夕月

 四方にいた全員が何かに気づいた。大気が強い力と大きな怒りに震えている。

 太公望たちの危険を察し、楊戩が駆けつけたときには、もう全員が一撃づつ聞仲の禁鞭を受けていた。楊戩の変化もすぐに破られた。『児戯』という言葉に片付けるだけの力が聞仲にはあった。言葉を失った太公望の前に降り立った聞仲は、いつまでたっても相容れない問答を繰り返すばかり。今、周の人間にとって、太公望を失う訳にはいかなかった。が・・・・・・。

 砂埃の舞う夕闇間近かの大陸には、瀕死の道士たちの姿と、聞仲、四聖しかいなかった。宝貝はことごとく打ち砕かれ、ありとあらゆる攻撃は無駄に終わり、立ち上がれるものは一人もいなかった。四聖がとどめをさそうとしたその時、
「ま・・・、まて・・・・・・」
太公望がよろめきながら立ち上がった。
「・・・・まだうごけるか!」
傷つき、血の滴る手に力を入れ、太公望は打神鞭をぐっと握った。
「誰も殺させはせぬ!」
太公望の次に、楊戩は意識を取り戻した。
「う・・・・・・」
楊戩もまた、傷つき、額から垂れる血で視界が悪い。が、何かに気づいた。攻撃されていない。何かが自分たちの回りを取り囲んでいた。そして少し身体を起すと、はっとして目を見開いた。
「あ・・・!」
そこには、自分の最後の力を振り絞り、必死で仲間を守ろうとする太公望の姿があった。
「太公望師叔・・・・・・風の壁で僕たちを守って・・・・・・。まったく・・・あなたという人は・・・・・・。」
それだけいって、楊戩は再び意識を失った。

聞仲には分かっていた。太公望はもう限界であり、こんな大掛かりな風は長く持たないことに。しかし太公望はそのまま血を吐いて倒れるまで宝貝を使いつづけた。
「わしは・・・・ここまでなのか・・・・・・?」
薄れゆく意識の中で、太公望は最後に去ってゆく聞仲を見たような気がした・・・・。

どうして助かったのか、聞仲と四聖以外、その訳を知る者はいなかった。そして、人間、道士は西岐で身体を癒すことに専念する事となった。だが、太公望はまだ目を覚まさない。激しい疲労のため、あれ以来ずっと眠りつづけているのだった。

 楊戩が一度仙人界に戻ろうとした時もまだ、太公望は眠ったままだった。 夕月が出る頃、楊戩は一旦の別れを告げるため、一人で太公望の部屋に赴いた。そこは湖に面した部屋で、欄干越しに、水面の夕月が浮かんで見えた。楊戩は太公望の枕もとまで来て座り、その手を取ってぐっと握った。そしてそのままうつむき、しばらく、ただ沈黙だけがあった。
『師叔・・・・・、太公望師叔・・・・・・。お願いです、早くその目を開けて下さい。僕があなたを守りきれなかったばっかりにこんなことに・・・・・・。あなたより、いっそ僕がこうなればよかったのに・・・・。僕は一度崑崙に戻ります。結局肝心なところであなたの役に立てなかった・・・・。もっと強くならなければ。・・・・僕一人が焦って強くならなくても良い事は分かっているんです。でも・・・・・・。こうすること以外、僕に何が出来るのでしょう。あなたのために。・・・・今あなたと何か話すと行きづらくなりますね、きっと。だからこの方が良いのかもしれない。すぐに又、戻ってきます。今度こそ、あなたを守るために・・・・・・。ここに桃花を置いていきます。これが枯れるまでには帰ります。それまで、どうか無理をしないで下さい。それではゆっくりお休みください・・・・。』

 太公望が目を覚ましたのは、その翌日であった。四不象と武吉が飛びついて喜び、太公望は優しい目で二人を見た。枕もとには桃の花があった。まだつぼみも開いていない。それを見て、太公望は楊戩がいないことに気づいた。
「楊戩は・・・・?」
「楊戩さんは、ショックを受けて、仙人界に帰ったっス。」

「そうか・・・・・・」

 太公望が起き上がれるようになり、姫昌に会って政務を行えるほどに回復すると、驚くほどの雑務や、状況説明が楊戩によってなされていたことが分かった。もうあの桃のつぼみは開き、花は満開に咲いている。しかしまだ、楊戩は帰ってこなかった。太公望は、誰よりも楊戩に戻ってきてほしかった。何より楊戩に会いたかった。そして、感謝を伝えたかった。
「楊戩・・・・」

しかし楊戩が戻ってくるのは、太公望が完治し、姫発に会ってからであった。そして、帰ってきた丁度その日、桃の花びらの最後の一枚が散ったのであった。

おわり