桃花
ふと目を上げると、太公望の閨の入り口に楊戩が立っていた。明日は要塞に赴くため、早くに床についたはずだったのだが、なぜか微笑みながら楊戩がそこにいた。
「どうしたのだ、眠れぬのか?」
未だ山のようにある書簡を脇によけ、太公望は微笑を返した。
「明日は早いのだぞ。子供でもあるまいに・・・・」
「いえ・・・・・・」
楊戩はそれだけ言って部屋に入り、太公望の向かいのいすに腰掛けた。
「ただ、あまりにこの桃花が月光に映えて美しかったものですから、これを、と・・・・・・。」
そうして差し出した一振りの桃の枝には、今咲いたばかりで夜露を含んだ、鮮やかな桃色の花がついていた。
「ほう、これは・・・・。食うだけではなく、こんな楽しみ方もあったのう。すっかり忘れておったわ。」
戦いに明け暮れていた近頃を振り返るように太公望はそう言い、机上の花瓶に枝をさし、再び微笑んだ。沈黙が一瞬流れ、先に口を開いたのは太公望であった。
「それで、どうしたというのだ?おぬしがそれだけでわしの閨に来るとは思えんからのう。」
それを聞き楊戩はふっと笑った。
「あなたには、何もかもお見通しなのですね。」
「どうかのう。」
「まあそういうことにしておきましょう。・・・・僕は明日、あなたの命で要塞に出発致します。」
「それがどうした?」
そこまで話し、楊戩は急に険しい目つきになった。
「あなたはっ・・・・・、どうしてあなたの傷もまだ癒えないうちに、ぼくをあなたから離すのです・・・・・。僕はいつもあなたの側にいて、あなたを守りたいのに。いつもいつもあなたが傷つくのを見ているだけなんて・・・・僕にはっ・・・・・・」
「いいのだ、わしの傷などいつかは治る。それより要塞を早急に作り、戦いに備えるほうが先だ。」
「しかしっ」
「何をむきになっておるのだ?まるでわしがすぐ死ぬような口ぶりではないか。」
はは、と笑う太公望を見て、たまらなくなったように楊戩が立ち上がった。
「そうやって、いつも自分の身だけを犠牲にするつもりですか?あなたが傷つくことで、僕がどれだけ苦しい思いを・・・・」
突然楊戩は机の向かいに手を差し伸べてぐいっと太公望を引き寄せ、唇を近付けた。パタッと花瓶が倒れ、桃の花の香りが部屋中に広がった。
「・・・・・・!」
何分にも思えたその一瞬に後で、顔を離した楊戩は、驚いたまま止まっている太公望を一瞬見つめ、
「それではおやすみなさい・・・・・・。いってきます。」
とだけ言って、閨を出て行った。まだ、桃の香りだけが残っていた。
「楊戩・・・・・・。」
月夜
今夜西岐月 閨中只独看 遙愛吾純人 未解想此地
香霧黒髪湿 清輝玉臂寒
何時倚虚幌
双照涙痕乾
今夜、西岐の月を、あなたは部屋でたった一人で見ているのでしょうか。僕は遥か遠くのこの地で、あなたがまだあまりにも純粋で汚れのない心のために、この要塞にいる僕のことを想う事が出来ないことを愛おしく思います。香しい霧で黒髪は湿り、その華奢で細い腕はこの月の光に冷たく照らされているのでしょうか。いつになったら戦いが終わりを告げ、誰もいない窓辺に寄り添い、二人で並んで月光に照らされながら、涙の痕を乾かせるのでしょうか・・・。
春夜西岐聞笛
誰家桃笛暗飛声
散入春風西岐満
此夜曲共香桃花
何人不起哀愁情
誰の家の桃の木で作った笛の音であろう、暗闇に音を響かせるのは。音は春風に乗って散らばり、西岐の街に満ちている。この夜、曲と共に桃の香りが漂ってきた。誰が哀愁の気持ちを起さずにいられようか・・・・・・。
おわり
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