Passing
Moment
全てが終わり、既に一か月が過ぎようとしていた。楊戩は教主となり、人間界にも仙人界にもやっと落ち着きが見え始めてきた。楊戩にとって忙しい毎日であり、また、たった一人の夜をずっと過ごしてきた。今までそばに居た太公望が居なくなったという悲しみより、太公望が消えたのがあまりに自然すぎるからなのか、それとも何か別の予感がするからなのか、狂いそうな孤独感に襲われることは無かった。この一か月間、楊戩は静まり返った心ですごしてきた。だから、四不象と武吉が、太公望が生きている事を報告に来た時も、少しも驚かなかった。むしろ、それがあたりまえのように思えた。楊戩は、どこかでずっと太公望を感じ続けていた。たとえ誰にも見えなくても、楊戩には分かっていた。すぐそばに、太公望が居る事が・・・・。
仕事が一段落し、楊戩は張奎に後を任せ、人間界へ足を運んだ。どこへ行こうという訳でもなかったはずだが、ふと気がつくと、あの懐かしい道端に立っていた。あの日のまま、そこには殷王家の墓と、長く伸びる石畳の道があった。そこでしばらくたたずんでいた楊戩は、その道から少し離れたところにある黒い人影を見つけた。その人影は、楊戩が近付いても振り向きもせず、ただただ立ち尽くしていた。
「師叔・・・・・」
楊戩は、自分の声があまりにも穏やかな事に返って驚きを覚えた。
「ここを憶えていますか、師叔・・・。ここはあなたの一族が眠る場所。そして、僕が初めてあなたに会った場所・・・・・。何故、僕はここに来てしまったのでしょうね。ここはもう、あなたにとってあなたの場所ではないはずなのに・・・。こうして僕が、あなたに語りかけるのでさえ、もう以前の僕とあなたではないはずなのに・・・。」
太公望はぴくりとも動かず、一度瞳だけ閉じて、ゆっくりと口を開き、楊戩の言葉をたどるように静かに話し始めた。
「どうしてわしはここにおるのかのう。わしの身体は、もはやわしのものではない。それに、元のわしだとしても、それもわしではない。父上も、母上も、伏羲であることを思い出してしまったわしにとっては何のつながりも無い。いやむしろ、『最初の人』である仲間を、他の全てのものと同じように懐かしむべきものであるというのに。どうしてわしはこの地へ来、そしてまたおぬしに出会ってしまったのであろうな。」
楊戩は少し微笑んで、太公望のその背中に向かい、もう一度話し始めた。
「だけど、僕は、あなたはあなただとしか思えません。あなたが僕に語るその言葉も、あなたはあなただ。ケリなどもう始めからついていたのです。僕がいて、あなたがいる。確かな事は、それだけではないのでしょうか。」
風が二人の間を吹き抜け、沈黙が流れた。あたりは静まり返り、鳥の声さえ聞こえなくなった。耳が痛いほどの静寂。たまらなくなって口を開きかけた楊戩より先に、太公望がゆっくりと言葉を続けた。
「分かってはおるのだよ。だがな、何か・・・どこか違うのだ。わしは今まで何度も歴史を見、冷静にずっと女媧を見てきたはず、そして今度も、同じ目で見てきたはずなのにな、何か違うのだ。わしは、望となってから得、そして失ったものが、いとおしくて仕方ないのだよ。永い永いときの、ほんの一瞬であったはずなのに、わしは今、全てが終わった今、何かが悲しくて、おかしくなりそうなのだよ。」
楊戩には答えることも、口を開くことも出来なかった。太公望がそこにいるのに、まるでいないような感覚にとらわれ、一歩太公望の方へ足を進めた。と、太公望が再び語りかけた。
「わしは、この地になるべきだったのだろうか。それとも、わしは妲己の言ったとおり、全てのものに恵みを与えられる、永遠の存在になりたいと望んでいたのだろうか。いや、違う・・・。わしはそれだけは出来なかったわしは・・・、わしの望みはそうではないのだ。今、わしがここにいて、おぬしがいて、やっと気付いた。わしは、今いるおぬしらと、同じ時を生き、同じ空の下で歩いていたいのだ。わしは・・・特別な一人でなどいたくない。わしはおぬしらと共に、おぬしらと・・・・・・同じでいたいのだ・・・・・・。」
太公望がそう言い終わるか終わらないかのうちに、楊戩は太公望に駆け寄り、太公望を抱きしめ、ふっと顔を上げた太公望の瞳を見つめた。その表情は限りなく穏やかであったが、ほとんど無といえる太公望の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。楊戩は、その深い青に、吸い込まれるように太公望を見つめていた。足元から、どこか深い海の底へ沈んでいくような切なさが、心におしよせてきて、腕の中の太公望をもう一度強く抱きしめた。力を抜いて、顔をうずめた太公望が、消えてしまいそうで、楊戩は急に孤独を思い出した。今まで、しばらくの間忘れていた想いが、再び楊戩の胸に降り立った。この腕の中の人を失いたくない。ただそれだけで、楊戩はいつまでも太公望を抱きしめていた。
いつの間にか、風と鳥と、草原の音が空にかえってきていた。二人は静かに、ただ静かに今、そこに存在しているものとして同じ時を刻みつづけていた。
おわり
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