コペンハーゲンのように霧を含んだ、
番外
【1】 ――俺が初めて士猶辰巳の文章を読んだのは、ほんの気まぐれに友人の居るライトノベル編集部に行って、発売間近の雑誌を手に取った時だった。 カラフルなアニメ調の絵が表紙になってるこの手の小説は、海外ミステリなんかの編集をやっている俺には全く免疫がなかった。何だか同じ出版社なのに遠い世界のものを見ている気すらした。 雑誌を机の上に戻そうかと思ったが、友人が出先から戻ってくるまでの暇つぶし程度にはなるか、と思い直し勝手知ったる友人のデスクで読書を決め込むことにした。幸い、周りの人間は出払っていたり俺の事を知ってる人間だったりしたから、特に邪険に扱われるという事もなかった。 各作品の冒頭部分を読んで、気に入ったものだけを読むことにする。幸いシリーズものでも読みきりで載せているタイプの雑誌だったので、予備知識が無くても何とか読める作品がいくつかあった。 そこで、彼の文章に出会った。 俺は海外ミステリの前は純文学に居たから、基本的に硬い文章が好きだった。軽い文章もそれはそれで好きだったが、それにはよっぽどの文才や語呂のセンスを感じない限り手を出す事はない。だから逆に普通の人間ならスラっと読めるライトノベルも、俺にとっては結構読みづらいジャンルだったりした。 「なんだ、これ…」 ――それでも彼、「士猶辰巳」の文章には強く惹かれた。 一読者として、一編集者として。 作品の世界観と現実世界の大きな違いを、身近な言葉で説明する文章から始まっているその作品は、所謂現代ファンタジーの枠の中に入るのだろう。だが、俺からしてみればこれはファンタジーとSFとミステリーの抜け穴取りという感じだった。何でもありという訳ではなく、それが1つの世界観に則って描かれているのが惹きこまれる所以だろうか。 「あ、岩住来てたの?」 出先から戻ってきた友人瀬川が、明るい声を掛ける。どうやらちゃんと原稿を貰ってこれたらしい。 「瀬川、これ誰?」 「あー?あ、士猶くんか。アレだよ、こないだポーンと新人大賞かっさらった子」 「子?」 「まだ若いんだよな、確か。19で受賞してんだよ、去年の秋口だからもう20過ぎてるけどな」 「8つも違うのかよ…ジェネレーションギャップだな、こりゃ」 「何、珍しいじゃん岩住がそんな若いの好きになるなんて。まー売れっ子だし、その内ライトノベルから離れるんじゃん?ミステリ辺り狙ってるらしいし」 「へー…」 と、そこで俺は最近編集長に肩を叩かれた事を思い出した。 ――そろそろ異動かもな、準備しとけよ 時期外れの異動なんて早々あってたまるか、と思っていたのだが、ミステリが狙ってるとあればこっちにもチャンスがあるかもしれない。 「瀬川、士猶辰巳って本何冊出してる?」 「去年暮れデビューだから多分2冊程度じゃないか?雑誌連載結構あるみたいだから、そのうちバーンと沢山出しそうだけどな」 「そうか…サンキュ、邪魔したな」 あっさりと席を立った俺を、瀬川は胡散臭そうな顔で見送る。 「お、おい用事があったんじゃなかったのかよ…」 「や、こちらの編集長がマジでヅラだって話なだけだ、じゃな」 「マジで?!」 その情報を聞いて、瀬川は俺が士猶辰巳を発見したときより大げさな表情で驚いた。 ――俺が新雑誌に引き抜きって聞いたら、もっと驚くかもしれないな。 そんな事を思いながら、俺はライトノベル編集部を後にした。 ……絶対、士猶辰巳は俺がオトす。 * * * 【2】 「あ、岩住。この間出た『ルコウ』読んだか?」 自販機の前で煙草を喫おうかそれともコーヒーを飲もうか迷っていた俺は、瀬川にそう声を掛けられた。ルコウ、とは奴の編集部が出してるライトノベル雑誌だ。 「ん?まだだけど」 瀬川との話はムダ話でも結構長くなることが多い。俺は禁煙に成功した奴の為にコーヒーを買うことにした。俺も半ば休煙中の身だし、付き合ってやるのも悪くない。 自販機に小銭を入れる俺を無視して、瀬川は話を進める。 「それがさ、お前のお気に入りの士猶辰巳の小説に、お前そっくりのキャラがでてるのよ」 「はは、本当か?それ」 そんな風に笑い、紙コップに入ったブラックコーヒーを飲みながらも、俺の心は大いに揺れていた。一ファンとして、自分に似ているキャラが出ているというのは嬉しい。例えそれがどんなキャラクターであったとしても、だ。 「マジだって。しっかも何か気障ったらしい魔法使いでさ。蛇使いな辺りとかかなり岩住らしいわ、と思って」 「ていうかお前も士猶辰巳読むんだな」 作家が売れるか売れないかの観察眼だけは異様に鋭いが、後はなぁなぁな駄目編集者瀬川の熱の入った説明が意外で、俺は思わずそう尋ねた。瀬川は憮然そうに眉間に皺を寄せた。 「失礼な。お前が気に入るって言うからちゃんと読んでみた訳。一応同じ雑誌の作家だしね」 「表紙にドカンと名前を躍らせてるくせによく言うな。お前の担当の子は平気なわけ?主婦作家」 「あの人はあの人で調子いいよ。エッセイの方が人気あるからそっちに移ろうかって打診中。って、俺の方はいいんだよ。まず読んでみなって、最新号。黒髪短髪切れ長の瞳はモノクルで理知的な印象、8世界有数の魔術師セージ・リー・グリーンソーサラーの登場シーンをさ」 「…フルネームまで覚えてンのか、大した記憶力だな」 「お前ほどじゃねえよ。じゃ、また校了明けが重なったときにでも飲みに行こうや」 言うだけ言って瀬川は帰っていった。全くどんな用事でここまで歩いてきたのやら。 でも、有益な情報は入ってきた。自分に似たキャラクターが、自分の愛用するコーヒーカップに似た名だというのがまず面白い。俺が貴文の店で使っているカップはウェッジウッドのコロンビア・セージグリーンだ。セージという名前が例え清二とかいう人間の名前から来たのだとしても嬉しい。 編集という職業柄、もしかしたら士猶辰巳本人にもすれ違っているかもしれないという可能性は捨てきれない。そこで俺の姿を見て、それで新キャラクターの外見の一部にしてくれたのだとしたら堪らなく嬉しい。ま、そことティーカップがどうつながりがあるのかは解らないが。あれはグリフィンの絵がついているから、ファンタジー好きでお茶も好きならちょっと詳しくても変ではないだろう。確か、雑誌の柱の作者近況の欄だかに、喫茶店巡りをしていると書いてある面があったし。喫茶店か、貴文の店もなかなか気に入ってもらえそうだがな、と思いながらコーヒーを飲み干して編集部に戻った。 「ああ、岩住やっと戻ってきたか」 「すみません。…て、あれ。谷川編集長」 戻った瞬間、目の前に自分の編集長・佐藤と談笑している谷川編集長の姿が視界に入った。俺の所みたいに大きな出版社では、色んな編集部がある。谷川さんは書評雑誌の編集長で、何度か一緒に食事をした事がある、社内でも有数の出世頭だ。 「や、岩住君。元気そうで何よりだ」 「ああ、はい、おかげさまで。それより何かご用ですか?」 「用も用、君を正式に引き抜こうと思ってさ」 書評雑誌なんてものの編集長をしている割に若干ワイルドな印象がある谷川さんは、そういって俺の肩を叩いた。 「もしかして、例の新雑誌ですか」 「おや、知ってるのか。だったら話は早いな。時期外れの異動は引越しが面倒だから嫌だとか言うなよ?」 「いや、いい加減原作と翻訳者の仲介するのも疲れてきたので調度いいですよ」 「おい岩住、お前俺の前でそういうこというなよ、送別会なんてしてやらんからな」 佐藤が何か言ってるが、彼も元から俺がこの部署には長くいないだろうと踏んでいた人物の一人なので、その口調は明るい。 「ただの引越しみたいなもんですから、別に平気ですよ。創刊、秋で間に合うんですか?」 「もう他の主要人物とかは捕まえてあるし、実際企画もスタートしてるからな。君は最後の補充要員て訳だ。色々なジャンルに造詣が深い人間を入れさせてもらえば、うちとしても安泰安泰」 谷川さんはあっさりといってのける。だが、こんな大きな出版社でも、社員が知らないうちに新雑誌の創刊が進んでいるとは驚きだった。内部で何か揉め事でもあったのではないかと勘ぐってしまうのだが、今はあまりそういうドロドロしたことに首を突っ込むことはやめておこう。とりあえず、異動を決めることが先だ。 「…では、改めてよろしくお願いします」 深くお辞儀をすれば、谷川さんはハハッと明るい笑い声を小さい編集部の中に響かせた。正式な異動通知は後日出す、といって簡単なスケジュールを教えてくれる。俺はそれをジャケットに突っ込んでたメモ帳に書き込んで、その日はそれで終了と言う事になった。 ――これで、士猶辰巳にもう一歩近づけるかもしれない。 そう思って、ボールペンを握り締める手の力を強くした。ああ、はやく帰って最新号読もう。 * * * 【3】 家に帰ってビール片手に読んだルコウの最新号は、やっぱり凄かった。予想以上だ。 士猶辰巳の小説に登場した新キャラクターは、自分で言うのもなんだが外見的には自分に似ていた。性格は俺よりちょっとひねくれてるって感じだろうか、悪役じみてるだけあって歪んだ言葉選びをする。こんな言葉回しをしたらこの主人公は何を言われているのかわからないのではないだろうか、とすら。まぁでも主人公の能力的には別にこいつが何を言おうとお構いなしだろうから別にいいのかも…って、こんな風に考えるのはまるで本当に素人の読者みたいだな。先が気になってたまらない。 缶ビールを空にすると同時に話を読み終わって、俺はふう、と溜息をついた後パソコンに向った。これくらいの酒じゃ酔わないが、ちょっと酒が入ったくらいの勢いで書いたほうがいいだろうメールがあったからだ。 「…三木、さまって感じじゃないな、部署違うだけだし」 狭くも広くも無い部屋で一人呟く。士猶の担当は三木というやつだったが、俺は見たことがない。基本的にライトノベルの担当はウチの会社の場合漫画からの異動が殆どで、純文学とかミステリだとかを齧ってる俺には全く知らない連中だらけだ。まあ面識ないんだったら「様」付けした方が無難だろう、ということで不承不承、さま、と打った。 こういう場合はきっと作家本人にメールをしてしまっていいのだろうが、生憎今の俺には彼のメールアドレスを知る権利はない。瀬川経由だったら何とかなるのかもしれないが、あいつもあいつでタヌキな所があるからきっと無理だろうとも思う。とりあえず、今こいつにメールを打っておけば、きっと後で引き抜きに成功した後でも『裏切り者』とかドロボウ、とか言われなくて済むだろう、多分。 それに、士猶辰巳の文章はきっと担当がどうにかして色をつけてやっているという感じはしない。あまりにも流れが鋭く綺麗すぎて、他人が入っていける余裕がない。目の前にどんどんと繰り広げられる、自分の知らない世界の実情に、ただただ手の汗を握る。 他を寄せ付けない圧倒的な文章というものを俺は久し振りに読んだ。 そして、その文章を書く人間が、俺にだけ文章の切れ端を繋ぎ合わせる役をくれればいいと思った。 ――例え士猶辰巳が、どんな人物であったとしても、だ。 俺は打ち終わったメールの文章をもう一度確認して、送信ボタンを押した。 キイっとデスクチェアの背を鳴らして天井を仰ぐ。眼鏡を外し、目を瞑って、深呼吸をする。 士猶辰巳の文章には、散文詩のようなものがたまにある。それは能書きに近い状態のまま残されているような気がして、それをもっと効果的に配置できたらもっと強力な呪文のようなものになるだろう。 人物の書き方についてもあまりに普通と違った隠喩表現をするものだから、読者の好き嫌いが大きくでるはずだ。ほんの少しだけツナギが欲しい。 空気は文句なし、間もセンスがいい。場面転換後の導入は良いも悪いも両極端。緩急のタイミングさえ間違えなければ、きっともっと初見の読者にも優しい書き方ができるだろう。まぁ、コアなファンの辺りはこの極端さを理解できてこそ本当の読者、とか何とか言い出すんだろうけどな。立ち読みには全く向かない文章ではあると思う。たまにパズルを解いている気分にすらなる、ファンタジーなのに。 ――ああ、こいつ、本格ミステリとか書かないかな。推理までいかなくても、ミステリーが似合う。 翻訳物の仕事をして燻っていた俺の編集根性が燃え上がってきた。そう、この感覚だ。 どうすればこの作家の頭の中の世界をもっと文章に押し出し、読者の目の前に再構築できるだろう。 その情熱の手助けがしたい。 ――この感情は、まるで恋に似ている、とすら思う。 俺にとっての恋もまさしくこんな感じだ。俺は自分といることによってもっと輝きを増してくれる人間を好きになる。その可能性がある人物を、好きになる。 だが、最近はそれも面倒になっていた。前の恋が余りにも悲惨な終わり方をした所為かもしれない。後、目の前になかなか素敵な人が現れなかったのも原因の一つだろう。微妙な忙しさで、出会いも何もあったもんじゃなかった。 だから俺は貴文にその役を任せた。恋の相手じゃなくて、俺の恋の相手を探す役。そういうスカウト的な能力――人を一目見てその深淵まで覗き込んでしまえるような――に頼ることにしたのだ。あいつには1つ大きな貸しがあるから、直に請け負ってもらえたが。ま、それはそれでお互いゲーム感覚だったのだから仕方がない。 「…でもまさか、こういうのが重なるとは思わなかったな…」 少しだけ伸びてきた前髪を後ろに撫で付けながら笑う。 この間見つけた男の子の事も、士猶辰巳と同じ位に俺の心の中を占めている。 ――人恋しい頃なのかね。 仕事と恋愛は俺の中で全くの別物で、なのに俺は同じタイミングで仕事にも恋にも情熱を注ごうとしている。 ――2人の霧を晴らすことができたら…なんて、積田君に聞かれたら浮気だとか言われちゃうかな。 まだ叶ってもいない願いと恋のこれからを想定して一人笑う。 …さて、風呂入って寝るか。 夢にどちらがでてこようとも、多分俺は幸せだ。 * * * 【4】 ――しかし、人生そうトントン拍子に進むわけがない。 「おいおい、最近荒れてないかお前」 いつもの休憩所で煙草を吸おうかとしていた時に瀬川にそう声をかけられて、俺は機嫌が悪いのを隠しもせずに振り返った。 げ、という声を聞いて、俺の眉間の皺はますます深くなる。 「…んだよ、荒れてるのはお互い様だろうが」 「っにしてもお前のは酷い。盆進行の時以上じゃねえか」 「じゃあ何か?お前が俺のストレス解消に付き合ってくれるとでも言うのかよ」 自分でも言いながら自分の口調に苛々する。言葉の端はしに八つ当たりのような棘がにじみ出ているのが解った。普段からよき友として接してくれている瀬川に対していくらなんでも失礼だろう、と思うのだが、いっぺん上がったストレスレベルはなかなか下がるものではない。 「お前の趣味トレーニングだろ?サンドバッグ代わりに殴られちゃたまらねぇよ」 「その筋肉もすっかり衰えてきたよ、仕事もなにもうまくいかなさすぎてな」 眼鏡を外し、拭く。視界が少しでもクリアーになれば、この苛立ちも治まるだろうかという一縷の望みをかけて。だが、そんな行動も瀬川の溜息とそれに続く長〜い言葉によって意味を為さなくなってしまった。 「できる男はこれだからなあ。八回か九回か断られた程度でへこたれて。あ、お前の事だから1、2回でもううんざりしてきたんだろ。もしくは場数踏んでるからって経験値でもってこうとしてちょっとした失敗してから奥手になってるとか」 「仕事と私生活ごっちゃにしてつっこんでくんなよ…」 「俺なんて茉莉江に告白した時もプロポーズした時も、そりゃもう粘ったもんだって。お前は外見からしてモテるから、あんま苦労を知らねえんだよ」 茉莉江とは勿論現在の瀬川の奥さんの名前だ。こいつには似合わないほどの美人で、その分性格はキツイのだが、多分瀬川の一途さに絆されて一緒になったクチだろうと思う。傍から見ているときつい言葉の漫才みたいな会話をする2人なのだが、見ていてハラハラするということはなかった。 そういう関係を羨ましいと思ったことなど一度もなかったのに、今になって少しだけそう思った。 いや、素直に言うと、かなり羨ましいと思った。 「随分な言い草だな」 「そういう言い方じゃねえと伝わらないじゃないか」 「そうだけどよ」 「あ、ちょっと浮上してきたな」 「浮上じゃねえよ、荒んでた自分に反省したんだ」 「気付いて向上しようと思ってるだけ浮上じゃないか」 そういって瀬川は笑う。このクチの上手さというか励まし上手というかが、瀬川の編集者たる才能だ。どんな鬱状態の作家も高慢ちきな作家も、瀬川と話すとやる気を出す。俺みたいな良質文学至上主義の編集にはまずできない芸当だ。作家の人間性よりも作品に焦点を置く俺は、作家からの好き嫌いが大きく分かれるはずだ。いや、勿論俺だって、作家の人格あっての作品だとは思っている。だが、やっぱり出来上がる作品にこそ一番の情熱がこもるのだ。作家を励まし歩ませる所だけに重点は置けない。 ――それが、見透かされてたりなんてことはないだろうな。 誰に、という無粋な追求は、首を横に振ることで全て自分の中から破棄した。誰が気付いているものか。 「じゃ、俺自分のとこ戻るわ。そろそろFAXの一つや二つ着ててもおかしくないもんでね」 瀬川はそんな俺を見てどう思ったのかは知らないが、とりあえずトリートメントは終えたとばかりに清々した笑顔を浮かべて去って言った。一人休憩所に残された俺は、最近富みに服用量が増えた煙草を胸ポケットから取り出して、マッチで火をつけた。ライターの火よりもマッチの火の方が燃えているという感じがして好きだった。放火魔なんかにはならないだろうが、それなりに火が好きなのだ。 メラメラ、というよりはチラチラと揺らめきながらマッチ棒を短くしていく火を見詰め、自分の情熱をもう一度思い出そうとする。 ――上手く行かない方が、執着するもんだろ。 そう、人差し指に火が当りそうになる直前でフッと息を吹きかけて、消しながら考える。 これしきの風で俺の情熱が消えてたまるものか。 「…よし」 浮上した俺は、とりあえず休憩所で何も飲んでいなかった瀬川にコーヒーでも差し入れしてやろうと思って缶コーヒーを買った。投げ渡しでもしたら自分の席に戻ろう。俺には士猶辰巳を引き入れる以外にも、しなければならないことが山のようにある。それに、放ったらかしにしてる積田君への思いの整理も、だ。瀬川に言われて気付いたというわけではないが、こっちだってうやむやのまま忘れられるわけにはいかない。 「おーい、瀬川ー……っと」 編集部の開けっ放しになっているドアから中に入ると、見学者や突然の客を座らせる椅子の上に誰かの原稿が置きっぱなしになっているのが目に入った。封筒に入ったまんまということは、多分さっき届いてそのまま放置してしまっていたのだろう。 出払っている瀬川を待つフリをして、さりげなく封筒を手に取る。 「どれどれ…と、…………?!」 封筒の裏に書かれた若干右上がりの綺麗な字に、俺の目は釘付けになった。 ――そこには、1度しか見たことのないが記憶に新しい思い人の字体で、 しっかりと『士猶辰巳』と書かれていた。 * * * 【5】 ――信じられない。 まずは、その一言に尽きた。 もしかして、何て思っていたことが現実になったら、そりゃ普通だったら仕事も手につかなくなる。だが、俺は仕事と恋愛は別物、と常に割り切ろうとしてきたタイプだったから、無心で仕事をすることはできた。情熱と根性が売り物である編集者にとって無心で仕事というのはそれなりにいけないことではあるのだが、とにかく仕事に打ち込むことで忘れようとした。 ――けど、今回は。 今回ばかりはそうもいかなかった。なんていっても「士猶辰巳=積田尚志」だ。「仕事=恋愛」だ。今まで一度だってイコールの関係にならなかった仕事と恋愛の比重が、同じ重さになって俺の頭の上にのしかかっている、そんな気がした。 それでも人手の足りない新編集部、俺の調子が悪いからといって誰も気にかけるなんてことはしない。いや、気にかけたとしてもそれがよっぽど雑誌に影響を及ぼすかどうかだ。あくまでそれは、仕事面での心配だ。俺自身に対する心配ではない。 俺自身に心配をしてくれる人間なんていうのは瀬川しかいないが、士猶辰巳の素顔である積田尚志を知っている瀬川に会っても複雑な思いをするだけだ。あれから結局、瀬川の顔をみることもせず俺は編集部で缶詰じみた生活を送っている。 ――なんで、なんでこんなに複雑な気持ちを俺は抱えてなきゃならないんだ? 昔の経験が、俺をこんなに猜疑心の強い男にしている。獅子座の男はもっと強気で豪気なはずだろう、と他雑誌の占いコーナーを思い出して心を奮い立たせようとしても、全く上手く行かない。俺を星占いですら信じさせなくした過去を、こう物事が上手く行かないと思い出してしまう。 『俺より仕事が大事なのは解る、だけど謙、あんたは俺を何だと思ってる?』 『深く踏み込ませないままで人をその気にさせといて』 『一夜だけの単純な付き合いのほうがまだマシ』 『この後謙と付き合う人間が可哀相だ』 ――何で、何でこう上手くいかないんだ 仕事は上手くいくのに、だ。男選びが悪かったのか、それとも俺の性格自体に問題があるのか。多分後者だろう。俺はきっと長期的な付き合いをするのに向いていない。いくら明るく振舞えても、いくら積極的にアプローチできても、結局俺は俺の自己満足の為に恋愛をしてる。してる振りをしている。 それを、嫌と言うほど昔付き合った奴らは言っていた。今回は違うと思っていたのに、あんなに浮ついた気持ちだったのに、結局今こんがらがっている。 ――積田君は、もしかしたら俺のこんな所を読み取って、それで俺を拒むようになったのか。 大体、あんな変なタイミングでキスをしたら嫌われるに決まっている。酒の所為にして誤魔化そうと思えばできなくはないが、彼は酔ってなんかいなかった。 作家の感受性は鋭い。俺が貴文に候補選びを頼んだのだって、奴の感受性・観察眼をもってしてのことだ。 ――何故見抜けなかったのだろうか、 ――霧が掛かってるのは、俺の頭の中だったということに。 くっ、と自嘲の笑みが漏れた。 編集長から言われて休憩を取っている今、辺りに人は誰も居ない。 きっと、瀬川でもいれば今の俺の気持ちを少しでも軽くすることができたのだろう。 ――それでも、俺の気持ちは変わらない。 ――……終わらせよう、 どちらかへの思いを終わらせなければ、俺はきっとまたあの時と同じ事をしてしまう。 ――でも、片方だけを諦めたって、彼に陰をもって接しなければならなくなる。 俺が編集者だということも、俺が彼を好きだということも、彼にはもうわかっているはずだ。 ならば、どちらも勝ち取ることはできないということか。 ツミタナオシも、シナオタツミも。 単純なアナグラムに何でこんなに遊ばれているのだろう、と溜息が出た。 ふう、と吐けばカフェインに染まった息が出て行くのが解る。 ――ぐだぐだ悩んだって仕方ねえよ、俺は拒まれたんだ ――1度や2度の失敗、なんてもんじゃない。否定の前に縋る男なんて惨めなだけだ ふと、休憩所のテーブルの前に置かれた、誰かが読みっぱなしで放置していったのだろうルコウが目に入る。その表紙に踊る「士猶辰巳総特集・無敵世界観に迫る」と言う文字が脳に届いた瞬間、俺はその雑誌を手にとって歩き始めていた。 ――確かに無敵だ、俺には成す術もない。 惨めな、それでいてどこか冷めた気持ちで、俺は外へ出た。 あの店で、彼を待つために。 * * * 【6】 ――話は、思ったよりもずっと早く終わった。 いや、終わらせたといったほうが正しいかもしれない。 自分の言いたい事だけを言って、直に店を後にした。 こんなに自分勝手な俺が心の中に居た事を今更になって驚きながら、俺は1人で自分の家にいた。 大学から1人暮らしを始め、社会人になってから引っ越したここは、もうそろそろ手狭になってきていた。だが、どうせまた暫く1人で居るし、本が沢山あったとしても床が抜けそうなほど古い建物ではない。 それに、もう誰かを呼ぶということも殆どないだろう。別に積田君を呼ぼうかだなんて考えたことはなかったが、それでも恋人が居た時の自分は今よりは部屋を綺麗に保っていたはずだった。 ふっと自嘲げな息が漏れる。 何だか、もうどうでもいい、という感じだった。 自分で淹れたコーヒーを飲んで、自分の為に買った本達を眺める。本は雄弁だが、こういうとき俺に何の助けもくれない。いや、俺が助けを望んでいないのだ。悲劇の主人公でも気取っているつもりかと毒づいてみるものの、傷つけてしまったのは自分の心ではなくて彼の心だったろうと今になって思った。 ――これか、俺のいけないところってのは。 感情的になるだけなって言いたい事を言ってしまって、それで勝手に終わらせて。 自分の中ではそれしか出来ないと思い込んでいた。相手がいて初めて成立するこの関係というものを、自分一人が違和感を感じただけでやめようと思ってしまう。 ガシガシ、と頭をかく。 ――先読みしすぎっつーか、何と言うか。 今までもこんな感じで関係を終わらせていたのかと思うと、我ながら自嘲の笑みも出てくるってものだ。 だが、今までと違うのは、後悔しているという事か。 怒りは確かにある。それは、作家としての彼へだ。 ――でも、積田君自身には。 彼のあんな表情を前にして、あともう少しでもあの場所に居たのなら、俺はきっと彼を抱きしめて前言撤回をしていたことだろう。それ位取り乱していたし、それ位彼が自分にとって重要な地位を占めていた。 ――あの顔はやばかったな 顔だけじゃない。夏の暑さをそのまま背負ってきたかのような汗だくの姿で、必死に自分を求めて来て。 ――あんな必死になって、俺を探しに… ――探しに? そうだ、確かに彼は俺を探していた。あんな焦った彼を俺は初めて見たはずだ。なのに俺は感情が変な所で尖っていたから気づかなかった。 ――積田君は、何か言いたいことがあったんじゃなかったのか? 必死な表情で俺を探しにきた彼は、俺の顔を見て、言葉を聞いて、どんな風に変わっていった? 思い出せ、最初の顔と最後の顔を繋ぐ彼の感情の機微を思い出せ。 ――ああ。 相当愚かだ、どうにかしてる。 彼は無表情なんかじゃない、俺が無視をしてただけだ。 ――本を片手に、俺が出版社から走り出すのは、あと数ヶ月も先の事だった。 * * * 【7】 「――え、そんな葛藤してたんですか?」 パラ、と雑誌を捲ろうとしていた手が止まり、尚志君はソファに座る俺を見上げてきた。クッションを座布団代わりにして床の上に座り込んでいた彼は、長い足を器用に組んでその間に雑誌を置いている。そこそこ身長のある彼なのに、その様子はいかにも「ちょこん」という言葉が似合っていて俺は思わず目を細めてしまう。勿論、微笑むという意味でだが。 「失敬な。俺だってね、色々悩むのよ」 「あの時はだって、俺にしてみたら岩住さんが勝手に勘違いして勝手に怒ったって感じで」 「だから今弁解のつもりで言ったんだろうが。掘り返すようで悪かったけど…って、そこ。拗ねない」 唇を少しだけとがらせた尚志君に、俺は目尻が下がる気持ちで手を伸ばした。髪をくしゃり、とやればふわりとシャンプーの匂いが香る。これは確かこの間一緒に薬局に行ったとき新装発売になっていた奴だっけ、と思いを巡らせようとして、視界がぐらりと揺らいだのを感じた。 「…別に、思い出したくないって程でもないですけど…」 「……おいおい」 どうしたんだ?と俺を押し倒すようにソファに静めた恋人を間近に見つめて、わざとらしく困ったような表情を作ってみせる。こういうおどけた表情を、尚志君はあまり好ましく思っていないらしい。今だって僅かだが眉根を寄せられた。 「……過ぎたことをいうんじゃなくって、今思ってることを言ってください。じゃないと、…」 「じゃないと?」 「…また知らないうちに勘違いとすれ違いをしちゃうかもしれないじゃないですか」 「…ああ、そうだね」 「あんな面倒くさい立ち回りは、もうごめんなんです」 「随分饒舌だなぁ。…でも、知っておいて貰いたくってさ」 「?」 ぐ、っと尚志君の二の腕を掴み自分の胸に押し込めるようにして引き寄せた。軽い衝撃と共に触れ合う部分が一気に増して、俺は自然と彼を抱きしめる。そうだ、これが自然だ。 「…俺がどれだけ思い込みが激しいのか、イコール、どれだけ嫉妬と独占欲が強いのかって事をさ」 10センチと距離のない所で尚志君の澄んだ黒い瞳に吸い込まれるようにして言葉を紡ぐ。 「…それはイコールで繋がれないと思うんですけど…」 「いいや繋がる。流石に仕事絡みになったら君を1人にせざるを得ない状況もあるだろうね。それでも俺は君が積田尚志になった瞬間に抱きしめてキスするよ」 伸びてきた前髪が彼の瞳を微かに隠す。勿体無くて梳く様に後ろへ撫で付けてやると、尚志君はくすぐったそうに肩を竦めた。 そして、うっすらと唇を開く。赤い舌がやけに扇情的で、こんなつまらない俺の話にも少しは欲情できるポイントがあったのだろうか、と不思議に思う。 「…作家のときだっていいんですよ、別に」 「おやおや……じゃ、今の君は?」 「…俺は、1人です。貴方を好きな男でしかない」 「小説みたいな言葉だ」 だが、彼の言葉は着実に俺の心を包み始める。彼の真摯な思いは、どんな台詞にだって感情をつけることができるのだろう。普段がぼんやりしているだけに、こういうときの言葉は何ものにも変えがたい。 「それに、俺は貴方がそんな事をいわなくったって平気なんです」 「そう?」 腰をぐっと引き寄せて、背中の筋をゆっくりとシャツ越しに撫ぜながら、俺は話の先を促した。微かに目尻を赤くする若い恋人は、抵抗するかのように喋りだす。 「…謙さんが、一言言ってくれるだけで」 「ああ…」 彼が求めている言葉がようやくわかって、俺はゆっくりと手を離し眼鏡を外した。そこまで悪くない俺の視力は、こんな至近距離なら尚志君にピントが合わないことはない。 「…尚志君、好きだよ。好きじゃなきゃ、あんなに一生懸命にならないさ。好きなら…」 そこで俺の言葉は途切れた。言わずもがな、暖かくて柔らかいものに唇を塞がれたからだ。 ――もう、勝手に先読みしすぎることはやめよう。 自分達の不安要素を数えるよりも、今ある充足感を大切にしなければ。 俺はゆっくりと彼の思いを受け止めながら、自分の中の燃え滾る感情を静かに爆発させようかとキスを深くした。 |