【マーツェルの宇宙遊学】
01/スターラインパラレルフォーリング



 都竹マーツェルの黒くくるくるした頭の中は、いつでも言語と記号で支配されていた。

 世界のあらゆる言語のこと、その相違、記号としての言語、映像の中の記号、写真の中の記号、物質を認識するときの記号。長文読解と数式の解は同じ方法で答えることができるか、等、毎日彼が書き連ねる一般人には到底理解し得ないもので部屋は溢れかえっている。

 肩書きは大学准教授。アメリカの大学で教鞭をとっているが、著書に関する講義を行った事は殆ど無かった。絵にかいたような変わり者である(それ故に尊敬してくれる生徒も多いのだが)。それに今は半期の研究休暇に入ったばかりで、ここ数日はただひたすら部屋にこもっていた。

 一週間前から、長く書類の管理を任せているスタッフが長期の休暇に入った。おかげで部屋はいつも以上に書いたもの、プリントアウトしたもの、ぐしゃぐしゃに丸めたもので一杯になっている。来月にならないと戻ってこないスタッフが、部屋に足を踏み入れた途端にする表情は想像するまでもない。

 ――他人に整理されることにより記号の証明が図られる、とか
 そんな風な実験をしているというのは半分嘘で半分本当だ。こうして床に散らばっているものは大半が思考実験的なもので、必要なものは自分できちんとバインダーやラックに入れるし、文章だけならば大概はデジタル化してしまっている。やるべき所はやっているので、スタッフの小言も少なくて済んでいる。

 今、マーツェルはちょっとした小説を書いていた。記号論や哲学、はてまた言語学を主とした学者なら、小説の一つでもいいから一般人に解りやすい何かを書いておくべきだと知人にたきつけられたのもある。
 ――俺が皆に宇宙人扱いされるように
 宇宙人に言って聞かせるような、また宇宙人から見たような世界というのを1つSFとして書けたら楽しいなと思っていた。完全な趣味の世界だ。ただ学者であるという点では出版の関係にコネもあるし、ウェブのどこかでちょこっと置かれるだけでも面白い気がしていた。
 手書きの図をいくつか入れたくて、その数式の様にも図形の様にも見える記号の集合体を机からつまみあげて、目の前でぺらぺらともう一回全体を見ようとする。

 ――三角、螺旋が解けてパラレルアウト
 紙に書かれた図をランダムに頭の中でシャッフルさせながら、論理として筋が通っているかルービックキューブをがちゃがちゃ回す様に考える。

 と、ぴっと後ろからその紙を奪われた。

「……?」

 こんな事をする人間は身近にはいない。スタッフですら、マーツェルが持っている書類を横取りするなんてことはしない。
 家族の誰かだろうか。マーツェルは一度も結婚したことなど無かったから、妹か弟だろうか。連絡なしに来るとは考えにくいし、そもそも鍵が掛かっている。
 振り返りながらそんなことを思ったが、真後ろに居た人物は、その誰でもなかった。

「や、これはまた素晴らしい!」
「…君は…?」

 誰だ、と言いかけて、その外見の特異さに気付き目を見開いた。

 髪の毛が銀色から紫に色が揺らめく。と思えば緑色に変色し、赤くなってはまた白くなる。ゆるやかな光の移り変わりに、オーロラを連想した。と同時に、人間ではないのだろうと直感的に感じた。
「ひっじょうに素晴らしい空間だ、私は感動してます」
 ぱちぱちと目を瞬かせる度に、目尻か睫毛の辺りから小さな閃光が散るように見える。もし熱を持っているのだとしたらキスもままならないな、とどうでもいいことを考えた。

 ――しかし
 ――言語がばらばらじゃないか

 さっきまで自分もあらゆる言語間での言葉遊びを脳内で行っていたから言っていることは解る。だがその実は文法こそインド・ヨーロッパ語族でこそあれ、単語のチョイスや変形方法がありえないバラエティでもって語られているのだ。
 ――生徒がからかいにやってきた
 というわけでもないのだろうな、と、流行りものだと思われる服を皺ひとつなく着こなしている招かれざる客に、もう一度誰だ、と尋ねた。歩けば服に皺位付くものだが、一体どんな素材を使っているというのだろうか。
「礼を欠く事5年です失礼、私は度々貴方の小間使いから貰った紙を見ては胸ときめかせていました」
「君は俺のファンか」
 素性も名乗りもせず、ファンと名乗る銀髪は笑いながら紙を遠くから見たり近くから見たりしている。紙の中に鼻をつっこんでしまうんじゃないかと思う位の近さに、たかがラフだぞと眉根を寄せた。
「ファン!ファンタスティック、ファナティック、不安、ファビュラス、ファンディー、ファン、ファン、どちらかと言われればファン、そのものですね心が酔いましたから」
「その言葉づかいは…俺を試しているのかな」
「試す?嗚呼!声が貴方に伝わっていないと仰る?」
 おかしいな、と言いながら銀髪は自分の喉仏の辺りをぐり、と押してはアーだのオーだのと言っている。
「…いや、解るから良いが。それよりどうやって入ってきた」
「貴方が一人だと知ったらいてもたってもいられず気付いたら」
「アンガスに鍵でも貰ったか」
「アンガス?」
「君が小間使いと呼んだ人間の事だ。…その髪はどうなってる」
 思わず聞いてしまう。ここ数日まともに人間と顔を合わせていなかったから、至近距離で話されると目の焦点が合わないような気がしてしまう。
 銀髪は、髪の毛をふわりと触ってからにっこり笑った。肌にはそばかす1つ見当たらない。

 マーツェルの頭の中で『おかしい』という文字があらゆる言語で再生される。

「嫌いですか?なら真っ黒にしますが、貴方と同じく。貴方の作品にあったので」
「作品?」
 論文の事だろうか、そんなファンタジーは書いた事がないぞ、と思いながら床にちらばった書類に目を落とすと、そこに色彩の呼び名について書き連ねたものがあった。よくやる気分転換の一つだ。
 ――もしかして
「あれのことか」
「はい、地球は声と文字によるコミュニケーションの発達素晴らしく、自身にも取り入れたくてやってみましたが、言われてみれば確かに髪の色が刻一刻とチェンジする人は居ません」

「…君はどこから来た」

「宇宙」

 こっちが絞り出すように聞いたというのに、銀髪はあっけなく答えた。
 その口が笑んだ瞬間、バサバサと床に散らばっていた紙という紙だけが宙に浮く。
 床と認識していたはずの足元の空間がぐおんと真っ暗になり、床の質感がなくなったにも関わらず重力は普通に存在していた。視覚に何か細工を施したとでも言うのだろうか。

「貴方に僕の事を書いて頂きたく、お預かりに参じました」

 まだ拝見していない作品も全部!と言ってから、やけに細長い指をパチリと薬指と親指で鳴らして、ひと際派手な閃光をちらつかせ銀髪はマーツェルを部屋から消した。


******


 気付いたら、いつもと同じ書斎に立っていた。目の前には銀髪もいる。
 そして、天井から書類が落ちてくる。頭には当たらない、もちろん銀髪の頭にも。しかし、おかしい事に降ってくる書類が床に落ちても音がないのだ。そもそも天井から書類が降ってくるなんて非常識である。
「どのような環境が良いか見当もつかず、そうですやはり慣れた環境の方が良いとレプリカしました」
「…ここは俺の書斎であって俺の家ではないということか」
「寛いでください。あの小間使いほど気遣いはできませんが、いい思いはしてほしいのです」
 ――根本的に、悪い奴ではないのだろう
 だからといって、根が良くても悪い事をする者はいる。
 マーツェルは窓の外を見た。…星が瞬いている。まるで自分の部屋だけ宇宙に飛ばされてしまったかのようだ。
「あぁ、残念だ、貴方の頭の中をぷちぷちしたら、貴方が何を考えているのか解るのに」
「ぷちぷち……君、色々聞きたい事がある。座りなさい」
「!」
 ぱああっと顔を輝かせて、銀髪はソファにちょこんと座った。さっきまでの大仰な態度に反して小ぶりな座り方に思わず笑みが零れそうになる。
 ――危ない危ない
 こいつはひょっとしたら俺をとんでもない所へ攫いだしたのかもしれないぞ、とドラマもびっくりの展開を想像しながら、マーツェルは向かいのソファに座った。我ながらこの寛容さというか無頓着さに呆れて、無精髭をかきながらじっと銀髪を見る。
「君は宇宙から来た。そして俺とこの紙の束を持って、俺の書斎そっくりの宇宙空間に連れてきた」
「はい」
「俺はここで、君に関する作品を仕上げなければ元の場所には戻れない」
「はい」
 恐ろしい話だ。
 だが、今のマーツェルにはそれ程恐ろしいとも思えなかった。全部が夢かもしれない可能性も捨てきれない。
「………俺は、ここで作品を書いている間、衣食住には困らない」
「はい。5年間貴方を見て地球の生態は大体学びましたが変な所があれば言って下さい」
 善処しますとこくこく頷く。それが全部本当だったら悪い話ではない。
 どうせずっと一人で居れば色々と大変なのだ。宇宙人の世話になれば、もしかしたらその大変さも軽減されるかもしれない。
 ――その可能性は解らないが
「…丁度色んな文献から頭を切り離したいと思っていた」
 休暇だしな、と自分への言いわけをし始める。
 純粋な好奇心と、自分の落書きにこの宇宙人がどれだけ興味を持ったのかが気になってきてしまったのだ。
「…君をいつまでも君と呼び続けるのには抵抗があるんだが、名前はないのか」
「名前!」
 きらきらと瞳の虹彩が色を変える。もしかしたらこの瞳は人間の瞳とは違う物質でできていて、役割も違うのではないかという位その色はメタリックブルーからピンクに煌めいた。
「あ、あのですね、名前をつけていただきたいのです」
「俺が?」
「ええ、あの、夢の一つで」
 いきなりそわそわとしだす。その仕草はやけに人間っぽいが、人間の姿をしているからこその仕草なのだろうか。
「君には名前がないのか」
「ありません。そういうもので認識しません。呼びたくなったら発信するので」
「個体そのものが識別信号なのか」
「そうですね、私は有る程度個人なので」
「…?…まあいい。名前なあ」
「好きに呼んで下さい。あの、なくてもいいですが、あった方が作品で」
 私だと解る特定出来るのが嬉しい、と銀髪は力強く頷いた。
 ――オーロラ、閃光、ノーザンライト、ポール
 くしゃ、と前髪をかきあげて深く座り込む。
「…エイオス」
 ぼそ、と言葉が漏れた。
「エーオス、Eos?エー・オ・ス」
「あ、いや、まて」
 ――女神の名前は流石にやりすぎだ
 見た感じ男性の形をとっているのに、何でそんな言葉が浮かんだのか。黙ってオーロラと呼んでやればよかったかもしれないが、オーロラ姫が浮かんでそれこそ駄目だろうと思ったのだ。
「エーオス、良いですね、ツヅクマーツェルのような名前も良かったですが」
「俺の名前か?発音しにくいだろう」
「問題ありません。声を出すの楽しいんです」
「へえ」
「貴方の作品を読むと声が出てしまうんです、おかしいですがたのしい、ですので宇宙に転がっている地球の言葉勉強したんですが、ぐちゃぐちゃですよねわかるんですよ」
「…ああ、おかしい、が、おかげで俺は君を宇宙人だと信じられた」
「そうですか!君ではなくエーオスで」
「エーオス。エーオス、エーオス…」
 ぎりぎりでエスオーエスにはならないんだな、と一人で笑うと、目の前の宇宙人は貰いたての名前を連呼されて首をぶんぶん振った。
「わ、わわ」
「呼べと言ったのはエーオスだろう」
「呼ばれ過ぎると熱を持つものなのですね名前は私学びます。ではマーツェルさん」
「…ふむ」
 作品をせがまれるというのは、作家になる前から編集に原稿をとり立てられている気分だ。しかも相手が宇宙人となると、こちらもどう対応していいか解らない。

 まずはコーヒーが飲みたいな、とマーツェルは腰を上げた。
 この宇宙人が、コーヒーを飲めるのかどうかも知りたい。