第三部
[十絶陣の戦い
下]
太公望が金鏊に入ってもう二日も経つが、まだ何の変化もなかった。太公望の緊張は皆にも伝わっていた。強敵ばかりで、味方の犠牲無しで済むとは思えなかった。また、玉鼎のように・・・・。分かっている事ではあるが、辛かった。これ以上、何かをなくすのが・・・・。
「落ち着いて。何も望ちゃん一人で全てを背負う必要はないよ。」
見かねてそう言った普賢にも、太公望は厳しい表情のままで答えた。
「・・・そうもゆかぬ!」
もう誰にも、玉鼎や、それを悲しむ楊戩のような者を出したくなかった。たとえそれが夢想であり、おごりであると分かりきってはいても。そんな気持ちを汲み取るかのように、普賢は昔と変わらない、やわらかい微笑みを太公望に向けつづけた。そしてとうとう現れた三つ目の十絶陣に入っていった。
『寒氷陣』の中は、足を踏み入れると、むせ返るような花で溢れていた。が、袁天君が現れたとたん花は枯れ、雪の大地が一面に広がった。戦おうとした太公望を普賢が止めた。普賢には分かっていた。太公望を死なせてはならない。帰りを待つ者、太公望を必要とする者たちがいるのだ。普賢はたとえ自分を犠牲にしてでも、太公望を送り届けたかった・・・。
袁天君が封神された頃、崑崙山では楊戩の診断結果が出ていた。うっすらと揺れる記憶の中で楊戩は、王天君を倒さねば助からぬことを聞いた。雲中子に与えられた仙桃エキスで少し体力が回復し、元始天尊と雲中子が部屋を出ると、楊戩は目を開き、何かを決心して天井を見つめた。
それからすぐ、崑崙の仙道がバタバタと倒れ始めた。黄巾力士に乗る太公望と普賢も、同じようにくらくらする頭を抱えてしゃがみこんでいた。何かおかしいと思い、ふと後ろの普賢を見た太公望はギクッとした。あの模様が、楊戩を消耗させている模様が、普賢の肩にも出ていたのだ。おそらくは自分もそうなっているのであろう。全てを悟った太公望は歯をぐっとかみしめた。どうして気づかなかったのか、不思議なほど状況が分かった。王天君のダニは、仙人界中に蔓延しているに違いなかった。そして太公望は王天君を探しに、弱る身体に鞭打って前進した。だが気力だけでは何ともならず、太公望は四不象にもたれかかり、ぐてーっとしていた。四不象が、
「御主人、やっぱり一度帰るっス!見ていられないっスよ!」
と言っても、
「いやだ!」
と言うばかりであった。
崑崙山では、水に守られた竜吉公主以外は皆倒れていた。原因は何であるのかと問う公主に、元始天尊はやむを得ず楊戩を見せようとした。が、しかし治療室には誰の姿も見られなかった。
「・・・・・・楊戩はどこ行った?」
そのことを知ってか知らずか、楊戩は回復しきらぬ身体を無理に動かし、三尖刀にもたれながら金鏊島に入っていった。
「行かないと・・・・!!僕が行かないと!!」
険しく前を見つめた楊戩の体はもう、完璧な人間の姿を保ってはいなかった。しかし体の消耗よりも、心の傷のほうがはるかに深かった。楊戩は、このまま王天君を太公望に任せておいてはいけないような気がした。あの者からは、何かいやな予感がしてくる。そんな者に、太公望を傷つけられたくなかった。そして何故かもうずっと昔からの、けりをつけなければならないような気がした。
王天君のダニでぐったりしている太公望のもとに、元始天尊から連絡があった。急いで他の者と合流しようとしていた太公望はすぐにその連絡を絶とうとした。が、次の元始天尊の一言が太公望の動きを一瞬奪った。
「楊戩がいなくなったのじゃ!」
「!!」
「探したが崑崙にはおらぬようじゃ。―――となれば・・・・」
「王天君の所ですな。」
元始天尊の言葉を継ぐように、太公望は言った。
「自分の師を目の前で殺され、あやつ自信の心の深い部分をむき出しにさせられたのです。さぞ王天君を憎んでおる事でしょうから・・・・」
太公望には、はっきりと楊戩の気持ちが分かった。同じ痛みを太公望は知っていた。60年前のその時、太公望には力も仲間もなかった。独りでは、何も出来なかった。そんな自分を憎く思って一体どれだけ堪えてきただろう。しかし今の楊戩にはそのどちらもがあった。たとえ自分が傷ついても、これから何をしようというのか、太公望には分かりすぎて苦しかった。
「太公望、楊戩を頼む!あやつは崑崙と金鏊の最後の絆となるやもしれんのじゃ!!」
そんな元始天尊の言葉に、太公望はぐっと前方を見据えた。これから自分の為すべき事は・・・
「言われずとも!」
どうにか金鏊に再び侵入し、二人の仲間と合流した楊戩は、すぐに姚天君と金光聖母の多重空間に捕われてしまった。落魂陣のはるか下に,王天君の姿があった。
「おまえは僕の全てを壊した・・・許さないぞ・・・・!!」
しかし王天君はすっと消え、落魂の光を浴びた哪吨も倒れた。いまだ険しい表情をしている楊戩に、一歩出て葦護はこう言った。
「俺はココロで人を見るタイプでね。そうすっと見えなかった本当の形も見えるものさ。」
その一言は,一瞬で楊戩の心を貫いた。
『そうだった。今まで自分は何を隠し、何を守っていたと言うのだろう。僕がどうであっても、師叔は全て受け止めてくれたではないか。忘れていたのだろうか、僕は・・・・・・。』
何か厚く目の前を遮っていた物が消えたような気がして、楊戩は少し笑った。
「普賢!楊戩が王天君の所に向かっているらしい!わしらも行くぞ!」
楊戩の身を案ずる太公望は、楊戩の後を追おうとした。
『わしが・・・わしが行かねば・・・・・・!』
その想いばかりが先走りする太公望には、周りを見る余裕がなかった。太公望には珍しい、いや、初めてのことだったかもしれない。そんな太公望の様子に驚きながらも、気持ちが伝わってきた普賢は、手に力を入れて顔をあげ、太公望を見た。
「・・・・・・望ちゃん!こんな時に楊戩一人のためにバタバタしてていいの?」
それは、楊戩を想う太公望にとって、あまりに重い一言であった。が、太公望をこのままにしておいては、楊戩だけでなく、皆この戦いの犠牲者となってしまう。太公望は皆の中心なのだ。そう考えた普賢は、あえてつらい言葉を続けた。
「崑崙山のエネルギーが空っぽになってる今・・・この黄巾力士は僕たちの力を使って動かしているんだけど・・・・、もう崑崙へ帰るくらいしか力が残っていないんだよ。」
「・・・・じゃあ、このまま楊戩を放っとけと?」
必死になる太公望に、優しい瞳を向け、普賢は続けた。
「楊戩が捕らえられたあたりから望ちゃんはおかしくなってる。失敗ばかりしているよ。」
確かにそのとおりであった。楊戩の為に必死になればなるほど、太公望は持ち前の冷静さを無くしていた。それが分かっていながらどうにもならない太公望は、何もいえずに黙って普賢を見た。太公望は、自分で自分が抑えられなくなりそうであった。
「戦いの規模が大きすぎて尻込みしてるんじゃないの?何とか誰も殺さずに勝ちたい・・・・と。虚栄心も大切だけど、今の望ちゃんにそれは不要でしょ?今は僕たちを犠牲にしてでも、この戦争を終結に導く・・・・・・それが求められている事さ。」
はっきり普賢にそう言われた太公望は、突然笑い出した。
『そうだった。楊戩は自分の戦いに出たのだ。自分は自分の為すべき事があったのだ。それを忘れるほど、あやつはわしの中におるのか・・・?』
そして太公望は聞仲に目標を変え、動力炉へと向かっていった。
葦護と哪吨が金光聖母を倒し、亜空間に降り立った時、楊戩はもう力を使い果たし、息もしていなかった。だがまだ魂魄は飛んでいなかった。何か違う空気が楊戩を取り囲んでいた。姚天君の空間をも破らんとしていた葦護と哪吨の前から、楊戩がいつの間にか消えていた。
楊戩は夢を見ていた。昔の、かすかな記憶・・・・
「いいかい楊戩、『悪人』に見つからないよう、ずっと人間でいなさい。」
「はい!言うことを聞いていい子にしてたら、お父様は迎えに来てくれるかなあ?」
――――――人間に化け続けるなんて、僕には簡単な事だった。人間社会において、嘘の自分でいることは、本当の自分をさらけ出すより楽だもの。ただしその代償として、師以外も誰にも心を開けなかったけど・・・・。心を開く必要もない。僕は一人で何でもできる。僕は全てを持っている・・・・・・。
でもあの日、僕は、あの人に会ってしまった。
あの人は人の心の中に入ってくる――。
誰をも信用させる何かがある。
そして、僕には無いものを沢山持っている。
僕は初めて他人に心を開きたいと思った。
この人なら、僕をわかってくれる・・・信じてくれる・・・・と。
でも、化ける事の達人となるほどに嘘の自分を作り上げてきた僕だ。そう簡単に言えるはずもない。
僕は妖怪です。妖怪なんです。
ふと目を開けると、楊戩はまだ生きていた。姿は妖怪に戻っていたが。しかし、今の楊戩に、そんな事はもうどうでもよかった。そこへ王天君が現れた。
「人間のフリなんかしてっから本当の実力を引き出せねえんだよ。」
その言葉に引かれるように、楊戩は通天教主の待つ部屋に入っていった。そこで王天君から告げられたこと―――楊戩がなぜ崑崙に預けられたのか、そして楊戩と交換に金鏊に預けられた子供の話―――も、楊戩の心を動かすことはできなかった。楊戩はそんな王天君を一視し、
「・・・・哀れなやつだな。」
と言い、三尖刀を振ろうとした。だが相手は王天君ではなく、もはや記憶すら失った通天教主の六魂幡であった。そのスーパー宝貝が一動し、球体は一瞬にしてことごとく破壊された。しかし楊戩は受けた傷から流れる血をぬぐうこともせず、通天教主を見上げ話し始めた。
「さすがです通天教主・・・・。僕を・・・憶えてますか・・・?一度お会いしたことがあるのですが・・・。50年前・・・僕が・・・自分の素性を知るために金鏊に侵入した時です・・・。」
「何用か?」
一人たたずむ通天教主の背後に近づく者がいた。
「・・・・崑崙の道士です。」
「・・・・よく来たな。―――して何のためにはるばると?」
「自分を・・・・自分を知るためです。僕の本当の父がここにいるはずです。あなたに父への伝言をお願いしたい。僕は人間です・・・・・・と。」
「・・・・伝えておこう。」
「そのとき僕は一人でした。そして自分から逃げていた。過去からも。しかし僕は太公望師叔たちと出会い、変わりつつあります。自分の弱さを他人にさらけ出すことが、本当の勇気なのだと知りました。だからこれからは、あなたからも自分からも逃げたくはない。」
そして楊戩は少しずつ通天教主に近づいていった。
「父上・・・・。あなたに伝えたい・・・・僕はこれからもずっと崑崙の見方です。・・・・でも・・・・妖怪です。」
その瞬間、通天教主の宝貝が音を立てて落ちた。記憶のなかったはずの心が近づき、六魂幡が暴走し始めた。
「な・・・・何だ・・・・!?」
背後からいきなり降ってきた『星』の音に、太公望は振り返った。普賢は、きっとあれは楊戩、通天教主の起したものだと言った。しかし太公望はわざとそちらから目を離した。今ここで楊戩の所に行ってはならない。楊戩は自分との決着を付けているのだから・・・・と。太公望は何故か、楊戩がもうすぐ戻ってくるように感じた。そしてひたすら動力炉を目指した。
楊戩がふと気が付くと、無傷で通天教主の宝貝の中にいた。
「僕を守ってくれた・・・・?」
そうつぶやいた楊戩の前に、瀕死の王天君が現れた。通天教主はお前が殺した、お前のせいだと言い、笑う王天君に、楊戩は静かにこう答えた。
「違うな・・・父上は最後に自分の誇りを守ったんだ。」
封神される瞬間にも、王天君は笑っていた。その笑いは、楊戩の胸に悪い予感を残して消えていった。楊戩の後ろで音がした。驚き近づいた楊戩が見たものは、まだ壊れた心のままの通天教主であった。
「父上?父上?!」
父の最期を悟った楊戩は、その体を支えていた手をすっと離した。そして通天教主は我が子の見守る中、封神されたのであった。
「よーぜーん、よーぜーん。」
壊れた星の上で、葦護と哪吨が大声で楊戩を探していた。しばらくすると、一つの星の影から、完全に回復し、人間の姿に戻った楊戩が現れた。
「楊戩!」
「ああ大丈夫!心配かけたね。」
そして楊戩は優しく目を閉じた。
「さあ、みんなヘトヘトだ。いったん帰ろう!僕らの家、崑崙山へ!」
『そして、太公望師叔のもとへ・・・・・・。師叔、僕は帰ってきました・・・・。』
その頃、残りの十天君も、雲霄三姉妹によって封神されていた。全ては聞仲の思惑どうりに。そしてついに聞仲は立ち上がった。
「機は熟した。出るぞ黒麒麟!」
聞仲の不敵な笑みと共に、新たな戦いが幕を開けた。
続く。
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