雪夜

 

  今宵はよく冷える。  

誰もがそう思わざるをえない冷たい北風が,西岐の城を吹き抜けた。粉雪が舞い始めたのは,もう夜も大夫更けた頃だった。漆黒の闇から冷たい地上に降ってくる雪たちは,信じられない程の白さで見る者を魅了する。徐々に積もり始めたそれは,回廊にかすかな足跡を残して消えた。沓の音が,小さく遠くまで響いている。こういう夜は人に心の内を見せたくなる。静けさが心を乱し,待つ者を,迎える者へと変わらせる。太公望は明かりもつけず,唯一人で待っていた。ここへ来るであろう,蒼髪の男を。唯一人,閨の中で。

 随分と時間が経ったように思えた。いつもであれば,もうとっくにこの部屋を訪れているであろうに,今宵はなかなか想い人は現れなかった。しかしここから太公望自らあの男の部屋へ行く事はしない。今日も,唯待つだけ。それが時には悲しくもあり,煩わしくもある。昼間には決して見せない表情の太公望がここにいた。いや,普段なら決して夜にも,まして閨の中でさえ見せた事のない瞳は,降りしきる雪を映してさらに深い色へと変わっていった。 

 小さな足音が,戸口で止まった。いつもどうりの呼び掛けに,すっと足だけ閨から降ろし,衣擦れの音で相手に共犯の合図を送る。軋みをあげて戸が開く。楊戩が手に持っていた物は,暖かそうな掛け物と,少しばかりの薪だった。すっかり火の気の消えたこの閨に,微かな温もりが入り込む。ようやくおきた火を消さぬよう,楊戩は静かに太公望に近づいた。無言の時が過ぎる。
「掛け物を――」
その青白い細腕に掛け物を渡そうとすると,その腕は掛け物ではなく,一房の蒼い髪をすくった。当然のように差し伸べられたそれは,何の躊躇もなくそのまま端整な顔立ちをなぞり,首筋から項にかけてそっとたどった。太公望の瞳に移る色が,楊戩には読み取れなかった。薄く開かれた唇からその名が囁かれる。「楊戩。」と。あまりの艶に耐え切れず,楊戩が声をあげる。
「どうしたのです・・・」
太公望の手をとり,爪の先に小さく口ずけた。と,また伸びてきた手に,今度は身体ごと捕まれる。大人に取りすがって泣く幼い子供のようであり,そうでないという自覚がまた艶をなしている。
「今宵は冷える。」
ほとんど聞き取れないほどの囁きだった。
「人肌が恋しくはないか・・・」
言葉に弾かれたように,楊戩はその唇を塞いだ。眩暈がする。太公望の思惑どうりになっている事は分かっている。その事を,太公望は分かっているだろう事も分かっていた。だがどうしてこれを拒もうか。太公望と楊戩は,雪明りの入る敷布の海に二人沈んでいった。

雪が無音で降りしきる夜は,人恋しさに胸が締め付けられる。その白さに心奪われるからなのか,「空へ還りたい」と,雪たちの淡く脆い望みに感化されるからなのか。人は雪と夜に誘われる。

おわり