スーツと制服
今日の仕事はなかなかにデリケートでやっかいな問題を含んでいた。どうにかそれも片付けて、やっと帰れると思って腕時計を見てみると、とっくの昔にベルリバティーの寮門限を過ぎていた。
「・・・はぁ」
とりあえず帰りの車の中でため息をつくと、石塚が運転席からクスリとほんの小さな聞き取れないくらいの笑いを漏らした。珍しい。最近は部下にまで俺の頭の中は知られているらしい。結局俺の脳内には啓太の事しかないんだと言う事が。それも分かってはいるけれど、めったに石塚は俺の私生活には感情の色を示さない。やはりこの前の修学旅行で土産なんか買ってきてやってしまったのがいけなかったんだろうか。しかし役に立つ男だ。このくらいの事で手放す訳にはいかない。俺はコホンと咳払いをして口を開いた。
「学園寮の前で降ろしてくれ。なるべく誰にも気づかれないように。」
「はい。」
素直にそう答えた石塚は、私道に入ると車のライトを消し、静かに学生寮から少し離れた道に横付けした。俺の帰るべき場所へ。啓太のいる、この場所へ。
「明日は夕刻より鈴菱本社にて例の報告会がございます。学園の放課後になりましたらいつもの場所にお迎えにあがります。では。」
簡潔に明日の仕事内容を俺に告げると、また音もなく車は去っていった。一瞬車を見送って、俺はスーツ姿のまま寮へ向かって歩き出した。
「さて、どうしようかな。」
今日はうっかりしていた。急な仕事だった為に学園の制服を用意してなかった。いや、仕事に行く時には着ていたのだが、車の中でスーツに着替え、そしてそのまま本社の俺の部屋に制服を忘れてきてしまったのだった。しかも紙袋にぽいと放り込んだだけの状態で。本社でベルリバティースクールの制服が万が一誰かに見つかったとしてもそれは別に大丈夫だろう。理事長たるものが自分の学園の制服を見本として持っていたとしても何かを勘ぐられる事などないだろう。まあ、もっとも俺の不在中に部屋に入れるような度胸と技術の持ち主がいたらお目にかかりたいものだが。それはさておき、めんどうなのはそちらではなかった。これからの事だ。制服がない。つまり今俺はこの場所にいるべき者としてふさわしくない格好だ。「一年生の遠藤和希」がどうしてスーツにロレックスなんかしていなくてはいけないんだろう。このままでは寮に入れない。制服を着てさえいれば、インターホンで篠宮さんに泣きついて施錠を解除してもらい、そしてこってり叱られて入る。もしくは寮の玄関のセキュリティーを一時解除してこっそり入ればいい。しかしこの格好では篠宮さんに叱られるどころか色々問い詰められるだろう。それに門限は過ぎているとは言えまだ日付が変わる前だ。セキュリティーを少しでも弄れば、学園のシステムに噛り付くようにしている七条さんや中嶋さんに余計な事を言われたり、からかわれたりするのは必至だ。そのどちらもがめんどくさくて、俺は結局最終手段に出た。ベランダからよじ登って、窓から入ってしまおうと言う魂胆だ。
作戦としては途中までは良かった。例え就寝点呼の時に返事がなかったと篠宮さんに叱られても、もう寝てましたと言えば済む事だ。自分の部屋にさえ入られればそれで良い。そう思っていたのに・・・自分の部屋の窓はきっちりと鍵がかかっていた。しかもカーテンすら閉めていると言う念の押しよう。くっそ、こんな時は几帳面な自分の性格を呪いたくなる。舌打ちしたくなるのを我慢して、ふとある事を思い出してベランダ続きの啓太の部屋の前に立ってみた。窓に手をかけてみる。カラリと音がして、窓はすんなりと開いた。鍵はかけられてなかった。しかもカーテンも開きっぱなし、電気もつけっぱなしだ。まったくもう。いつもこれだ。無防備にもほどがある。この学園のセキュリティーは万全とは言え、寮の構造を熟知しているここの学生なら、今の俺みたいになんとかしてどこかのべランダによじ登る事だって可能。いや、無理かな。かなり特殊な場所を通ってきたから。いや、でも万が一こんな方法が啓太を狙ってる学生にばれたらどうするんだっていうんだ。やらないとは言い切れないような心当たりのある人物を数え上げて、俺はぞっとした。俺以外の奴が啓太の部屋に勝手に入ったら、俺はあらゆる手段を使って再発防止策を講じるだろうな。でも、今のところここの場所は俺だけのために開かれてる。そう思うことにして、ふぅ、と肩をすくめて俺はそっと啓太の部屋に入った。
部屋の主を探すと、果たしてすぐに啓太は見つかった。いつもみたいにぎゅっと枕を抱えてよく寝てる。でも制服のままだ。かと言って本人の承諾なしに着替えさせるのも怒られそうだし、気持ちよく寝てるのに起こすのも忍びない。だから俺はしばらくその安らかな寝顔を見つめ、ほんの一瞬だけ指先で啓太の唇に触れてから立ち上がった。部屋に帰るために。寮内の鍵なら持ってる。自分の部屋のも、啓太のも。だから啓太の部屋を出て、廊下側から啓太の部屋に鍵をかけて、そして自分の部屋に戻ればいい。そう思ってそっとドアノブに手をかけた瞬間だった。
「・・・かず・・き?」
寝ぼけた啓太の声が後ろから柔らかく俺の耳に届いた。
あー、ダメだ。俺この声に弱いんだ。しかも一番に俺の名前を呼びかけるなんて、可愛いじゃないか。ま、他の人の名前だったらその人がどうなるか、ちょっと保障はできない。きっとあらゆる手を使って、時には権力を振りかざしてでもどうにかしてしまうに違いない。でも、啓太に罪はない。啓太が幸せならそれでいい。でも、相手にはそれなりの目にあってもらう。そんな事を平気でしてしまうのが、このベルリバティーを預かる鈴菱和希の本性だ。そんな恐ろしいような空想を拭き取るように、啓太が今度はむくっと起き上がって目をこすりながら、今度はちゃんと俺を見て呼びかけた。
「ん・・・あれ?和希?どうしてここに?」
「あ、アハハ、うん。ちょっと遅くなってね。」
啓太に向かって俺はいつもの遠藤和希に戻って笑いかけた。裏なんかないような、大人のような子供のような、心配性で手先が器用で啓太を大事にしているクラスメイトとして、そして啓太の恋人としての遠藤和希に。ここにいるのは冷徹なこの学園の理事長でも、鈴菱である程度の権力を持つ鈴菱和希でもない。どれも本当の俺だけど、啓太の前での俺が一番自然な姿なんだと、最近そう思うようになった。一番幸せな俺の姿。ふっとそんな事を思って、俺はできる限り穏やかな声で話を続けた。
「あいにく俺の部屋には鍵がかかっていたからな。」
「かぎ・・・?和希、部屋の鍵持ってないのか?あ、それとも落したとか。」
そんな発想をする啓太が可愛くて仕方ない。まだ寝ぼけているようだ。
「違うよ。窓から入ったんだ。まったく、お前は無用心だって、何度言ったら分かるんだ?それに制服のまま寝てたし。」
「それは、だって・・・」
一瞬、啓太はほけっとした顔をして、その数瞬後に耳まで真っ赤になった。ニっと笑って、俺は続けた。ちょっと低くて意地悪な、それでも特別に甘い声で。
「俺を、待っててくれたんだ?」
「な・・・!」
言いよどんでさらに首まで真っ赤にした啓太は、今度こそ目が覚めたようにはっとした。
「そんなことより和希!お前スーツのままじゃないか!しかも入ってきたって、お前どこから!」
「ああ、これね。ちょっとイロイロめんどくさかったから、よじ登ってきた。で、窓から入った。」
「和希!」
今度は啓太が怒り出した。怒った顔も、なんだか可愛い。それは決して俺の贔屓目じゃないと思う。少しだけ寝乱れたくせっ毛に、上気した頬、真っ直ぐな瞳。そのどれもが俺にとって魅力的なのは昔も今も変わらない。俺がまさかそんな事考えてるなんて思いもしないだろう啓太は、照れくさいのか本当に俺を心配してくれてるのか、そのどちらもなのか、ベッドから俺の方に身を乗り出して怒っている。
「なんでそんなことするんだよ!ちゃんと寮の入り口から入ってこいよ!」
すっかりクセになってしまった頬を掻きながら、俺は啓太に言い訳なんかしてみた。
「でも、制服仕事場に忘れてきたし、それにそうすると篠宮さんに叱られちゃうだろ?」
「そしたら俺も一緒に怒られてやるから!」
まったく、どうやって言い訳してくれるって言うんだろうな、コイツは。うっかり中嶋さんの誘導尋問に引っかかってしまうような正直な啓太の事だ。身構えもせずに篠宮さんの前に行ったら、それこそ理事長の存在を知ってる生徒がまた増えてしまうんだろうな。クスリと笑いながら啓太を見ていた俺は、今度の啓太の言動にビシっと理性のタガが外れる音を聞いた気がした。
「それに、こんなにスーツ汚れてる・・・高そうなのに。」
ぼそっとつぶやいた啓太は、そのままそっと俺のスーツの襟についた埃を払った。その表情が深くて綺麗で、俺は思わずその啓太の手をパシっとつかんだ。
「じゃ、こう言い替えればいいか?仕事帰りに、夜這いに来ました。」
「な・・・!!」
また何か怒りかけた啓太の唇をそのまま塞いで、俺はぎゅっと啓太を抱きしめた。怒ってる顔も可愛いけど、もういい加減イロイロ限界だし。
「んんっ!!」
ささやかな抵抗をする啓太の唇を塞いだままベッドに押し倒しながら、見慣れた制服の上着を脱がせ、そしてやっと俺は唇を啓太から離した。あー、スーツ着て制服脱がしてるこの姿ってちょっとなんて言うか、悪いコトしてる気分・・・。今を冷静に見ている自分に苦笑しつつも、そんな状況ですら俺を煽るのにしか役に立たなかった。
「っは!・・・和希!」
今度こそ、啓太は本気で怒ったように眉を上げて口を開いた。
「またそうやってごまかす!和希!」
でも、それは全部が否定の意味じゃない。それは俺も啓太も分かってる事。それに、そんな潤んだ目じゃ、逆効果だって。こんなに可愛い姿を見てしまったら、明日の朝まで離してやれそうにない。俺はそんな自分の脆い理性に苦笑しつつ、啓太の首筋に顔を埋めて囁いた。
「愛してるよ、啓太。」
おわり
|