朝霧

周の城が白い霧に覆われ、朝日が差そうとしていた。今日、太公望たち仙道は、人間界を離れる。太公望と楊戩が周で何の憂いもなく暮らせた、わずかで幸せな夜の最後が明けた。部屋を出、城の近くの野に二人は立っていた。太公望は、薄れ往く霧とまだ見えぬ朝日を見つめているかのように、楊戩に背を向け無言で立っていた。楊戩はこんなに近いのに手が差し伸べられない自分に戸惑い、昨夜とは全く違う、近寄り難い太公望の背を切なく見つめていた。

 長い沈黙のあと、先に口を開いたのは太公望であった。
「楊戩、おぬしにはこの春が美しいか。」
一瞬返事に迷った楊戩は、太公望のその一言が、今まで憎んできた強大な相手が―――憎むことで自分を生かしてくれたその国が―――滅びた事への何ともし難い気持ちから滲み出ているのだと知り、優しさを口調ににじませゆっくりと答えた。
「まもなく夏が来ます。それだけに去らんとする春はより美しいものです。」
「そうか。」
「あなたも僕も、ひとつの春、ひとつの花のようなものかもしれません。」
太公望の背があまりに哀しげに見えた楊戩は、思わずそう言った。しかし太公望はまだ遠くを見つめ、こう言っただけであった。
「春はくりかえさん…か。」
「同じ花はないように、同じ春もありません。」
「そうか。」
口を閉じた太公望は、やっと楊戩の方を向いて、寂しげな笑いを浮かべた。
「花が咲いても実をつけるかどうかは秋にならんと分からぬ。わしらはその秋を見ることなく散ってゆく。」
それを聞いた楊戩は、太公望がこの朝霧にさらわれてゆき、共に消えてしまうのではないかと思った。眉宇に何ともいえぬ哀しさを現した楊戩に、太公望は何を言われたわけでもないのにこう言った。
「心配するな。わしは死にはせん。」
もう一度微笑を浮かべた太公望に楊戩は駆け寄った。そしてその小さな身体を、霧で少し湿った愛らしい道服の上から抱きしめた。
「僕もです。僕もそう思って今を懸命に生きようとしているのですから。・・・なので・・・あなたも生きてください。」
それはどこから来るとも分からない、不安が楊戩に言わせた言葉であった。強く抱かれた太公望はふっと笑い、手を楊戩の胸に当てて身体を少し離した。そのまま太公望は目を上げて、晩春の空を見た。
「おぬしは、強くなった。」
桃の蕾に似たかたちの雲がながれてゆく。その雲が流れてゆく方角に仙人界の落下地点がある。また手の届かなくなった太公望を、楊戩は見つめるしか出来なかった。しかし今度は太公望が振り返った。今までとは別人のような、明るく晴れやかな笑顔だった。
「さあ、ゆくぞ楊戩。」
そうして差し出された手に、楊戩の瞳が潤みそうになった。もはや霧は晴れ、草木が露に濡れ、少し高く昇り始めた朝日に、幾千もの輝きを見せた。
「はい、行きましょう。太公望師叔。」
手を取った楊戩の目にも、どこか煌めくものがあった。
 今日もよく晴れわたりそうな、空が見えていた・・・・・・。

おわり