abhorrence

 

人を動かす一番強い気持ちは憎悪であるという。

 彼の場合もそうであった。「はじめの人」であるころは女媧への、呂望となってからは時代への憎悪が彼を動かした。楊戩にも、それは身をもって理解している事である。他人から受け入れられず、またそれを受け入れようとしないでいる努力を生んだのは、やはり歪んだ憎悪であった。「天才」と呼ばれる所以も、やはりそこから来ているのかもしれなかった。楊戩には彼の心が透けるように見えた。何とはなしに、心の底から湧き出る感情に、自分が自分でなくなるような感覚に襲われる。どうしようもないその瞬間、自分の心はその激情の渦と対峙する様に凍てつく。いつの間にかそうした自分の心でさえ、どこか遠くから見ているような感覚に陥り、自分のいるところは闇に沈む。決して誰にも悟らせない。光の入り込む余地のない暗さは、静寂となって孤独を際立たせる。  

「僕は、不安と憎悪に満ちたあの人を見てしまったのです。」
不思議な言い方だった。
『・・・鋭い事を言う。』
普賢は驚嘆した。彼がこの男に心惹かれているらしい事は知ってはいたが。この二人が語る事は少なかった。彼に魅せられる者同士であるからなのか、常に遠ざかっていた。戦いが始まりを告げると、普賢は自分の運命を感じ取っていた。そして、必ず残されるであろう彼を、守り続ける存在を無意識のうちに探していたのかもしれなかった。彼は自己に対して想像もつかぬほどの厳しさを持っている。しかし回りには心を砕き、色濃い優しさを溢れさせる。だが楊戩に遭った彼はそのどちらでもない本当の自分というものをさらけ出したのであろう。もしかすると、彼の孤独を叫ぶ声なき声の問いかけに、楊戩は身をもって応えたのかもしれなかった。
『・・・これだから望ちゃんは彼に惹かれたのか・・・』
ふと、普賢の目に涙が湧いた。彼が去ってゆくと全身で感じた。そんな気配を悟らせぬよう、普賢は後ろを向いた。
「そう。」
そして小さく呟いた。
「・・・・ありがとう。よろしくね。」
だから、彼のために死ねたのかもしれなかった。
「頼んだよ、楊戩。」
 

 二人は似ていたのかもしれなかった。過去と今とに縛られ、自分自身を存在として見出す事もなかった。いや、むしろ彼は自分を消そうとしていたのかもしれなかった。側でどんなに楊戩がその存在を確かめても、彼は意思を崩すことなくただ身を任せていた。楊戩には分かっていた。彼がどんなにその気持ちを否定し、避け、見ないようにしていても、楊戩が触れ抱きしめるたび、また唇を重ねるたび、楊戩への愛は深まっていく事を。

 身体を重ねるように楊戩は彼をそっと包み、髪に触れた。彼はそんな楊戩の瞳を深く哀しい色だと思った。その優しく触れる手も、強い口付けにも彼は揺れていた。愛―――と呼ぶにはあまりにも強すぎるこの気持ちと憎悪を見比べては、この場から逃げ出したくなっていた。それほどまでに魅かれ合い、焦がれあっても、彼は自分の価値を認めようとはしなかった。これ以上自分が楊戩を求めては、憎悪する意味、残された理由、生きてゆかねばならない訳を全て手放してしまうと感じていたから、認めてはならなかった。楊戩の手が彼に触れる一刹那、彼の表情が絶望と後悔に彩られる事を楊戩は知っていた。

 暗い闇の中で、彼は突如身震いするほどの憎悪に襲われた。足元から自分が崩れてゆくのを感じた。しかし、目を固く瞑りそっと開くとそこには見慣れた腕と、長い楊戩の髪があった。彼の身体に回された手は、眠っていても尚しっかりと彼を捉えて離さなかった。彼には楊戩が彼をここに留めさせるためにそうしているように思えた。一気に安堵の感が溢れ、胸を締め付けるような感覚が彼の中を走った。もう一度目を閉じても、もうあの恐ろしい思いは湧きあがっては来なかった。楊戩の暖かさが、彼の体温を彼に思い出させた。

 彼は一瞬、この幸福に涙が流れそうになった。しかしそっと上を向いてそれを留めた。幸せに泣くなど、少し恥ずかしいと思ったのだ。そして彼は再び楊戩の腕の中に戻り、手を重ねた。彼は驚いた。今まで幾度となく触れられ、求められてきたはずなのに、自分からそうする事がこんなにも温かいという事に。こんな思いを知られたくなさに、彼はすぐにその手を離した。が、遅かった。もう彼の上にはあの優しい微笑みが降り注がれていた。彼は自分の顔が火照るのを止める事が出来なかった。

 憎悪は消える事はなかったが、彼は自分の中に憎悪より遥かに大きな感情が宿っていた事を、ほんの少し認めようとした。楊戩に愛されていると感ずる時、彼は至上の喜びさえ感じるようになった。彼は、自分の存在でさえも、少し嬉しいと思えるようになった。このまま二人で生きてゆけるのなら・・・と。

おわり