青天
振り返るとそこに、青い髪の端整な顔立ちの青年が立っていた。
いつものように、一人で浮いた岩に腰掛けて人間界を見下ろしていた伏羲は、何かを感じた。
「誰だ。」
もう冷めきったその瞳のまま、伏羲は青年に問い掛けた。だが返事はなく、ただ青年は微笑んだだけであった。その微笑みが、伏羲の瞳に焼き付けられるよりも早く、青年の姿はふっと消えた。まるで初めから居なかったように。
伏羲は時折夢を見る。人間の言う「夢」ではない。それは、確固たる未来、壊された過去、存在しうる未来・・・と、時を越えた画像が眠らない伏羲の目の内に映るというものであった。だから伏羲には分かっていた。その青年もまた、何らかの画像に過ぎないということを。過去に一度も現れた事のないその青年は、伏羲には未来に存在するであろう者だという事まで分かっていた。
次に青年が現れた時、伏羲はまた一人で岩の上に座っていた。何をする訳でもなく、ただ座っていた。青年は、今度は動画となり、透明に近い青を後ろにたなびかせて伏羲の隣に座った。そう、それが当たり前のように。
「そなた、以前にも現れたな。」
伏羲は言う。しかしやはり青年は黙ったまま、何も言わずに視線を落とした。しばらくの間、沈黙だけがそこにあった。伏羲は沈黙に慣れていた。むしろ、自分の声さえ疎ましいと思う事のほうが多かった。誰がそこに居ても何も感じなかった。何がそこにあっても思う所もなかった。ただ、これから名付けようとする「封神計画」のために存在していると悟っていた。しかしその青年の青は、伏羲の目に痛かった。あまりに綺麗すぎて吐き気のする青天のようであった。画像であり実体はないはずなのに、風に青年の長い髪が揺れ、伏羲の頬に触れていった気がした。伏羲は久方振りに自ら他人を見た。青年はまだそこに居た。今までこのように長い間、ただ一つの画像が留まっている事はなかった。伏羲はただ不思議に思った。どうしてここに居るのか、と。青年にそう問い掛けようとした時、再び青年は消えた。伏羲はまた視線を戻し、それ以上何も考える事はなかった。
元始天尊と燃燈道人が現れた。伏羲が見ていた未来のとおりに。そして、密かなる計画を発動させた。伏羲は二人を見て思う、あの青年ではない、と。ただそれだけ思った。
再びその青年が現れたのは、深い夜の中であった。夜空が現実から伏羲の存在をあやふやなものにしている代わりに、青年の姿はやけにはっきりとしていた。
「またそなたか。」
伏羲は言った。青年が答えるはずがないと分かってはいたが。伏羲は今度はしっかりと瞳を開き、青年をまっすぐ見た。闇夜にうかぶ白い肩布と、絹のような青い髪、深い紫の瞳を。青年は少し苦しそうに笑った。声を出さず、そっと。
「名は何という。」
伏羲にはそれが分からなかった。常であれば、すぐ分かるものであるし、またそれを決めるのも伏羲でありさえした。が、この青年の事を何と呼んでいいのか、何とすればよいのか分からなかった。ただ、青いと思った。青年は口を開きかけ、伏羲の冷めた姿を見た。伏羲がその寂しげな視線を受け取る前に、青年はやはりすっと消えた。
それからしばらく、伏羲は夢見る事が少なくなった。意図的に未来を引き寄せ、それを見、元始天尊に告げる事はあっても。そして青年の青を見ることもなかった。伏羲は
「何とも思わない。」
そう自分に言い掛けた。
「あの青年の画像など・・・」
そう呟いた声は空中に消えた。
伏羲は自分の魂魄を二つにする夢を見た。ほんの一瞬。一つは黒く、一つは何の色もなく。そこには伏羲は居ない。二つにされた自分は自分ではなく、それぞれの個を持つであろう。伏羲は元始天尊にそう言った。何の感情もなく。それはいつか?今でもよい。伏羲はそう言った。しかし、もう少し時間がほしいと元始天尊は言った。
「分かった。」
そう答えたその時、青年がそこに現れた。伏羲は多少驚いた。今まで自分一人以外で居る時に夢が現れることはなかったから。伏羲は、ここで何か話してはいけない気がして元始天尊の元を去った。当然、元始天尊には青年を見ることはできないのだが。一人と青年の画像となり、伏羲は再び問い掛けた。
「もう一度聞く。そなた名は?」
青年は今までより色が薄く、透明な空のようであった。青年は何も聞こえなかったかのように伏羲に手を差し伸べた。伏羲はどうする事もなく、青年のするままにさせた。青年の手が伏羲の頬に触れたとたん、「温かい」と思った。どういうことだ?とも思った。伏羲は“星”を出てから今まで温かいと感じた事はなかった。このような感覚が自分の中に残っているなど思ってもいなかった。青年は少しそのままにしていたが、少し翳りのある微笑みを残して手を引いた。そしてまた消えてゆく・・・と伏羲は思ったが、青年が消える瞬間、伏羲は自分のものではない声を聞いた。ほんのかすかな、風の音と聞き紛うほどの小さな声を。高くもなく低くもなく、柔らかな穏やかな声を。
「・・・・楊戩・・・・」
伏羲は思わずそう口に出した。
「楊戩」
もう一度呟き、伏羲は瞳を閉じた。
時が訪れた。伏羲の魂魄は2つにされようとしていた。伏羲は思った。もう一度、あの青年を見ておきたかったと。そして、自分から何かを欲するなど、どうかしているのか、とも思った。しかし、あの青を、もう一度。伏羲の意識がもはや消えようとしたその時、伏羲には青年が見えた気がした。今までよりさらに透明に近くさらに優しく微笑んでいるその青がそこに。そして最後またあの声を耳にした気もした。
「やっと会えますね、太公望師叔・・・」
と。それ以上、伏羲には何も思えなかった。全ての意識はこの場を去り、新しい魂魄には違った存在が宿ろうとしていた。
おわり
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