紅蒼5 〜きっかけが前田からやって来た〜
忍を残し、伊達の者から申し出された共の者も連れず、幸村は城が見渡せる、城の背後にある山の沢まで歩いて来た。空は快晴、遥か高く鳶は鳴き、沢の水はどこまでも清らかだった。全くもって気持ちの良い天候に、澱む気持ちは見事に不釣合いだった。余りに周りの景色ばかりが美しく、幸村は無性に暴れたくなった。こう言う時こそ、お館様より賜った紅き二槍を持って思う存分闘いたかった。
「斯様に胸が滾っておるのに・・・どうしてここは戦場ではないのだ・・・」
そんな事を呟いてしまう辺りが戦馬鹿と囁かれる所以なのだが、そんな事を気にかける余裕は幸村にはなかった。
「うおぉぉおおぉー!」
思わず心の声が漏れて城に向かって大声で叫んでしまった幸村の頭上の木から、ドサァッと何か大きく重いものが落ちてきた。
「いってー!何だ、何だ!?」
「キィッ!」
「な・・・な・・・!」
突然の事に驚いて、それでも咄嗟に落下物からは飛び退き、思わず懐の刀を握ってしまった幸村が殺気を放つと、大きなものは、何か小さいものと一緒の動作で、頭を抱えてぼやいた。
「今、何かとんでもないでっかい気を放った奴がいたよな。しかもすげー殺気。俺そんな悪い事したか、夢吉?」
「キキッ!」
「だよなぁ、俺たち、ただ昼寝してただけだもんなぁ。びっくりして落ちちまったよ。」
落ちてきたそれが無害そうな目をした大きな男と小さな猿の組み合わせと分かり、幸村はゆっくりと刀から手を離した。
男は何か祭でもあるのかと言う様な珍妙な格好をした、それでも隠せぬ何かを纏った美丈夫であった。殺気はなく、ただ人好きのする顔と大きな目をくるくるさせて尻餅をついたまま、小さな猿、夢吉と一緒に幸村を見上げた。
「・・・それはあいすまぬ。大丈夫でござるか?」
男の余りにあっけらかんとした表情に毒気も抜かれ、幸村は生来のお人よしさも手伝って、男に手を伸ばした。
「おっ、すまないねぇ。よっと。」
幸村の手をぐいっと掴んで反動をつけて立ち上がった男は、かなり大降りの刀を背負っていた。見た所、その動作、そして掌の感触、それら全てがこの男が相当の手練である事を指し示していた。しかし、まるでそこからは戦いの気配がせず、にこにことした笑顔には裏も見えなかった。それ故、幸村は目の前にいる存在が強い者であると認識したにも拘らず、あっと言う間に警戒心までもを解いていた。
「俺は前田慶次ってんだ。こいつは夢吉。」
「キッ!」
「共々よろしくな。あんた、伊達の人かい?」
「いや、某、真田幸村と申す。そなたが、前田の風来坊・・・なるほど、確かに風に聞く通りの。」
ぶんぶんと手を握って振りつつ調子良く話す慶次につられ、思わず名乗った幸村をまじまじと見つめ、慶次は少し考える仕草をした。肩では夢吉が同じように腕を組んで首を傾げていた。そしてしばらく幸村の顔を見ていたと思ったら、ぱっと何かを思い出して顔を輝かせた。
「さなだ・・・どっかで聞いたよなぁ、夢吉。・・・真田!あぁ!甲斐の紅い若虎か!」
「まあ、左様に呼ぶ御仁もおられるが。」
「そっかそっか、あんたが真田幸村か!うんうん、戦装束じゃないと分かんないもんだな。そんでその若虎が何で奥州にいるんだい・・・って、おっと、そんな事聞くなんて野暮な事、俺はしないよ。いやしかし良い男だ。さっきの気といい、うん。独眼竜が執心するのも頷けるよ。な、夢吉。」
「キキッ!」
「ま・・・政宗殿が・・・」
「そ、俺ちょっと伝手があってさ。たまに会うんだけど、アンタの話ばっかりだ。」
そう言うと、慶次はどっかりと地に腰を据えて政宗の居城を見下ろした。
「そうでござるか・・・」
自覚はあった。戦場であいまみえる政宗から自分と同じ気を受け取る度、この滾る気持ちは自分ものもだけではないと分かってはいた。それでも、人から聞かされるのと自分で感じ取るのは全く別物だと、幸村は実感した。そしてそれを当たり前のように納得している慶次がそこにはいた。
「まあ、あんたもちょっくら座りなよ。あんた・・・えっと、幸?」
「某の名は幸ではござらぬ。幸村と申したが。」
「まあ、細かい事なんてどうでもいいじゃねぇか。それより、あんた何か煮詰まってたみたいに見えるけど・・・団子でも食べる?」
「・・・うむ。」
決して慶次が懐から出した団子に釣られる訳ではないと、自分に言い聞かせて幸村は慶次の隣にやや間を空けて腰を下ろした。そして同じように政宗が今もいるであろう居城を見下ろし、そして微かに溜息をついた。
「某、困っておりまする。」
「ふんふん。」
どうしてか、幸村はこの前田の風来坊に今の正直な気持ちを話そうという気になっていた。それは慶次の持ち前の懐の深さからなのか、夢吉を連れている事で和らいだ何かの印象からなのか。それとも単に、幸村が見知らぬ誰かに心の裡を聞いて欲しかっただけなのかもしれなかった。まあそれでもいいと、幸村は半ば自棄になって、ちょっといびつな形になってしまった団子を頬張りつつ、身の裡に巣食う何物かについて言葉を続けた。
「某、とあるお方の事を考えると、居ても立ってもおられなくなるのでござる。」
「へえ、それはどんな風にだい。」
「それはもう、何かが胸の裡から溢れそうになるのでござる。何物か分からぬ何かが身体の中から湧き上がり、熱くて心の臓が溶け出しそうになり申す。例えそのお方がそこにおられずとも、そこにいつの時にかおられたかと思うだけで、肌が痺れるようになり・・・」
そう言いながら、幸村は思わずと言った風に右手でぎゅうっと胸の辺りの着物の袷を握り締めた。眉は強く寄せられ、その目は城に向けられたまま切なげに細められ、しかしどこか恍惚とした光を湛えていた。
「そうか、分かった。」
「何と!前田殿は某の拙き言葉でこの気持ちの出所が分かったと申されるか!それは何であろうか!是非とも!是非ともお教え頂きたく!」
思わず幸村が自分よりも身幅の大きい慶次の肩に掴みかかり揺さ振ると、慶次は笑いながらそれを諌めた。
「分かった、分かったから、落ち着きなよ。」
「はっ!すまぬ。つい、取り乱してしもうた。それで、これは如何なる物にござるか。」
「簡単な話さ。あんた、そいつに恋してるのさ。」
「こ・・・何と!破廉恥な!某、そのようなつもりでは・・・!」
「でも、あんたはそいつの事を考えると熱くなるんだろ?」
「左様。」
「もうどうしようもなく心が滾るんだろう?」
「まさしく。」
「そいつの目が真っ直ぐ見られなくなったり、訳も分からず顔が赤くなっちまったりするんだろ?」
「ど、どうして斯様な事までお分かりになられるのかっ!」
「そんなの恋しちまったからに決まってるだろ。誰だって、恋すりゃそうなるのさ。」
「しかし、そ・・・某・・・」
ぐるぐる回る頭がボンッと音を立てて沸騰したのが聞こえるくらいの勢いで、幸村はこれ以上ない程に真っ赤になった。そして食べかけの団子を放り出し、
「知らぬ!知らぬぅううーーー!」
と叫び、土煙を上げて慶次の元から猛烈な勢いで走り去った。
「あーあー、独眼竜もホント、惚れられちまってるもんだな。あんた達の幸せを、俺は願うよ。あんた達が何者にも阻まれず、恋し恋される日を。願わくは、武田と伊達も争わぬ日が来る事を・・・だな、夢吉。」
「キィ。」
あっと言う間に遠ざかっていく幸村の後姿を見つめながら、呟いた慶次の言葉は風に乗って奥州の空に溶けた。
つづく
|