The International



――目の前がピンク色に染まっている。

字面だけ見れば、誰かがいい目をみている様に感じるだろう。
だが実際問題、グレンの眉間にはこれでもかという位の皺が寄っている。
秀麗な額に刻まれたそれは、ピンク色のその意味を根底から覆すのではないかと思われるほどに翳を作っていた。

…2月14日のバレンタイン・デーまで、あと2ヶ月を切った。







【イースタンリリー】








目の前に広がるピンクは、オールドローズのシックなアレンジメントだ。
ダークブラウンのアンティークなテーブルの上にも、その花びらが静かに散りばめられている。
――そのテーブルに腰掛けているのは、優美なるグレンの思い人だ。

『隆夏、もうちょっと顔をあげて。2人の距離はそのままで、だけど心の距離を近づけるように』
「…」

何も言わずに従って、その伏せがちだった瞳を立っている女性に向ける。
その憂いを帯びていた瞳が、一気に深い愛情を注ぐような男性の目つきになり、一瞬グレンの近くに居たメイクが息をのんだ。見惚れているのだ。
だが、グレンは違った。
拳を握り締めて、細く長い息を吐き出す。

――何だかよくは解らないが、やりすぎだ。
知らない女に優しい視線を向ける隆夏は、まるでグレンの知らない人間だ。

「…カメラマンは何て指示を?」
日本語がわからないグレンは、メイク担当の女性にさりげなく聞いた。彼女は海外でメイクを学んだから英語ができるらしく、さっきからグレンの通訳をかってでてくれている。
「心の距離を近づけるように、目線をあげろですって」
「へえ…随分ロマンティックな絵にするんだな。日本人はそういうのが好きなのか?」
「最近の流行が純愛だから、アダルティな絵よりはロマンティックにまとめた方が良いって感じね。」
「オレは首から下だけなのにな」
「貴方の撮影は逆にもっとシックでシンプルだから…まあ、チョコレートのコンセプトや各百貨店の思惑にもよるでしょうね。…まさかグレン・ヒルストロームが来るとは思わなかったから、急遽顔も使うことになりそうだけど」
シンプルなメイクボックスを片手に肩をすくめて見せる彼女が何だか面白くて、グレンは少し笑った。

今回、日本用のバレンタイン広告用に、何人かの外国人モデルと隆夏が呼ばれた。隆夏は元から日本支社を基点に動いているから別として、他のモデルはわざわざ日本まで撮影に飛ぶというのは嫌だったらしく、スケジュールに穴があって隆夏と仲の良いグレンが選ばれたのだった。たかだか日本のお菓子のお祭り用に、と周りには笑っている奴もいたが、グレンの撮影用のものは某有名ブランドの日本限定の香水とチョコレートのセットだったので、後で聞いて羨ましがるものもいるだろうとグレンは踏んでいた。
だがグレンが来た事で、若干の構図のチェンジが図られたらしい。首から下だけの予定がメイクも残らされているということは、グレンの顔も露出するのかもしれない。
そんなことは、今のグレンにとっては些細なことだったが。

「いいや、首から下だけでも国内モデルで済まさない辺りがあのブランドだ、どうなることやら。ま、オレもコレクションの調度合間で暇だったし」
若干謙遜気味に言うと、今度は彼女が笑った。
「隆夏とのコンビはもう日本じゃ有名だもの。今回の来日、空港賑やかじゃなかった?」
「そうでもないよ、全然だ。モデルは俳優とは違うから…まあ、隆夏のあの雰囲気は別として」
「そうね…彼、俳優もやればいいのに」
「……そうだ、な」
遠くで光るフラッシュを見詰めながら言う彼女のその声音に、少しの危機感を覚える。


――俳優だって?冗談じゃない。
人知れず奥歯を強く噛む。苦虫を噛み潰すなんてものじゃない、これは明らかに嫉妬と独占欲だ。


グレンのモデルとしての持ち味は、“洗練された”、“爽やかな”、“優しさ”だ。
人間というよりは神かCGに近いような無機質な造作に乗る、大きく深い表情。その雰囲気を求めて、様々なブランドや企業がグレンを起用しようとしている。
だが、その優しさは素直な博愛主義ではない。確かに人に優しくあろうとつとめてはいるが、それを常に意識できるほど、グレンは心まで神ではない。

――今のオレは、見返りを求めてやまない。

こんなに尽くしてるのに、なんて悲劇のなんたらを演じる気はない。
ただ、少しだけ見えてきた、たった一人の思い人からの返事を、言葉を、態度を。
もう少しだけ、自分にだけ注いでほしいのだ。


「――…グレン?」
「…あ、ああ、何?」
「貴方の顔、やっぱり撮ることになりそう。メイクするから、その眉間の皺はやめてね」
「ああ……」
目の前のセットは、もう片付けられているところだった。次に、グレンの写真を撮るらしい。カメラマンは同じなのにブランドは違うだなんて、百貨店もなかなか面白い事をする。
そう、普段ならば撮影方法や照明などに興味を抱くグレンだったが、今ばかりは撮影を終えたばかりの隆夏の方が気になった。
淡いピンクのペイズリー柄のタイを緩めながらスタジオを後にしようとする彼を、グレンは目だけでは追えなかった。
「…ごめん、ちょっとトイレ行ってきていい?」
「あ、5分よ、5分!」
後ろから響く声を左耳から右耳に流しながら、グレンは廊下に出た。

――多分、きっと、リュカと話せば。
彼の笑顔を見ればなんとか笑える。




「リュカ!」
シャーっと水が流れる洗面台の前に、隆夏はいた。
撮影でもコレクションでも、仕事が終わると隆夏は水のある所か、もしくは鏡のある所に行く。
それは仕事が終わった後、元の自分を取り戻すためなんだと、ちょっと前に教えてもらった。
「……グレン」
「お疲れさん」
「ああ、……」
ぼーっとした手つきで、手を緩慢に洗った後隆夏は水を止めた。トイレには他に誰もいない。
何だか普段と違う雰囲気で、グレンは首を傾げた。
「どうした?そんなに力を入れる撮影でもなかっただろ?」
――そりゃ、人と視線を絡める絵はあまりとったことなかっただろうけれど。
「いや…珍しく気が散って」
「へえ?まさか、オレがいるからとかじゃないよな?」
だっていつも一緒に居るだろう、とグレンが茶化したように言うと、隆夏は少し顔を曇らせた。
「……」
「…ん?どうした、リュカ」
普段の隆夏に戻る前の、少し神がかったような表情とも違うその曇り方に、グレンは心配になって顔を寄せた。本当は、ぎゅっと抱き寄せてやりたかったが、いつも好きだのなんだの言ってる分、こういうときに手が伸ばせない自分が歯がゆい。
隆夏が、口をゆっくりと開いた。
「…勿論、グレンがいたからって言ったら?」
「……どういう意味だ?」
言葉の真意をはかりかねて、グレンは思わず聞き返す。

――もしかして、オレのことをうざったいとか思ってるのか
だとしたら、だとしたら…と、頭の中がぐるぐるして、背筋が一気に凍った思いがする。

グレンの思いとは別に、隆夏は更に言葉を紡いだ。

「グレンが、ずっと誰かと話してたからだって、言ったら?」
「……!」

――それは。それって、リュカ。
――…もしかして

「…ごめん、ちょっと、駄目だ俺。…忘れて」
「待てって!」
フラリ、というのがふさわしい感じで、隆夏はグレンの脇をすり抜けていこうとした。
思わず、手が伸びる。
「…駄目なんかじゃないって。忘れられるわけねえって」
両肩から二の腕の辺りをおさえて、至近距離で向かいあう。
自分のしていることが信じられなくて、だけど今そうしないと先にすすめない気がして、グレンはまず一呼吸おいた。
「グレン、撮影…」
「1月以上も先のバレンタインのことなんて、今から撮ってられるかよ」
「だって」
「リュカ、さっきのお前の言葉って、ヤキモチ?」
「…ばか、だから忘れろって…」
「オレがすっごい嫉妬してたのと同じくらい、リュカも?」
「……?、お前も、って…」
きょと、とこちらを見上げてくる瞳が愛しい。視線が、全て自分に向いているのがたまらない。
だけど、さっきまでその視線を他人と絡み合わせていたのかと思うと、無性に強く抱きしめたくなる。
若干、隆夏の腕を握る手の力が強くなった。
「お前、あんまり優しい表情をするなよ。…凄い嫉妬した」
「……仕事だろ。グレンだって、ずっとメイクの人と話してたくせに」
「通訳を頼んでたんだ、話してたのはお前のことばっかだよ」
隆夏が目の前にいるのに、彼以外の話なんて思いつくわけがないのに。
ふっと笑顔がこぼれ出てきて、グレンは鼻先を隆夏のこめかみに近づけた。
「リュカ、俺たちの距離は、さっきの絵より絶対絶対近いよな。ゼロに近いよな?」
「グレン…」
「そうだって言ってくれたら、オレもう二度とお前の撮影中に誰かと話したりしない」
「…そんな、無茶な事言うなよ」
困ったような、呆れたような隆夏の声が耳元でする。夢にまでみた隆夏の頬の感触は、きめ細かくてもう離れたくなくなってしまいそうだった。
「無茶じゃない、オレはお前にだったらなんだって誓える」
――見返りなんて、本当に本当にオレのこの気持ちの一つまみ分でもいいんだ。
――ああ、嫉妬してくれただなんて、ここまで幸せなこともない。
このまま浮き上がれそうな気持ちを胸に秘めていると、隆夏は綻ぶように微笑んだ。
「……グレン、…勿論、だよ。俺、グレンにだけなら…」
耳元でゆっくりと囁いてくれた言葉に、グレンは思わず頬へとキスを落としていた。

――グレンにだけなら、あれ以上の視線を向けられる。

その言葉だけで、今のグレンには充分だった。
どんなにゲンキンで単純な男だと笑われたって、グレンには隆夏だけ一番大切なのだ。







結局5分を少し過ぎた辺りでスタジオに戻ると、メイクの女性はやや怒ったように手早くメイクをすませてくれた。元から化粧があまり必要ない撮り方をするからよかったものの、と小言をいう彼女に、グレンは素直に謝る事ができた。
カメラマンとの挨拶も簡単に済んで、撮るぞ、となった時にライトの向こうに隆夏を見つける。

――ああ、確かにここから見えたら嫉妬しちまうなぁ
さっきとはうってかわって穏やかな気持ちでそう分析すると、グレンは近づいてきたスタイリストに視線を戻した。

手渡された満開の鉄砲ユリの束を見詰めながら、グレンはバレンタインにはこの花束を隆夏にあげよう、と思った。