年末進行1・思いの丈も進行中。



12月になって、出版業界はついに多忙を極める年末へと各社一気に突入した。


「できてません、じゃあ困るンですよ!年末進行だって秋からあれほど口をすっぱくして言ってたじゃないっすか!」
「FAXの紙が切れたんですか?コンビニは?雪?!じゃあ今からそっち行きますから、明日の朝にはでかしておいてくださいよ、はい!ラフは携帯で!!」
「鈴木さーん!アシスタント急募!倉澤先生のところに!!」
電話に向って叫ぶ編集者の声が、あちらこちらから聞こえてくる。
パソコンに向って何かを必死に操作しながら、片手に受話器を持ち必死な形相の同業者達。


――年末、それは。

編集者が人でなくなる季節の一つである。


「――まったく、皆良くやるなあ」
そんな言葉を休憩室で一人タンブラーに入ったコーヒー片手に呟いたのは、鬼の形相をしていてもおかしくない編集者の岩住謙である。今、休憩室には彼の他に友人である瀬川しかいない。もっとも瀬川は他に仕事が立て込んでいるらしく、一刻も早くデスクワークに帰らなければならないのに帰りたくないというジレンマからか激しい貧乏ゆすりをしていた。
「…お前こそ、こんなところでのんびりしてる暇あんのかよ」
「え〜?何か言ったかな、瀬川ちゃん」
「ク・リ・ス・マ・ス・イ・ブ!だぞ!今夜!は!!お前恋人いんだろ!」
意中の人が晴れて恋人になった、という話を聞いている瀬川は、この多忙時にも岩住が恋人の元へ走ろうとしているのではないか、と思っていた。
だが、実際はかなり違うらしい。新しい雑誌だけに安定した発行部数をあげられない岩住の部署は他よりも忙しいはずだ。どうしても恋人に会いたいのなら、なんとしてでも早めに切り上げて帰るようにしているだろう。
――それなのに、なぜ。
そんな思いが瀬川にはあったのである。ちなみに瀬川には妻と一人の子供がいるが、年末進行の忙しい時期を見越して一足早い帰省をしていた。
岩住は、恋人、という単語に少しだけ反応を示したようだった。
「…瀬川、さ。俺がゲイだって知ってるよな?」
「あ、ああ」
「相手が12月の連休を普通に休める子ならいざ知らず、彼にも仕事があるんだよね…」
「ああ…………」
相手にも仕事がある。
その言葉に、瀬川はそれまで岩住のしてきたであろう最大限の努力が、今の時点では水泡に帰した後だったのだなという事を悟った。
結局、編集者に盆もクリスマスも正月も関係ないのかもしれない。
――そういうことなら、コイツの明らかに遠い目の理由も解る。
コーヒーを栄養ドリンクを飲むようにした岩住に、瀬川は心から同情の眼差しを向けた。





*   *   *





カタカタカタカタカタカタ

カタカタカタカタカタカタ

カチッ


薄暗い部屋の中でずっと鳴り響いていたタイピングの音は、歯切れのいいクリックが終止符のようだった。
キシッ、とイスの背もたれが軋む音がする。


「………終わった〜〜〜…」


天井に向って長めの腕を伸ばし、さっきまでタイピングしていた人間は、士猶辰巳から積田尚志へと戻っていった。
――あとはメールして、それで終わりっと。
直にメール画面を開いて原稿ファイルを添付し送信すると、尚志は即パソコンの電源を落とし、代わりに部屋の電気をつける。
いくら今日一日中集中してものを書いていたからといって、流石に夜になるまで机のスタンドだけでパソコンに向っていたのでは相当目も疲れただろう。尚志は自分で自分の肩を揉みながら、冷蔵庫から冷えたお茶を取り出してゴクゴクと飲んだ。水分摂取もまともにしないで書き上げたのは久し振りだった。
――最近ぐっと仕事量増えたしなあ。
卒論もこれからが本腰をいれていかなければならないところなのに、この調子だと無事に今学期の単位も取れてるか危うい、と少しだけ思う。だが、それも自分で決めたことだ。やり遂げられると思って引き受けているのだから、やってやれないことはない。そう、自分に言い聞かせる。
――今日だって、無事こうして終わったわけだし。
あとで校正のチェックが入ったりするから、本当の終わりというわけではないのだが、それだって今日のよりは随分と簡単な作業である。
ペットボトルの半分くらいをあけたところで、冷蔵庫に戻す。それから、腹の足しになりそうなものがまだ冷蔵庫に入っているかどうかを確かめた。買い込んでおいた玉子とタマネギと、何とか生き延びていたらしい舞茸を見つけて、これを炒めればそれなりに美味しくはなるか、と溜息混じりにタマネギを取り出そうとした。
が、手が止まる。

――こんな早く終わるんだったら…なあ。

仕事が今日中に終わるのだともっとはやくに気付いていれば、一人でクリスマス・イブを過ごさなくても良かったのではないかという気がしてくる。
元々クリスマスの時期から実家に帰っていた尚志にとって、クリスマスが恋人達の為の日だという概念はあまりない。ただ街中の全てがデートスポットのようにイルミネーションで彩られるのだけは知っている、といった具合だ。
だから、今回の誘いも普通に『仕事があるので』と断れてしまったのだ、と思う。
今まで付き合っていた子達とはどうやってイブを過ごしていたのかよく思い出せないが、多分クリスマスの時期には特定の人が居なかったのではないだろうか。そうでなければ、この一大イベントをスルーするだなんて普通考えられない。
――でもま、岩住さんにも仕事があるし。
編集者の年末は、作家の年末なんかよりもっとすさまじいものなのだろうと尚志は思っている。
だから、仕事が終わるか終わらないか解らない自分の為に、わざわざ時間を割いてもらわなくても…と思ったのは確かだ。それに、岩住との仕事はスムーズすぎるほどスムーズに運んでいたから、わざわざ年末進行のハードスケジュールを課す必要もなかったのである。つまり、会う口実もできなかったわけなのだが、それはさておき。
――とりあえず、何か腹に入れてから考えよう…。
ぐう、と鳴りかけた腹の虫を片手で押さえつけながら、尚志は再び冷蔵庫を開けようとした。
そのとき。
今日一日なりを潜めていた携帯が、けたたましく鳴り出したのである。
「…三木さんかな?」
先程メールを送った担当編集者からだろうか、と思いながら携帯を見ると、予想通り画面には三木、と書かれていた。
「はい」
『あっ士猶さん、三木ですけど、今からちょっと社の方に来てくれますかね?』
「え?」
『年明けのカラーページの特集作家が逃げ…急病らしくて、インタビューを繰り上げて士猶さんにしたいんですよ』
随分と切羽詰ったような声に、尚志は携帯越しに顔を顰めた。
――カラーページのインタビュー…確か、津田先生だったはず。
逃げたというのは本当なのだろうか。だとしたら大問題だ、そりゃあテンパったって当然だろう。三木が津田の担当もしていたとは思えないが、次の順番が士猶辰巳だったのならば充分頷ける話だ。
「はぁ…別に、いいですけど」
『交通費はこちらが負担するんでタクシー…』
「あ、交通費はいいです、代わりに」
『はい!』
「代わりに、何か飲み物用意しといてもらっていいですか、ね」
――本当なら、食べ物の方がもっといいんだけど。
『勿論、クリスマスイブなんで若干食べ物もありますし…』
「解りました、じゃ」
珍しく三木にお願い事をした尚志は、その返答を聞いて直に電話を切った。外出用の服に着替えてコートを着込み、必要そうなものを適当に鞄につめて外へ出る。
外の風は思った以上に冷たかったが、さっきまで原稿に熱中していて火照っていた頬には調度よかった。

――会える、かな。

多分ものすごく忙しくしているのだろうから、邪魔はしない程度に職場を覗くだけでもしてみたい。
そんな淡い気持ちを持ちながら、尚志は駅までの道を自転車で走っていった。





*   *   *




 
――20を過ぎてもクリスマスプレゼントがもらえるのだとしたら、それはきっとこんな幸せだろう。

岩住は、目の前に突如現れた贈り物を見て、心底そう思った。


瀬川と別れた岩住は、それから暫くきちんと仕事に没頭した。といっても元から仕事は早く計画的に、がモットーの岩住は自分の担当分の仕事は終えていたから、デザインとの交渉や他の担当の仕事の校了などをやっていた。それが案外沢山穴があるもので、気付いたらチーフのようにバシバシと他の編集を使って仕事をするハメになってしまったのだ。今まで別ジャンルだ、経歴が違う、と自分の経歴と切り離して考えていたのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。まったく、仕事がムダにできる人間も問題だ。
「おーい、岩住〜」
「何だ?」
一つFAXをやっと受け取れて、これをまたどこに持っていかなければならないんだっけ、と考えていた矢先に間の抜けた呼び声がかかった。思わず声にも険がこもる。
「そんな冷たい声で言うなよ、俺だって」
「ああ、なんだ瀬川か」
別の部署の人間がどうしてこうも楽々と遊びにこられるのか疑問だが、年末・休日である今日は誰も咎める人はいない。そろそろ何人か屍になる頃でもあるだろう。今まで一度も会社で倒れたことのない岩住は、そいつらの介抱役を度々になったことがあるが、今日もそれが始まるのか、と思うと頭痛の一つもしてきそうになる。
「なんだ、じゃないって。…うわ、すげえ顔」
「ついさっき会ったばっかなのに酷い言い様だな」
ただでさえ眉間によった皺が戻らないのに、岩住は更にむっとした口になった。瀬川が冗談交じりに震えてみせる。
「いや、なんつーか顔色がっていうか、表情が」
「そうか?お前に話しかけられたからだろ」
「そんな、いい話持ってきてやったのに」
さっきとは形勢逆転といわんばかりに余裕そうな表情をしている瀬川を、岩住は本格的に怪訝そうな顔で見た。
「?この年末にいい話もクソもねえだろ」
「それが、あるんだよな」
にやりと笑う瀬川はかっこつけたつもりなのだろうが、その目の下にみえるクマを確認して岩住は溜息をついた。
「んだよ、そっちの仕事の手伝いなんてしねぇからな、俺」
「な、凄いやさぐれてるだろこいつ」
「はぁ……本当だったんですね」

「………………え」

瀬川の後ろからひょっこりと現れた人物に、岩住は思わず言葉を失った。かろうじて出せた声は、さっきまで吸っていた煙草の所為か、酷く掠れている。
「こんばんは、岩住さん。拾いに来ました」
「三木が連れてきてさ、インタビュー録りをするっつってたんだけど思わず連れてきちゃって。ファンだろ、お前。もう知り合いになってたとは流石に驚いたけどさー」
なんやかんやとべらべら喋っている瀬川の声をBGMに、岩住は尚志しか見えなかった。
一人の人間だけをこんなに見詰められたのは、尚志が初めてなのではないかと思うくらいだ。
――しかし、
「…なんだよ拾いにって」
そう、尚志は拾いに来ました、と言ったのだ。
「瀬川さんに、岩住さんが荒んでるからもし屍になってたら拾いに行ってあげてくれって言われて」
咎めるような岩住の口調に、尚志は悪びれた風もなくしれっと言った。
「せ〜が〜わ〜〜?!」
「はは、実際屍にはなってなくって安心したけどさ。これでちゃんと帰れるだろ」
「は?」
――俺、別に帰りたいって言ってないよな
瀬川の驚き発言に、思わず自問自答する。
止まっている岩住から何かを察したのか、瀬川がわざとらしく咳をした。
「ムダに仕事ができるお前のことだから、きっと一晩ここで過ごす予定なんだろうと思って」
「そりゃ、その予定だったけど」
――目の前の彼が、予定が空かないって言うもんだから。
だが、今彼は目の前に居る。
しかも岩住を「拾いにきた」だなんていっている。
これはもしや、彼の原稿が出来上がったという事なのだろうか。
「でも、お前の仕事は終わっているんだろ。だったら帰っていいんじゃないか。他の奴らには他の奴らのペースってのがあるわけだし」
「…それは、そうだけどな」
岩住のペースは普通の編集者の二倍近く速く、それゆえ他の編集者に無理難題を押し付けてしまうことがしばしばあった。瀬川からしてみれば、岩住がいないほうが他の奴らにとってのクリスマスプレゼントになる、とでもいったところなのだろう。
面白くないが、感謝はしなければならない、か。
一歩間違えば仕事の虫になりかねない岩住は、フン、と軽く溜息混じりに笑って見せたが、それが単なるポーズだという事を瀬川は知っていた。
「じゃ、谷川さんに連絡してくるよ。なお…士猶くん、ちょっと待ってて」
「はい」
「じゃー俺もこれで。士猶さんもお疲れさまでした」
「有難う御座います。お仕事頑張ってください」
――よくもまあそんな外面よく会話ができるものだ。
岩住は尚志との初対面を思い出し、あの愛想が初めからあったなら、と若干苦々しく思いながらも編集長に帰る旨を告げにいった。独身貴族のナイスダンディな谷川編集長は、ほんのりと無精髭の生えた顔で「さっさと帰って寝てこい」とあっさり送り出してくれた。お役ごめんか、といつもなら憮然に思うところも、今日は有難いとばかりに笑顔で頭を下げてコートを手に取った。
「待たせたね、ごめん」
「いえ…」
いつもの、ほんのりぼやけた口調に戻った尚志を、愛しく思いその肩を抱き寄せる。
「…拾って、くれたんだろ?」
人の少ない休憩所まで歩いていって、廊下から死角になるコーナーに尚志の背を向けさせた。
「…あ、はい、でもあれは、言葉のあやで」
「知ってる。だけど、拾われた俺は、自分の家に帰れない」
「はぁ…なんですか、その理論」
「尚志君の家に行きたいな、って話」
わざとらしくウインクまできめて言うと、尚志は困ったように肩を竦めた。
「疲れた顔でそんなことされても…あ、冷蔵庫の中、何もないですよ」
「じゃ、どっかで何か買ってこう。ケーキが欲しい所だったけど、この際コンビニだっていい」
「……」
呆気にとられたような顔をする尚志に、岩住は、ん?と首をかしげた。
「何?」
「…岩住さんは、もっと凝った演出の方が好きなのかと思ってました」
”最中”じゃない限り岩住のことを名前で呼んでくれない恋人のその言葉に、思わず眉根が寄る。
その眉間を、尚志の指がそっと触れた。
――ああもう、この子は。
完全に目の前の男しか、今の自分には見えていない。
それを充分に認識して、岩住は尚志の唇にキスをした。
「メリー・クリスマス。…続きは君の家についてから、な」
「………そ、ういう所は気障なまんまなんですね…」
そんな風に冷静ぶって物を言う年下の恋人を飽きさせないように。

――今夜はもうちょっと、頑張らないと、な。

そう思って、もう一度だけ触れるだけのキスをした。



2人のクリスマスは、これから始まる。