紅梅色の陽

 

 コツ‥と、小さな足音がした。その音を眠りの中で聞いていた太公望はうっすらと目を開けた。一枚扉を隔てたその向こうに、馴染みのある柔らかな気配がした。まだ夜も明けぬあけぼのには、有明の月の光だけが窓の外から差し込んでいた。閨内に聞こえるのは忠実な霊獣の規則正しい寝息だけであった。ふと、外の気配が動いた。それと、小さく囁くような声が一緒に耳に届いた。
「師叔。」
言うまでもなくあの青髪の青年の声だった。
「何事か、楊戩。」
この要塞の責任者である楊戩が、わざわざこのような時間に訪ねて来るとは何かあったに違いない。そうとっさに思った太公望は静かに起き上がり、同じくらい小さな声で答えた。
「いえ、少し・・・・。」

「もうすぐ夜明けだな。すぐ行く。」
寝台に小さな軋みを言わせて太公望はそっと立ち上がり、単衣からいつもの道服にすばやく着替えた。そっと扉を開けると、そこには月明かりだけでもそれとはっきり分かる端整な顔立ちがこちらを見ていた。
「楊戩」
太公望がそう言おうとした時にはもう、その存外大きな手で腕を掴み、楊戩は太公望を引き摺りながら走り出していた。
「よっ・・・楊戩!だからどうしたというのだ?!」
為されるがままになっている太公望は、その背中を見ながらやっとの事でそう言った。しかし返事はなく、楊戩はただひたすらどこかへ向かって走って行く。
―――
一体なんだと言うのだ。―――
息を切らしながらそう思った太公望が止まれたのは、要塞から出、まだほの暗い荒原に達した所であった。
「こらっ!!楊戩!!訳を話して貰おうか。おぬし一体何を考えておるのだっ!!こんな早くになんぞ事でも起こったのかと本気で焦ったわ!!」
「師叔。」
そう言って楊戩に振り向かされた太公望は、次の瞬間物が言えなかった。朝日が東向に建てられた要塞に正面から当たり、桃色だった生まれたばかりの光が徐々に深い紫へと煌き移ろいながら色を変えていく。眩しさを感じて太公望が目を閉じた一瞬後には、朝日はもう紅梅色に変わり、いつものように空にあるだけだった。
「・・・・・・」
太公望は少し間をおいて、ほうっと息をついた。
「どうです?」
その様子を満足げに見ていた楊戩が、まだ感動覚めやらぬ太公望の横顔に微笑みかけた。
「せっかく朝日のあたる方角へ進んで行くのです。これを使わない手はないと思いましてね。」
まだ、昇りきった陽と、要塞の反射光を何も言わずに見つめている太公望に、楊戩はもう一度語りかけた。優しい声だと思った。まるでさっきの薄桃色の陽のような。
「綺麗でしょう?これをあなたに見せたくて、こんな早くにあなたを起こしに行ってしまいました。許していただけますか?」
ちょっとこちらを伺うような眼差しで楊戩は尋ねたが、太公望は何も答えなかった。楊戩は、これで良いと思った。このような時の太公望の表情は深くて計りきれない。その眼差しは、どこを見ているのか、そして何を思っているのか、楊戩には分からなかった。しかしそんな太公望の瞳が、楊戩は好きだと思った。この静かな時に、二人このままずっと身を任せていたいと思った。

「・・・・構わんよ。」
あまり長い間の沈黙に、楊戩はそれがさっきの問いに対する答えだと気付くのに少し時間がかかった。
「本当に、綺麗だのう。こんな陽は、久しぶりに見たような気がする。」
それはあまりにも心からの言葉で。楊戩は太公望がまだ夢心地なのかと思った。太公望はめったに自分の心を、それがどれだけ些細な事であっても口にする事はない。しかし今その口から盛れ出た言葉は、確かに太公望の気持ちだった。
「陽は、毎朝昇っておるのにのう。わしは、こんな事にも気付かなかった。」
そう言って。太公望は初めて楊戩のほうへ向き直り、その目は少し笑っていた。どこか照れ臭そうに。
「ありがとう、楊戩・・・」
「師叔・・・」
前聞いたのはもういつだったか分からなくなってしまったような、その素直な感謝の言葉は、楊戩の胸の奥底までを貫いた。この人を、想っている事が出来て、幸せだと思えた。次の言葉が見つからない楊戩に、太公望はふっと笑って手を差し伸べた。
「さあ、もう戻ろう。」
それはもう、いつもの彼であり、いつもの楊戩であった。

「あの要塞の壁は何の石なのだ?」
「黒曜石です。この辺りでよく取れますしね。地域振興も兼ねてね。」
「おぬしもたまにはよい頭の使い方をするのう。」
「ひどいですね。僕はいつだってあなたのために、この頭脳と力を惜しみなく使っていると言うのに。」
「まあったくおぬしはまたそんな口の痒くなるような事を・・・」
「だって事実ですからね。」
「小憎たらしい。」
「あなたもね。」
そう言って、二人は顔を見合わせてふっと笑った。こんな時が、今一瞬でもここにあることが、至上の喜びだと。そう思えた。

おわり