置酒
人間界での戦いは終わった。長かった支配から解き放たれた。まだ何も現状は変化を遂げていないのだが、人々の顔に生気が戻っていた。もう少し早かったなら・・・そんな悲痛な叫びがないわけではない。しかしとにかく今日は特別な日だった。城は完全に開放され、西域から運ばれてくる物資は、日が落ちてもなお長い列を地平の彼方まで連ね、絶える事を知らないように見えた。今回ばかりは武王も神妙になり、(いや、この所そうなってきつつあったのだが、)すぐに何かあると宴席を設けようと言い出していたのが嘘のように静かにしていた。そんな静かな夜になるはずだったのだが、なんと宴席を設けると言い出したのは太公望だった。もちろん、いつものように無礼講で誰もがみな自由に酒などを飲み交わすには今日という日は危険すぎる。太公望の言い出したのは、仙人界の者だけでこっそり開くという類のものだった。今までずっと人間界にいた仙道たちは、なぜ太公望がそんな事を言い出したのか分からなかった。しかし楊戩には何となく分かる気がしていた。こうして仙人界の者たちが、今日という日から離れ、全て人間界の者たちに任せなければならない事を楊戩には分かっているつもりだった。だから太公望がそんな無茶な事を言い出した時、巧みに道士たちをその気にさせ、離れたところに小さな宴席の用意をさせたのだった。
名立たる仙人たちはもはや城に残ってはいなかった。楊戩と太公望以外でこの席にいるのはみな、まだ若い―――人間とそう変わらない年頃の―――者ばかりだった。それぞれ何かを手放しに喜んでいるわけではなかったが、ただこうして皆と居るだけで、少し気がまぎれているようだった。楊戩はそんな中、少しその宴席から離れた所に居る太公望と並んで立っていた。楊戩はもともとこのように人の集まる宴席に居る事自体、そう好きな方ではなかった。だからこうして少し離れていることが多かった。それに対するように、いつも誰かに宴席の真ん中に引っ張って行かれて何だかんだ言いつつも騒いでいる太公望なのだが、今日は静かに皆のほうを見ているだけだった。まるで自分の子や孫を優しく見守っている様な眼差しだった。楊戩はその先に映る瞳の中に、自分の存在がないことにいつも何かわだかまりを持っていた。自分はそう言ったまだ若い仲間たちとは違ったところ―――それは特別な、と言ったほうが正しいのだが―――に居る事を許され、最も太公望に近いところに居るのは事実ではある。が、それでも尚この温かい太公望の眼差しを見てしまうと、何か耐え切れない思いがこみ上げ、無意識のうちにその視線は苦しげなものになってしまうのだった。
突然、無言で宴席を眺めていた太公望の視線が、向く方向はそのままに急に厳しさを帯びた。
「楊戩。」
それは静かで落ち着いた響きを持った声だった。
「はい。」
短く返事をした楊戩は、太公望が何を言わんとしているのか分かっていた。太公望がすっと歩き出し、宴席の一角に向かった。それはついて来いということだった。その先に、少し顔を赤くした四不象が居た。ふと楊戩が太公望を見ると、いつものニョホホとした顔にもどっていた。だが楊戩にはそれもまた、太公望でさえ無意識に作った表情だということは分かっていた。太公望と出会ってまだ間もない頃は、このふざけたような表情と、その片隅にときどき覗かせる厳しい表情のどちらが本当の表情であるのか分からなかった。しかし、多くの時間を共にし、二人だけで語り合う事もあり、静かに自分を語れるようになった今では、その表情の全てが、太公望自身にさえ分からないほどに本心をうっすらと包んでいるということが分かるようになっていた。だからこうした急な切り替えに、自然に対応できるようになっていたのだった。
「おいスープー、わしはちと桃でも探してくるぞ。」
楽しそうに笑っていた四不象に、太公望はいつものように話し掛けた。
「またっスかぁ〜?あんまり無駄食いしたらいけないっスよ〜。また見つけられてしかられても知らないっスからね!!」
「おぬしが言わなければよいのだ!!くれぐれも旦だけにはチクるなよ!」
そう言ってまたニョホホと笑う太公望に、諦めたよう四不象は大げさにため息をついた。
「は〜ぁ、しょうがないっスね〜」
「では!」
それだけ言ってすたすたと歩き出した太公望の後を四不象は慌てて追いかけようとした。
「ちょっと待つっス!!僕も行くっス!見張っているっスよ!!」
そう言ってついて行こうとした四不象を、楊戩がやんわりと止めた。
「四不象、僕が行くからキミはまだ楽しんでおいで。」
「え?でも・・・」
何となく申し訳なさそうにそう言った四不象に、
「ね?」
といって楊戩はにっこり微笑んだ。異種の四不象にとってもこんな微笑みは目に痛いほどなのだから、女の人はイチころっスねえ、などと思いつつ、四不象はここを楊戩に任せることにした。
「・・・じゃあ・・・お願いするっス。ちゃんと見張っててくださいね!ほんとに御主人ときたら油断もスキもないんっスから・・・」
「くぉら!何か言ったかスープー!!」
もうかなり離れていたはずなのだが、太公望の声が返ってきた。
「耳ざといっス・・・」
あきれるように独り言をいった四不象はぺこんと楊戩に頭を下げ、うれしそうにぴるるると飛び去っていった。
楊戩が少し歩くと、もうその後ろ姿に追いついていた。暗がりの中に白い兎の耳のような頭巾を揺らしながら、愛しい人は音もなく歩いていた。
「楊戩か。」
「はい。」
城内は未だにどこかざわざわとしているのが、遠く離れたここまで聞こえていた。しかし先ほどまでの直接的なざわめきは消え、それらはどこか遠くの出来事であるかのようにかすかに響いているだけだった。
「すまなかったのう。おぬしもまだ宴におりたかったであろう。」
「いいえ。」
楊戩はこのように静かなところでの太公望の声が好きだった。それはまだ幼さを残しているとはいえ、どこか安心できる落ち着いた声だった。そう思い、少し眼差しを和らげていた楊戩だが、そもそもここに楊戩が呼ばれたわけを思い出し、やや厳しい声になって太公望に話し掛けた。
「いえ、それより師叔、武王のことですね。」
楊戩には、太公望に呼ばれた理由はこれ以外にはないと考えていた。先日の牧野の戦いで、武王は生死に関わる深い傷を負っていた。
「うむ・・・。」
やはりそのようであった。
「僕が見たところあの腹部の傷はかなり深く、貫通していました。幸い邑姜くんの即急な止血と雲中子様の薬で今のところは何とか大丈夫です。」
「まだ仙丹を使っておるのだな?」
始め楊戩にはその言葉の意味するところが分からなかった。しかし太公望のこの堅い表情と、まだ一度もこちらを見もしない張り詰めた視線から、思いついた事があった。
「はい、今はまだ仙丹を使用しなければ危険な状態です。しかし・・・、あまり人間が仙界のものを長期服用するのは・・・」
太公望の望みは、人間界から仙道を一掃し、平安な人間界を作ることである。ここで、緊急事態とはいえ仙丹を使い続けるのなら、それは妲己と、聞仲と何一つ変わらない、仙道が人間の死期さえ左右している事になる。
「うむ・・・外傷が塞がり次第人間界の薬に切り替えてくれ。」
「はい・・・。」
そう言った太公望の表情はどこか辛そうだった。皆の前ならば、こうした一見厳しいような、残酷な事でさえ、かすかな表情も見せずに命を下していた。しかしこの頃の太公望は、楊戩の前では少し素の自分をさらけ出している様な節があった。それはもしかすると、今まで一人であった太公望の、初めて心許せる特別な場所ができた事への甘えなのかもしれないと楊戩は思った。と同時に、それでいいとも思った。太公望は決して甘えない人であった。何もかも自分で抱え込んでいた。いくら辛い事があっても表には出せず、なくことさえ出来なかった太公望は、見ている楊戩にも辛い苦しみを与えていた。いつごろからであったであろう、このような表情を太公望が楊戩に見せるようになったのは。楊戩は、ただそれだけの事がこの上なく嬉しかった。
大分長いこと歩いていた二人は、気付くと城内の片隅にある倉庫が連なる所まで来ていた。楊戩は先ほど周の王侯たちから報告を受けたことを、太公望にも報告しなければいけないことを思い出した。
「師叔、あと、周の王侯の会議等でほぼ確定したことですが、邑姜君が王室に入るそうです。」
「・・・・そうか。・・・しかし・・・」
「ええ、武王が長く在位する事は無理でしょう。」
「だが今武王を失うわけには行かぬ!たとえこれが仙人界の者の勝手な思いだとしてもな。」
その口調は、どこか強いが脆い響きを持って夜空に消えた。太公望自信が、自分の矛盾に怯えていた。そんな様子を察した楊戩はかえって事務的な物言いになって話し掛けた。
「そうですね。さらに後継者の問題もありますし。今のところ周公旦を、という声が一番強いのですが、本人は頑として王位に就く気はない、武王の子こそが後継者だと言い張っていますし。」
「うむ、きっとどんな事が起ころうともそう言い続けるであろうな。」
「そうですね。」
一瞬、乾いた沈黙が二人の間に降りた。その重苦しさを払いのけるように、太公望がふっと楊戩のほうを振り向いた。少し笑っているような、少し申し訳なさそうな、でもどこか悪戯っぽい眼差しだった。
「すまんのう。おぬしに頼ってばかりだのう。」
「いいえ、それこそ僕の喜びですから。」
そんな太公望の視線に負けじと微笑んだ楊戩は、それはもう輝くばかりの笑顔で返事を返した。一瞬うっと詰まった太公望は、
「・・・ったく、そんな恥ずかしい事をまた平気で口に出して・・・」
と、ぶつぶつ言いながら楊戩から顔をそらした。もう、いつもの太公望だった。
と、太公望が視線を向けた先は、殷の徴税庫、つまり桃の倉庫であった。
「おお!いつの間にこんな所に!楊戩!部分変化で鍵を出せい!」
そう言いながら楊戩の方にもう一度振り返った太公望は先ほどの宴会での様に、ニョホホと笑っていた。ふぅ、と楊戩は軽くため息をつき、鍵を出した。
「まったく、仕方のない人ですね。初めからここにも来るつもりだったのでしょう?」
「さ〜あの〜う。」
こんなやりとりが楽しかった。きっと太公望も同じように楽しんでいるに違いなかった。
「今日だけですからね!それにあんまり食べないで下さいよ!!」
「うっさいの〜、分かっておるわ!!」
そんな事を言いつついそいそと扉を開け中に入っていく太公望であった。その後ろ姿を見つめて笑っていた楊戩は、突然真顔になりその後を追いかけるように自分も倉庫の中に入っていった。
倉庫の中は意外に広く、天井に近いところいあるいくつかの格子窓から月明かりが射していて、ぼんやり明るかった。
「うーむ、わしの予想からいくとこの辺りに・・・。おおっ!!あったあった!」
桃を捜し当てたらしい太公望は、笑うように嬉しそうな声を上げた。いきなり“ギーパタン”という音がして、太公望の手元が暗くなった。
「くぉら!楊戩!暗いではないか!これでは美味い桃が選べぬわ!」
後ろの様子にも気付かずに、太公望はまだ振り向きもしない。ようやく顔だけ振り返り、恨めしそうな視線を楊戩に投げかけようとしたその時、強い力で肩を掴まれ、振り向かされたと思ったら楊戩に抱きすくめられていた。
「よ!楊戩?!」
「師叔・・・」
驚いて名を呼ぶ太公望の耳元で、楊戩が苦しそうに呟いた。
「ど・・・どうしたのだ?」
「・・・・・・」
楊戩の返事はなかった。目を閉じた楊戩は、ただ太公望を強く抱きしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
「のう?」
常とは異なる楊戩の様子に、太公望は優しい表情で呼び掛け、自分を抱いてくる男の広い背中をぽんぽんとたたいた。
「のう、どうしたのだ、楊戩。」
この頃の太公望は、二人になると、優しい言葉さえかけられる様になっていた。それを嬉しいと思いつつ、楊戩はもっと大きな感情に飲まれるように小さい声で太公望に囁きかけた。
「師叔・・・。僕には、今日のあなたがどこかぼやけて見えるのです。まるでこのまま消えてしまいそうで・・・。あなたはここに居ますよね?今、僕の腕の中に、居るんですよね?」
自分でも何を言って良いのか分からなかった楊戩だが、口が勝手にそう動いていた。無意識のうちに、太公望を抱きしめる腕が震えていた。
「何を言っておるのだ。わしはここにおるぞ。何をそんなに怯えておるのだ。」
楊戩には分からなかった。このどうしようもなく込み上げてくる感情に何と名づけて良いのか分からなかった。人間界はこれで平和になるだろう。自分たち仙道は仙人界を新たに創ってそこへ引き上げるだろう。そのはずなのに、もうずっと共にいられるはずなのに、胸騒ぎはおさまらなかった。この人には未来が見えているのだろうか。ふと楊戩はそんな気がした。
「師叔・・・」
もう一度その名を呼び、楊戩は太公望の項に顔を沈めた。蔵の中を、静かな風が流れていった。
おわり
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