神の花嫁

 

 それはある穏やかな昼下がりの出来事だった。雲は崑崙の上と下を安らかに流れ、静かな風が荒れることなく木の梢を撫でてゆく。青髪の青年がその木にもたれかかり、やや下に浮かぶ岩をなんとはなしに眺めていた。青年はこれから自分の生郷へ赴こうとしていた。表向きには。自分とは何であるか。自己の存在の意味を見極めに。頭の隅でこんな声がした。―――もう分かっている。もう十分だ。今さら言って何が分かる。今さら会って何になる。―――

 師から暇を出されてもう数時間になるが、青年はその場から動こうとはしなかった。時折降ってくる若葉の先を見据え、その向こうに見える空をただ睨むだけだった。正直、一日をここで過ごしてもいいと思っていた。長い生の間のほんの一瞬。師は自分を見つけてこいとは言ったが、明確に金鏊へ行けと言った訳ではなかった。だからこのまま瞑想には程遠い思いにふけっていてもいいと思っていた。もしかすると、父に会うのが躊躇われた、ただそれだけかもしれなかったが、そんなことはもうどうでも良かった。だからこうして霞と共に髪がたなびくのを、風に任せていたのかもしれなかった。 

 ふいに人の気配がした。まだ若い仙気だった。ほのかに何かの香りを連れて、青年の視線の先に舞い降りた一人の少年がいた。この世界での年齢は分かりづらいが、確かにその仙気はまだ若く、人間と変わらない、いや、人間にしてもまだ若い程のものであった。少年は白い道衣を身に纏い、何処か別の岩からそこへ降り立ったようであった。長い上着の裾をたおやかに風に膨らませて。青年はその白さに一瞬目を奪われた。
―――なんて辿々しい―――
青年にはそう思えた。この世界で生きてゆくには、特にそれが人間の場合、その清浄さはあまりに辿々しい。青年は、今自分が考えるべき事を忘れたかのように少年に見入った。少年はこちらには気づいていない様子でその岩上にしっかりと立ち、しばらく遠くの空を見ていた。ふいに、ざあっと強い風が下から上へと吹き抜け、少年の赤茶の髪が揺れた。少年はその風の向く方へ小さく手を伸ばし、何かを包み込み、何かを迎える様に腕をゆっくり広げた。

 はじめは、その風の音だと思った。風が枝をすり抜け、葉々をざわめかせ、大気がゆったり震えたのだと。しかしそれは少年の声だった。低くもなく、それほど高くもなく。この日のように穏やかな声が、青年の耳に届いた。

―――この風の吹く方へ

      この雲の流るる方へ

      生きとしゆける者を運び

      そしてさらってゆく

      この大地と

      未来と

      己に耳を傾けよ―――

 それはところどころは、崑崙の経典とされている物の様に思えた。道士が必ず師から語り継がれる、この世界の清濁を歌ったもの。しかし違う。と青年は思った。これは今まで自分がつまらないと思い続けた文句ではなかった。それよりももっと深い、そこに降り立った少年の『声』であった。

―――この水の降り立つ場所へ

      この砂の還る所へ

      死にゆく者を迎え

      そして奪ってゆく

      この天空と

      近しい者と

      目の前にある時に耳を傾けよ―――

 青年には、この経典が何を言いたいのか悟りきれていなかった。理解はしている。しかし、何故これほど何千年も語り継がれているのか分からなかった。それがこの少年の声で、全てが身体全体で分かった気がした。この世界が、なんと美しいのかと言う事を。青年は、その少年の声をずっと聞いていたいと思った。声はまだ、ゆっくりと風のように綴られ続けていた。

―――天を唄い

      地に口付けよ

      この場所に生きる者よ

      かつてこの場所に生きた者よ

      木々の言葉を受け止めよ

      実りの叫びを刻みつけよ

      鳥の羽ばたきは海に還り

      うおの煌きは山に還る

 

      大いなる光が地を覆い隠し

      己の闇が見えなくなる時

      その闇にこそ

      己を見つけよ

      その影にこそ

      咲き乱れる華を見つけよ

      逆巻く波に身を委ねよ

      時を遡り己に触れよ

      咲き初めた激情を洗い清めよ

 

      己を鎮め

      過去を見つめよ

      その手を伸ばし

      己を抱きとめよ―――  

その声に弾かれるように、青年は、ばっと立ち上がった。道衣や服の上に降りかかっていた葉が風に乗り、少年の髪に触れた。少年はそれに導かれるよう、青年のほうへ視線を移した。瞳の先が絡み合った瞬間、青年は動けずにいた。少年の、深い哀しみの青い目に吸い込まれていた。何処までも続くこの天のように、遠い遠い所を見ている目だった。
―――名は?―――
何か青年は言おうとしていたはずだった。少年に。声が出なかった。ただ口が薄く開き、手を少年の方へ伸ばせただけだった。その手が小さく震えている。少年はとてもこの仙気から分かるような若い目をしていなかった。それは長い過去を経、全てを見た目であった。少年はその瞳のまま、言葉をつなぎ、そして口を閉じた。

―――大地と天空と大海と

      それら全てに宿る

      神の花嫁となれ―――

 青年はびくっと身体を戦慄かせて一歩後退った。何かが背中を走ってゆくのが分かった。怯えに震えた瞳を一度閉じ、ゆっくり開けると、少年の姿はもうそこにはなかった。ただそこに、白い布が一枚落ちているのみであった。青年はその少年が立っていた場所に下り、布を手に取った。肩を覆うようなつくりの真っ白な布であった。青年は、これを身につけよと誰かに言われた気がした。いつの日か、再びめぐり逢える様に・・・と。 

 不思議な感触だった。もう、青年の心に迷いはなかった。父と、今なら向かい合えると思った。そして、真実を受け入れることが、今ならできると思えた・・・。

おわり