怪談

 

 夏、と言えば怖い話。怖い話と言えば、怪談。 

今日は啓太と映画に行こうと、お盆も過ぎて仕事が通常に戻ったために忙しい和希が無理に取った、半日の休みだった。仕事での用事が本社にあったため、和希は啓太に学園島から出て鈴菱本社から3駅ほど離れたところにある映画館まで来てもらう事にした。映画館のすぐ前のコーヒーショップが今日の待ち合わせ場所だった。ギリギリまで仕事がどうなるか分からない状況だったために映画の指定席は取らず、啓太は甘いアイスカフェラテを飲みながらぼんやりと和希を待っていた。ひぐらしが鳴き始める頃、スラックスにワイシャツという姿の和希が駅の方から走ってくるのが見えた。今日はいつもよりずいぶん待ったが、和希の姿を見た瞬間に、そんな時間すらも愛しくなった。ちょうど飲み終えたカップを片付け、啓太は軽い足取りで店の外に飛び出した。
「和希!」
「待たせてすまないな、啓太。」
そう言った和希の顔は少し汗ばんでいて、仕事ばかりで日に焼けていない、色白の頬が赤くなっていた。
「ううん、こっちこそ。ごめん、忙しかったんだろ?断ってくれてもよかったのに。」
「そんな事ないさ。それに、啓太の誘いを断るなんて、俺には出来そうにないよ。」
そう言ってニッと笑った余裕のある和希の顔は、いつもの「遠藤」以上に大人びて見えた。しかし、白っぽい薄茶色を基調としたスラックスにワイシャツとは、どこか学園の制服のようで、ただでさえ良く分からない和希の年齢をさらに不詳に見せていた。ただ、脇に抱えた背広の上着と、革の上等そうな鞄と靴、そしてワイシャツの裾から覗く啓太でも分かるような有名なメーカーの時計だけが、和希を社会人だと、それもかなり上流の人間だと知らしめているようだった。傍目から見れば、高校生と年の離れた兄にでも見えるのだろうか。同級生どころか、恋人どうしには見えない・・・か。一瞬啓太はそう考えもしたが、それもいつもの事なので大した気落ちもせず、和希の微笑みににっこりと笑い返した。
「うん。そうだと嬉しいよ、和希。」
そう言う啓太の可愛らしいセリフに少しだけ声をたてて笑った和希が、啓太の背をそっと押して促した。
「じゃ、行こうか。さっき携帯で調べたんだけど、ちょうど次の上映時間まであと15分くらいだ。」
「へえ、すごいや。いいタイミングで来れたな和希。」
「啓太の運のおかげ、かな?」
「そうかもな。」
そう言って嬉しそうに、二人はひんやりと涼しい空気を孕む映画館に入って行った。

 

今日の怪談映画は「化猫」という題名だった。

数日前の夜、
「久し振りに映画でも見に行こうよ。夏休みもあと少しだし。宿題だってこれで全部終わらせたし。」
和希の部屋で宿題の見直しをやっていた啓太が、満足そうにシャープペンを置くとそう言った。
「夏の映画と言えば怪談だよな。」
その言葉を待っていたのか、ニッと笑って今まで読んでいた本の間から和希が取り出したのは、アニメーションでありながら、その完成度の高さと画面上での日本的美しさに各方面から絶賛されている映画の2枚のチケットだった。もうそろそろ啓太がそんな事を言い出すであろうと用意している和希の手際のよさには、啓太はいつもの事ながら舌を巻かされた。そんな和希の心遣いは嬉しいが、内容が内容で啓太は一瞬顔を歪ませた。
「・・・怪談・・・和希、お前、俺がこういうの苦手だって知っててわざとやってるだろ。」
「そんな事ないさ。これは、とっても評判がいいんだ。それにただの怪談じゃなくて、とっても綺麗なんだってさ。画面も、お話も。だから、啓太に見せたいなって思って。」
そう言った和希の声と目には偽りも啓太を弄ぶような色もなくて、啓太は少しだけ和希が勧める怪談映画に興味を持った。恐る恐る啓太が和希の手元を覗くと、そこにはどこか少しでも何かが崩れたら趣味が悪いとも言えるような極色彩の美しい日本調の和紙のような一風変わったチケットが静かに存在していた。
「・・・きれい。」
「な?そうだろ?」
「うん・・・これなら、俺、大丈夫かも。」
それが実写でないのが良かったのかもしれない。啓太はなんとなく、その色の美しさに心を奪われたかのようにこくんと頷いて、いつの間にか返事をしていた。
「うん。俺、これ行きたいな。」
「そっか!そう言ってもらえると嬉しいよ!」
そう言った和希の顔は、先ほどまでに自信たっぷりだったのが嘘だったかのように、どこかホっとして見えた。そうして、今に至るのであった。

 

 「化猫」は、昔むかしのお話だった。あるお屋敷での、猫に纏わる悲しい悲しいお話。

 映画館から出ると、入る頃には煩いほどに鳴いていたひぐらしはぴったりと泣きやんでいた。多少は涼しくなったがまだどこか蒸し暑く重い空気が全身を覆う中、二人は寄り添うように帰り道を急いだ。学園の門限も近い。電車をほぼ無言で乗り継ぎ、やっと学園島に直通の最終バスに乗り込むことができてから、ようやく和希は安心したかのように啓太の顔をそっと覗き込んだ。蛍光灯が切れかけているのか、バスの中は点滅する光によって時折暗闇に沈みかけていた。

映画館から出る前から、啓太は黙りこくっていた。ただ、和希のシャツの裾をきゅっと握り締め、唇を噛み締めて涙をこらえているようだった。音は、たてない。怖い話、のはずなのだが、啓太は怖がっている風ともまた違った様に泣いているように見えた。肩が震えているのは恐怖からではなく、涙が浮かぶその瞳に宿る色はどこか寂しそうだった。
「大丈夫か、啓太?」
最終なだけあって、乗客が和希と啓太しかいない学園行きのバスの中でそっと和希が啓太の肩を抱くと、啓太はやっと顔を上げて和希を見た。
「うん、俺は大丈夫。」
今の、この静かすぎる状況。いつもの啓太であれば、こんな静寂と不気味に点滅する光の灯るバス自体に怖がって、和希に抱きついてきてもおかしくはなかった。しかし、今の啓太はそんな事よりも、もっと他の事に気を取られているようだった。
「・・・そう、か。ごめんな、苦手だって言ったのに、無理に見せて。」
映画を見せた事を後悔し始めていた和希に、啓太はふるふると首を横に振って答えた。
「ううん、俺、この映画見れて良かったって思うよ。すごい、感動した。あんなに綺麗な絵とか、お話ってあるんだなって思ったから。」
そんな啓太の声に驚いたような安心したような感慨を抱いた和希が何も言えずにいると、少しだけの沈黙を挟んで啓太がぽつりと言葉を零した。
「ただ、ちょっとだけ・・・苦しくて。」
「苦しい?」
どうして怪談映画を見た感想らしき発言が苦しい、なのだろうと、和希は少しだけ首を傾げた。
「だって、あんまりじゃないか。かわいそうだよ。猫もさ、あのお嫁さんも。」
「・・・そうだな。」
少し考え込んで和希は啓太の顔をそっと覗き込み、小さく微笑んだ。啓太が安心できるようにと。
「かわいそうだったな。」
「・・・うん。」
「でも最後は、幸せそうで、良かったな。」
「!」
びっくりしたように和希の顔を見上げた啓太の目には、涙と一緒にあたたかい色が浮かんでいた。和希の目にも、同じように。だから啓太は、今度は胸の奥から溢れるような幸福感に頷いた。そして今度は啓太の方から和希の胸にもたれかかって、そっと背中に腕を回した。和希はそんな啓太を安心させるようにそっと背中を撫で、そして髪の毛に触れるだけのキスを落とした。
「ありがと、和希。」
安心したようにそうほんの小さな声で呟いて、啓太はほうっと息を吐いた。涙の雫と一緒に啓太の吐息が、暖かく和希のシャツを濡らした。
 

 

 啓太の部屋に、「化猫」のDVDが置いてあるのを和希が発見するのは、もう少しだけ後の事になる。

おわり