギを食べられなかった。でもあの甘いタレは大好きで、どちらかと言うとタレのかかったご飯ばかりを食べていたような気もする。
そんな事を、仕事の合間にカレンダーに踊る「土用の丑」という字を見ながら啓太はぼんやり思っていた。
「啓太、終わったのか?」
「は・・・いいえ、まだです西園寺さん!」
突然飛んできた鋭い声に、思わず反射的に答えた啓太がいるここは、BL学園の会計室だった。
今日の啓太は最高気温35度という猛暑であるにも関わらず、大忙しであった。午前中に生徒会で王様を捕まえる手伝いをした後、中嶋に脅され丹羽に泣きつかれて仕事を手伝い、やっと終わったと思ったら廊下で七条につかまり、ついでに生徒会から出てくるのを待ち構えていた和希も巻き込んで、結局午後からはずっと会計室で仕事を手伝っていた。せっかく仕事を抜け出して学園に戻ってきて、啓太を待ち伏せしていたのに、ほんの一瞬声をかけるタイミングを逃したせいで七条に先を越され、会計室に用事があるからと、和希はデートを断られて年甲斐もなくぶーたれていたのだった。
「もういいかげん、機嫌直せよな、和希。」
「だってさ、そんな事言ったって、啓太。俺、せっかく休み作ったのにさー。」
そうぼやきながらも、手元の書類を次々と片付けていく和希は、口調と仕事の速さの推定年齢が、全く噛み合っていなかった。
「だから、和希がちゃんと連休がもらえるまで、俺も学園にいるから。いつでも会えるだろ?」
「あぁ・・・そうだな・・・俺は幸せ者だよ、啓太・・・」
「・・・和希。目が全然幸せそうじゃないよ。」
「そうか?俺は啓太と居られれば、たとえ会計室でこき使われたとしても幸せだと本気で思ってるんだぞ?」
和希が胸を張ってそんな強がりを言えたのもそこまでだった。
「おやおや、そうですか。そんなにお仕事がお好きとは。ではこちらもやって頂きましょうか。ね、遠藤君?」
「ぐ・・・」
静かに、それでもどことなく粘着質な言葉に絡み取られ、和希も啓太もぐうの音も出なくなりかけていた。そんな二人プラス会計室の鬼を横目に、西園寺はふうとため息をついて自分の仕事に向き直った。
だがそこはさすがに有能な和希と手伝いに随分慣れてきた啓太の事。夜までかかるかと思われた大量の書類も、5時を20分ほど回った時点で全て片付いていた。
「はー!やっと終わったー!」
思わず西園寺がいることも忘れて大きく伸びをした啓太に、和希がじゃあ二人きりで夕飯でも食べに行こうと言おうとした瞬間、西園寺の声が響いた。
「よくやってくれた、啓太。お礼に今日は私が鰻をご馳走しよう。」
「本当ですか!?ヤッター!」
心底嬉しそうな声をあげて西園寺の方を振り向いた啓太の目はキラキラしていて、和希はそれ以上強く出ることができなくなってしまっていた。
「残念だったな、遠藤。」
会計室にいるのにあえて生徒の方の名前で呼ぶ西園寺の言葉には、確かに勝ち誇った、だが楽しそうな響きが篭っていた。さらにその後ろから七条に
「遠藤君も、是非一緒にどうぞ。」
と、まるで背後から悪魔の尻尾でも見えそうな微笑で言われてしまったからにはもうどうしようもなかった。和希はふうっと肩をすくめて、
「じゃあご馳走になろうか、啓太。」
そう言った瞬間だった。
会計室のドアがバーン!と音を立てて開いた。
「なんやてー!オゴリてマジ!?」
俊介が顔を出した。さらにその後ろにはまだ練習着のままの成瀬。そして何事かと首を覗かせた篠宮に、岩井。さらには騒ぎを聞きつけた生徒会の丹羽と中嶋までいた。
「お前たちには言っていない。仕事の報酬として啓太と遠藤にだな・・・」
という、まっとうな西園寺の抗議は
「何、郁ちゃんとウナギ!俺も行くぜー!行くだろ?な、ヒデ!」
「スタミナをつけるにはちょうどいいな。」
「ハニーが行くなら僕も行かなくちゃね!ハニー待っててー!すぐに着替えてくるからねー!」
という三者三様の声にかき消された。
「は・・・はぁ・・・」
あまりの乱入者の多さに、啓太が目を白黒させていると、和希がはっと我に返って歩き出そうとした。
「成瀬さんが着替えてるうちに出発してしまいましょう!」
だがそこにはまだ難関たちが立ちふさがっていた。
「ウナギー!ウナギー!肝吸も忘れたらあかんでー!」
俊介はもうすでに臨戦態勢、すっかり私服に着替え終わって、大騒ぎをしている。さらには、げんなりした明らかに夏バテという顔をした岩井がいた。さすがの和希でも、そんなフラフラの状態の生徒は押しのけられない。その後ろには、真剣な顔の寮長までいる。この二人が揃うと、テンポの違いが大きすぎるのか何なのか、和希は強く出ることができなくなるようであった。
「俺は・・・肝吸はちょっと・・・」
「何を言っている。ちょうどいい機会だ卓人。栄養をつけなければ。また夏バテの上に熱中症で倒れるぞ?」
「え!?岩井さん、いつ倒れたんですか!?大丈夫なんですか!?」
「・・・ああ・・・ちょっと外でスケッチをしていたら・・・」
「まったく、しょうがないやつだ。せめて麦藁帽子を持たせれば良かった。だからあれほど水分はきちんと取るようにと言っておいたのに・・・」
「すまない、篠宮・・・」
和希の声も西園寺の叫びも、いつの間にか怒涛のように繰り広げられる喧騒にかき消されていた。そしてはっと気がつけば、実家に帰っている海野先生以外の、いつものメンバーが総集合しているのだった。
もうこうなっては収集がつかなかった。さすがにこれ全員分を西園寺に奢らせるのは苦しいだろうと、七条がすすっと音もなく和希の背後に忍び寄った。
「影のスポンサーになっていただけますか、遠藤君?」
ニッコリ笑ったその目許は決して冗談ではないという色をしており、ふうーと軽いため息をついて和希が小声で答えた。
「分かってますよ、七条さん。これで。」
「ありがとうございます。」
そう言って和希が差し出したカードは、庶民が日ごろめったに、というよりほぼ見る事のない色――黒一色のカード――であった。
「やれやれ。学生服の内ポケットからこんなものが出てくるとはな。」
ぱしっとそれを受け取って、ひらりと裏返し、ふうとため息をつくと、西園寺が和希を見やって呟いた。
「参りましたよ、西園寺さん。コレの存在はなかった事にして、西園寺さんの奢りってことでお願いしますよ。特に啓太にはナイショでお願いします。」
「全額か。私の行く店はそれなりのものを出すからな。今回は貸し借りなしにしておいてやる。」
「アハハ・・・啓太への口止め料が一番高いかなぁ・・・」
「え?オレが何だって?」
すっかり篠宮による熱中症対策の話に夢中になっていた啓太が、やっと和希の声が聞こえたように振り返った。その顔を見て、和希は極上の笑顔を浮かべて見せた。見ているだけで安心するような、それでいて長く見ていると胸が苦しくなるような。一瞬啓太の周りの音が消え、二人の間にはどこか得も知れぬ甘い空気が流れ、啓太は微かに頬を染めた。だが、和希の明るい声に喧騒が再び取り戻されていった。
「なんでもないよ、啓太。さあ、みんなで食べに行こう?何しろ西園寺さんのオゴリだからな!食べなきゃ損だぞ?」
「うん!」
片目を瞑ってニッと笑った和希につられ、啓太も顔が綻んできた。そうして本当に嬉しそうにする啓太に、その笑顔を独り占めしたかったと幼い独占欲をかきたてられつつも、和希は跳ねるように先頭を歩く俊介とその他大勢の後を追い、校外へのバスのりばへと向かったのであった。
かくして、表は西園寺の奢りという名目で、総勢十人はたらふく鰻を食べて帰っていった。ここからまた今年も、BL学園の暑い夏休みが始まろうとしていた。
おわり |