金網越しの距離

 

今日の昼休み、いつものようにいきなり和希に電話がかかってきた。
「ごめん、ちょっと。」
そう言って、和希は俺から遠く離れて話し始めたから細かい表情は分からないけど、かすかに聞こえる厳しい口調から、どうしても避けられないことのようだった。和希がそんな風になるのは、仕事のことに決まってる。案の定、和希は俺のところへ戻ってくるなりまた謝った。
「ごめん・・・どうしても今日の午後、抜けなきゃいけなくなったんだ・・・」
「・・・うん。」
俺がそう答えた瞬間に、和希はまたごめんと言いながら席を立って走り出していた。抜ける、それは授業を、という事。もうそんなこと慣れっこになったはずだった。でも、和希は食べかけの食事すらその場に置いていかなきゃならないような仕事のようで、俺はなんだか胸が苦しくなった。俺のことなんか、そんなに気にしなくていいのに。そりゃ、和希と一緒にいたいよ。毎日ここの学生として一緒にいたい。一緒にご飯食べて、一緒に寮に帰って、一緒に勉強もしたい。(そりゃ、和希とは頭のレベルが違うから、クラスの違う授業だってあるけど)でも、和希は理事長なんだから。俺のことばかりに構ってられないって事だって分かってる。それを全部分かっても、俺は和希のこと好きなんだから、そんなに何度も謝られると、ちょっぴり悲しい。絶対に帰ってきてくれるんだから。帰ってきて、俺のところに来て、そしてただいまって言ってくれるんだから、俺はそれでいい。それでも、あんまり忙しそうだから、せめて癒してあげたいと思っているのに、先に謝られちゃうと少し寂しいと思ったりしてる。そんな事を頭の中でぐるぐる考えていたら、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。その音にはっとして、自分も和希の事が言えないくらい昼食を残していることに気がついた。
「はぁ・・・重症だよな、俺も。」
ため息を一つだけついて、俺は午後の和希のいない教室へと歩いていった。

 

俺は和希のいない放課後、どうしても寮に帰る気になれずに、ぼーっと学園内の運動部をフェンスにもたれて見ていた。さすがにもうそろそろ日も落ちかけてきて、運動部の学生は片づけをし終わりそうな時間になっていた。
「はぁーぁ。」
思わず大きなため息をついた瞬間、太陽を背にした俺の足元に、俺じゃないもう一つの影が重なった。はっとした俺は思わず大げさなほどに振り向いてしまった。だって、恥ずかしいじゃないか。こんな夕暮れ時に、こんなところでたそがれちゃって、しかもこんな特大のため息。まさか誰かに聞かれたなんて・・・。でも振り向いたそこにいたのは、俺にため息つかせた張本人だった。
「和希!」
びっくりしたのは俺だけじゃなかったみたいだ。
「啓太!びっくりした。もう寮に帰ったと思ってたのに。」
「それはこっちのセリフだよ和希!お前、仕事はもういいのか?」
「ああ、ちゃんと片付けてきた。定時って訳にはいかないけど、今夜は啓太と約束してただろ?TVで啓太の好きな映画、一緒に見るって。」
「うん・・・それはそうだけど、でも無理しなくても、俺、録画しておいて一緒に見るつもりだったし。」
「啓太・・・」
和希が少しため息をつくように、でも切なそうに目を細めて笑った。あ、この顔。俺好きなんだ。大人っぽくて、どこか胸が締め付けられるような微笑。ちょっぴり、俺が子供みたいに思えて少しだけ癪な瞬間でもあるけど。だから、俺はこんな距離ですらもどかしくなって、カシャンと音を立てて和希と俺の目の前のフェンスに指をかけた。
「和希・・・」
「・・・何?」
また和希が微笑んだ。今度はもう少しだけ余裕のある笑顔で。あ、やっぱりこの顔も好き。そっか、どんな和希だって、俺は好きなんだ。そう思った瞬間、何だかたまらなくなって思わず和希に手を伸ばした。案の定、フェンスに阻まれて届かなかったけど。
「なあ、和希。」
「なんだ?あ、ちょっと待って。今そっちにまわるから。」
「ううん、ここで。今すぐ聞いて。」
「・・・ああ。」
そう言ってにっこり微笑んだ和希は、フェンスごと俺の指に和希の指を絡ませた。冷たい金網に、和希の体温が重なって、どこからどこまでが自分だか分からなくなった。
「・・・和希、俺・・・」
「ん?」
「俺、寂しかったんだぞ!」
「だから、ごめん。どうしても行かなきゃ・・・」
また謝ろうとした和希に、つい大きな声が出てしまうのを止められなかった。
「違う!そう言う事じゃない!」
「啓太・・・」
「俺は、お前に謝られるのが辛いんだってば!いつもいつも和希、俺に謝ってばっかり。俺、分かってるのに。お前は忙しくて、それでも俺の事考えてくれて。俺は、俺はそれだけで十分なのに・・・」
はっと、和希が息を呑んで俺を見つめているのが分かった。まっすぐなその瞳で。俺だけを。
「俺は・・・ただお前が俺の所に帰ってきてくれるだけで、それだけで嬉しいんだから。俺だけのものだって、分かるから。だから、もう謝らないでくれよな。」
やっと言えた言葉に、俺はどっと疲れが押し寄せてきて思わずその場にへたり込みそうになっていた。すると、ぎゅっと俺の指を握る和希の手に力が入った。手が金網に少しだけ食い込んで、ほんのちょっぴり痛かったけど。でも和希の声と、和希の微笑みを見たらもうどうでもよくなっていた。俺ってやっぱりお子様なのかな・・・
「サンキュ、啓太。」
そう爽やかに言ってのけた和希は何だか無駄にカッコよかった。

 

「でもさ、和希。」
やっとフェンスから離れて、二人並んで寮に向かって歩き始めてしばらく経って、俺は今まで忘れていた疑問を思い出した。もうとっぷりと日が暮れて、辺りは暗闇に近くなっていた。その闇に助けられるように、俺たちは手をつないで歩いていた。
「ん、何?」
「どうしてお前、仕事帰りなのに制服なんだ?」
「だって、寮に帰らなきゃいけないだろ?前さ、スーツで帰ってきて窓から入ったら、お前怒ったじゃないか。」
そう言って俺にウインクしてみせた和希はやっぱり憎らしいほどカッコよかった。
「それはそうだけど・・・」
「なんだ?啓太は俺のスーツ姿、見たかった?なんならこれから啓太の部屋に、スーツで夜這いに行こうか?」
「バカっ!」
そう言った俺の顔は、きっと夕焼けみたいに真っ赤だったと思う。
「アハハ、ごめん。ごめんってば啓太!」
「和希なんか知らない!」
「待ってくれよ!啓太ぁー。」
理事長サマとも思えない情けない声が後ろから追いかけてくる。きっと明日も楽しいに違いない。和希と一緒だから。同じように思ってくれてることを祈りながら、俺はその確かな足取りと存在に、こっそりと微笑んだ。
 

おわり