君の為の食育



「ただいまー………ん?」
家に帰ってくるなり、俺は少し眉根を寄せた。
――何だ、この匂い。






【5.煙】






ラーメン屋と小児科医では、当然だが休暇の日数が違う。どちらも働いている場所の定休日が違うし、何より新米小児科医の俺は休日も大学病院にかり出されたり研修があったりして休みはまずないと言っても過言ではなかった。
だから、岩崎が休みで俺が休みでない時は、自然と岩崎が部屋にやってきて家事をやってくれるようになっていた。流石に通い妻みたいだからやめてくれと言ったのだが、実際疲れて余り何をする気も起きない俺には強く拒否できる力はなかった。下着だけは自分で洗うから、というのが精一杯という具合だ。
そして今日も岩崎は部屋に来ている。事前にメールや口頭でスケジュールを教えあっているから、その点ではミスコミュニケーションは起こっていない。付き合い始めて半年も経っていないのにこんなに熟した関係を築いてしまっていいのだろうか、と思ったのだが、かといってマンネリというわけでもないからそれについて深く考えることはやめにした。

「おう、お帰り」
玄関からリビングへ向うと、キッチンカウンターから岩崎がひょいっと顔を出して迎えてくれる。キッチンから出てきて抱きしめられない時は、手が料理で忙しいという証拠だ。最近は俺が帰る時間に合わせて料理を作っているから、こうして夫婦じみたやりとりをすることが多い。…夫婦じみた、なんて自分で言っておきながら何だか微妙な感じがするが。
「ただいま。…今日はうどん?」
「おう、稲庭」
短く返事をして、岩崎は手際よく麺の水切りをした。流石ラーメン屋だけあって麺類の扱いは手馴れている。この間カレー南蛮蕎麦を食べたときも、ダシとカレーと蕎麦が見事に調和していたな、等と考えながら俺は鞄を部屋に置きに行った。
ネクタイを外しながら、洗面所まで向かって手洗いとうがいを済ませる。日々病気と闘うものとして、最低限の風邪予防は必須だ。病院を出るときにも予防のために色々してくるのだが、帰ってきてからもしないと気がすまなかった。この頃はきちんと医学的にも手洗いうがいは効果があるとTVでも言われているのに守らない人間が多すぎる、そんな事を考えながらリビングへ戻る。
リビングダイニングになっている部屋は、1人では若干広いが、大の男二人だと調度良いか少し手狭な感じだ。
「食べられるぞ」
「ああ。いただきます」
「どうぞ」
座りながら手を合わせると、その仕草を見てか岩崎が笑った。こいつは俺のどこを好きなのか未だによく解らない事が多くて、それだけに訳もない行動でこういう表情をされると俺は思わずどきりとしてしまう。
稲庭うどんは冷たくて喉越しがよく、疲れた体にはとてもよかった。食卓には他にも春巻きや何やらがあって、岩崎がついでに店用のメニュー作りもしているのだろうか、とちょっと思う。
卸ししょうがを汁に入れながら他愛無い話をしていると、ふと、先ほど玄関で嗅いだような匂いが岩崎からもすることに気がついた。
思わず、まじまじと岩崎を見詰めてしまう。
「ん、どうかしたか?」
「…いや…今日、どこか行ったのか?」
すっと鼻先を岩崎の方へ近づけつつ言うと、奴は身を乗り出して俺の頬に唇を寄せてきた。ちゅっとかわいらしい音を立てるものだから、思わず赤面してイスの背に勢いよく上体が引いてしまう。不覚。
「やっぱばれちまうか」
「ば、ばれるってお前…食事中にはこういうことをするなって言ってるだろ!」
「折角2人きりで、帰ってきたばかりの祐悟が俺の作ったメシ食ってくれてるんだぜ、キスしないほうがおかしい」
「お前の変な持論が俺にも通用すると思うな。…はぐらかそうったって無駄だぞ」
「別にはぐらかしてなんてねぇよ。煙草の匂いだろ、お前が言ってるのって」
「煙草?」
そういわれればそうかもしれないと思って俺はもう一度岩崎の匂いを確かめようとしたが、またキスされそうなので途中で身を引いた。チ、と奴が舌打ちする。行儀が悪いので次やったら小突こう。
「…ああ、今日久し振りに昔のダチと会って」
面倒くさそうにだがとりあえず話してくれるらしい岩崎は、ビールを片手に言い始めた。
「会って、って同窓会みたいなものか?」
「あーまあそんなもんか。5人くらいだったから大したもんじゃねえけど。で、そこで何人か煙草吸ってたからすっかり匂いがついちまって」
一応消そうとは努力したらしく、手で自分を扇ぐようにしながら岩崎は苦い顔をした。
「料理人なのに煙草吸うのか?」
「や、高校の頃からの付き合いだからな。ホテルマンとかも居るんだぜ、就職なんかしたくねえって昔話してた仲なのに、よくもまあこんな変わるもんだって感じで」
「そうか。…色んなところに友達がいるのは羨ましいな」
ぼそ、と思わず言葉が漏れてしまって俺はハッとした。しまった、こんな嫌味っぽいことを言うつもりは毛頭なかったのに。
いくら付き合っていて、こうして半同棲のような暮らしをしているとはいえ、俺は岩崎の事を余りよく知らない。俺は意外とこいつには家族の事だとか色々話してはいるが、俺がこいつについて知ってる事といえば、大家族の次男坊できちんと調理学校を卒業していて資格をいくつか持っていることくらいだ。他には好きな食べ物とか、そういう些細な事だけであって交友関係に関しては全く知らないといっても過言ではない。まあそれはお互いに言ってないことだし、別に言わなくてもいいことだとは思っているのだが。だが。
――寂しいとか、そういうことじゃないけどな
知らなくて悔しい、という思いなのだろうか、これは。
岩崎が口を開くまでの数秒間でここまで考えてしまった自分の頭が恨めしくて、思わず渋い顔になる。
「おい、そんな可愛い顔すんなって」
「かっ…?!」
自分では随分と醜い顔をしていたように思うのに、それを何だってこいつは可愛いなどと形容できるのだろうか。
「そんな顔しなくても、お前が知りてえってことがあるんだったら、俺、何でも言うぜ?」
「ば…っ、馬鹿な事言うなよ!俺はそこまで干渉しいじゃないぞ」
「へーえ」
つるり、と最後の麺を飲み込んで、岩崎はもの言いたげな目線を寄越す。普段が開けっぴろげなだけに、目だけで物を言われるとどうしたらいいのか解らなかった。
「…なんだよ」
「別に。俺としちゃ付き合ってる相手に対して干渉、とかいう言葉はなんつーか妥当じゃねえ気がして」
「誰にだってプライバシーとかあるだろう」
自分以外は皆他人なのだ、と言いはしないが思っている俺にとって、岩崎のその言葉は意外だった。岩崎だってオープンではあるが暴露性ではないから、そういう所は大切にしているのだろうと勝手に決め付けていたのだ。
「プライバシーなあ。…ま、俺は祐悟に隠し事なんてしねぇよ。その代わりお前にも…って思ったけど、そこはお前の好きにすりゃあいい」
「好きにって…」
「お前が嫌だっていう事をわざわざやったって、楽しい訳ねえから」
「…………」
――驚いた。
というか、ときめいた、と少女らしく表現するべきだろうか。思いがけなく心臓が高鳴ってしまった。
そんな状態をごまかすこともできずただ硬直してしまった俺を見て、やっぱり岩崎が怪訝そうに眉根を寄せる。
「なんだよ」
「…お前はもっとガキ大将みたいな奴だと思ってた」
「はぁ?」
「何と言うか、好きな子は苛めるとかさ」
「そんな事はしねぇよ」
「実際俺もされたことないけど。でも、してもおかしくなさそうだからさっきの言葉聞いて驚いたんだよ」
「なんだ、俺に胸キュンとかって訳じゃねえのか」
――その語彙はどこからきてるんだ。
噴出しそうになるのを必死で堪えて、よしよしと岩崎の頭を撫でてやることにした。
「ガキじゃねえんだから、んなことすんなよ」
「…胸キュンかどうかは解らないけど。食べ終わってお前のその煙草臭いのが落ちたら、今日は結構頑張ってやってもいいぞ」
「!」
我ながらかなり上からものを見た言い方だと思ったのだが、それでも岩崎には効果絶大のようだった。最近俺も疲れてて夜は眠るだけだったし、と内心で言い訳をしつつ、俺は目の前で俄然食べるスピードを速くした岩崎を、目を細めて見詰めていた。