君の為の食育



「ずいぶん顔のツヤが良くなったね。いい休暇になったかい?」

――広瀬院長にそういわれて、俺は自分の顔が真っ赤になったような気がした。






【3.艶】






いくら俺の勤めている広瀬小児科が街で人気の小児科医院だとしても、数日のお盆休暇というものはあるもので、俺は自分の休診日と合わせて3連休が取れるように申請をしていた。3日だけでもまとめて休みが取れたのは久し振りだったので俺は取れた瞬間思わず小さなガッツポーズをしてしまった。この間風邪をこじらせてしまった蓮君だとか診ている患者の容態も気にはなったが、そこまで深刻になるほどのものもないからきっと平気だろう。大体、こんな都会の街中に住んでいる人達だったら、お盆は子供を連れて実家に帰っているもんだ。俺がいなくてもきっと平気だ。
そこまで言い聞かせないとどうにも白衣を脱ぐのも躊躇われてしまうのは、休みよりも医療従事の方向に心が傾いているからだろう。だが、ガッツポーズをとってしまうくらいに、体は休みを欲している。

「いらっしゃいませー!わー園田センセお久し振り!なーんかゴキゲン?」

もう既に常連リストに加わってしまった丹生麺屋の暖簾をくぐると、池田ちゃんが滑舌がいいのに間延びした声で迎えてくれた。
「久し振り。顔に出てたかな、ついに休みがとれたんだ」
「そっりゃーお盆だもん取れないほうがおかしいってー。でもおめでとうございます!予定入れてるの?」
「墓参りだけだよ」
苦笑しながらそういうと、池田ちゃんがそっかーと何だか残念そうな顔をした。何を期待していたのかはさっぱりわからないが、とりあえず「疲れを癒すための休暇だからね」ともっともらしく付け足しておく。
「そーですよねー。あ、園田センセ何食べますー?」
「野菜炒め定食、玉子スープで」
「はーい。野菜いっちょー」
今日も俺以外に客の見えない店内で、池田ちゃんが元気に注文を厨房へ送った。
この店のいい所は脂っこいものばかり置いてあるわけじゃないという所だ。店長が研究熱心なのかそれとも岩崎の試みなのか、あっさり中華セットなんてものもある。そうでもないときっと通ってはいなかったな、とお冷を頂きながら考えた。
「岩崎は?また出前?」
「そうでーす。この時間帯はちょっと遠くの高校の出前の回収にいっててー」
「へえ」
それは初耳だった。出前帰りの岩崎を迎えるのは珍しい事ではないが、それが出しに行くのか取りに行くのか、そういった細かい事は聞いていなかったのだ。別にそれを知らないからと言って遺憾に思ったり悔しくおもったりすることはないのだが、知る事は嬉しい。

――知りたくない事もあるけど

そう思って溜息をつくと、池田ちゃんが「あれ、今日の脂っこかった?」と聞いてくる。
「あ、いや。そんなことはないよ」
「じゃー何か悩み事ー?今日園田センセ午後ないって知ってるから問い詰めちゃいますよー」
「まいったな」
あはは、と笑いながら野菜炒めとご飯を食べるのだが、俺は内心ちょっと焦っていた。池田ちゃんの敬語とタメ口が混じった口調は独特で、いつもペースを狂わされてしまう。それで何度口を滑らしたことか。池田ちゃんは誰にでも何でも話すような子ではないから助かってはいるものの、俺と岩崎の2人だけの時は容赦なくそれをからかいの種にする。俺にとってはちょっとした恐怖だ。
「あんま園田をいじめてんなよ池田」
――まるで正義のヒーロー
そんな大層なものではないのだが、俺にとってその時、とてもタイミングよく戻ってきた岩崎のその言葉はヒーローといっても過言ではなかった。
「お岩さんおかえりなさーい。嫌だー私いじめてなんかいませんよーぅ。普段園田センセのこといじめてるのはお岩さんのくせにー」
「まだいじめてねえよ、そこまでマンネリしてねぇっての」
「岩崎…」
前言撤回。岩崎は俺と池田ちゃんの間の壁になってはくれるが、隠し事をしようとする気配は全くない。実際『聞かれたら答える』というスタンスの岩崎に、何を隠してくれというのも結構な労力を要する。…無理に隠されるよりはいいかもしれないけどな。
「ん?どうした園田。木耳まずかったか?」
「いや、木耳は美味い。でもな、そう何でも池田ちゃんに言うなよ」
岩崎は何で、というような表情をした。この野性味溢れるラーメン屋は、人に隠し事をするということを知らないらしい。
「何だか解らんが一応了解しとく。要はおしゃべりになるな、っつーことだろ」
「それでいい」
「なーんか、ほんっとお岩さんと園田センセって仲良くなっちゃったんですね」
あーあ、とおおげさな溜息をつきながら池田ちゃんがいう。
俺は、誤魔化すように野菜炒めをかっこんだ。

「じゃあ岩崎、あがったら連絡寄越せよ。荷物もうまとめてあるんだろうな」
勢いよくごちそうさま、と言って俺は金を払いながら岩崎に確認した。
この男は、何を考えてるのかは知らんが俺の墓参りについてきたいとぬかしたのだ。叔父の所に挨拶に行ってる間は消えてるから、と言って。まぁ俺も高速を1人で走っていくだけの気力はないから、嬉しくないわけじゃなかったが。
「当然。そのままどっか温泉とか行かねぇ?」
「何いってんだ、俺の休みは3日しかないんだぞ」
「マジかよ」
「大マジだ。嘘ついてどうなる。ここは一週間あるんだっけ?じゃあ俺が仕事してる間お前には主夫業の経験でもしてもらおうか」
そこまで早口で言った後、俺はしまった、と口を押さえた。
しかし、時既に遅し。
「…いいな、それ」
にやっと笑った岩崎から、逃げるように俺は店を後にした。


…実の所を言えば、あの現実逃避事件から俺達の関係は全く進展していない。
お互いの癖だとかそういうのは、急に全部理解できるとは思っていないから、これ位遅くったって何も不思議だとは思わないが。
――あの夜だって
俺は荷物を車のトランクに入れながら、俺はその時の事を思い出す。俺の体を気遣ってか、それとも単に用意ができていなかったかは解らないが、あいつは最後までしなかった。…というか、されてたらきっと俺は死んでた。
だから初めはあいつの優しさが結構嬉しかったりもしたのだが、後々になってから考えると、どうにもあいつに我慢ばかりさせているような気がしてならない。それはかわいそうだ。それが解ってるのにさらに我慢させようとかしている俺も大概ずるい男ではあると思う。
――でも、な
一緒に墓参りには行きづらい。これは相手が男だろうと女だろうと変わらない気恥ずかしさだ。
それでも、断われはしないのだ。嬉しさが勝っているのだから。





「しっかし、ほんっと熱い所だなここ。本当に東北か?」
「お前、それ今日何度言ったと思ってる」
「直射日光遮るものがねぇとどこでも暑いんだな。山の上に墓地って凄ぇ」
「頂上じゃないだろ。ほら、水」
「はいよ」
――墓参りの先は東北、叔父夫婦が実家を引き継いでいるので俺の地元ではない。祖父母は俺の両親と一緒に暮らしていて、両親が死んでからもそこから引っ越そう、とは言わなかった。
ここに来る度、祖父母が生前冗談めかして言ってた「お墓は静かな所がいい」という言葉を思い出す。確かに、ここは静かで気持ちが良い。1人で考える場所としては最適だ、とも思う。
――だが、今年は1人じゃない。
墓周りを叔父夫婦の代わりに綺麗にした後、俺は線香をあげながら後ろに立つ男を見る。視線に気づいて、岩崎はにっと笑った。
「…いいトコだな」
「…ああ」
ふっと自分の顔が笑んだのが判って、恥ずかしさに居たたまれず俺は墓石と向き合った。
言うべきことは沢山あると思ったけど、いざとなると何からどういえば良いのかさっぱりだ。考えておかないと、とこの間決めたのに。
――とりあえず、元気です。後ろの男のおかげで、食べない、ということはありません。…だから、心配しないで元気で居てください。
むしろ自分がちゃんと元気でいられるように見ていてください、とでも言うのが正しいのかもしれなかったが、俺は元気な祖父母が大好きだったからこういわずには居られなかった。
俺が立つと共に、すっと岩崎が手を合わせる。
…なんでこいつは、こんな、知り合って間もない男の親族に向かってこれ程真剣に手を合わせられるのか。
俺にはそれが不思議でならなかった。でも、これが岩崎諒二という男なのだといわれれば、それで納得できてしまう自分も居た。
「うし。あ、お前が居たいだけ居ろよ。俺は車んトコ戻って茶飲んでっから」
「…わかった。…岩崎」
「ん?」
俺と墓石に背を向けて歩き始める岩崎を呼び止める。
「ありがとうな」
「おうよ」
間もロマンも恥ずかしさもへったくれもない笑顔で短く答えて、岩崎はまた広い背中を俺に見せながら坂を下りていった。
俺は、その背中が完全に視界から消えるのを待って、それから祖父母の眠る…いや、もしかしたら立っているのかもしれないが…墓に向き合った。
蝋燭の火が消えていたので、俺は「またね」と子供っぽく言って、坂を下りた。


その後、俺が叔父夫婦の家に寄って仏壇を拝み、世間話もそこそこに俺は帰ることにした。普段から彼らの家に泊まることがないので、いつもより早く退散しようとしても「あんまり無理はするなよ」とか、そういう事を言われるだけで済んだ。俺は決して彼らが嫌いではないが、俺にとって彼らはただの親戚の位置から動く事がない。
外に出れば、岩崎が近所の少年に蝉の取り方を教えていた。こんな田舎だと、岩崎みたいな若い男がそうやって子供と話しているというのは奇妙以外の何ものでもない。
「岩崎。待たせたな」
少年が虫取り網をぶんぶんと振りながら去っていったのを見届けてから、俺は呼びかけた。
「お、早かったじゃねぇか」
「蝉なんて捕れるのか、お前」
助手席に乗りながら聞くと、運転席につきシートベルトを締める岩崎の顔が得意げになる。
「勿論。俺もやんちゃなガキだったんだよ」
「だろうな」
そんな他愛のない話をしながら、車は走り出した。一度見た道は殆ど覚える、といった通り、初めての道でも岩崎は非常にスムーズな運転を見せてくれた。
「祐悟」
「何だ」
「温泉よらねぇか」
「空いてるところがあったらな」
「任せとけ」
そう言って、岩崎は高速道路に入った。
ささやかなキスを、俺の唇に落とす事を忘れずに。









「園田君はよくやってくれてるから、たまの休暇でしっかり体を休めてもらわないと割に合わないからね」

――休み明け。俺はいつものように広瀬院長との簡単なミーティングをした。

医者という職業の者が、割に合うか合わないかということについて話すのは非常に不毛なことだ、と思いながら俺は院長の、何でも知っているよとでもいわんばかりの笑顔と腰のだるさと戦っていた。
「はい、おかげさまで休み中に食生活の改善ができました」
「そうかい、それは何よりだ。じゃ、今日も頑張ろうか」
「はい、失礼します」
広瀬院長の診察室を後にしてから、俺は盛大な溜息をついた。

確かに、顔のツヤはよくなったと思う。今週一杯は岩崎が休みなので俺の家に居座って料理だのその他家事を率先してやってくれているから、色んなストレスから解放されているのだ。
…だが。

「あっら園田先生どうされました?」
「え、いえなんでも」
看護婦の中でも噂好きの谷口さんが、カルテの山を持って俺に話しかけてきた。この人の注射の腕は認めるが、口数の多さはちょっと遠慮したい。特に俺関係の話題は、俺自身にするなって感じだ。
「もうね、看護婦達で最近園田先生が色っぽくなったって話で持ちきりなんですよー」
…ほらでた。
俺は、部屋を出たときよりも大きな溜息をついた。
「なんですか、色っぽいって。さっき院長には顔のツヤがいいね、とか言われたばっかりなんですよ」
「やっぱり!いいお休みだったんですね〜」
「…ええまあ」
パァっと好奇心の花が咲いたような谷口さんの表情から俺は目を逸らした。もう、ここまでくると何にどう嘘をつくのも疲れるというものだ。
ふと、岩崎もこういう疲労感を味わったことがあるから今のようにあけっぴろげになったのだろうか、と考えて。
あいつのは性格だな、と即行で答えをだした。

その時初めて、俺はあいつを羨ましいと思った。